第36話 ディアナの病室
エレメナは、ストラナ広場から南へ三百メートルほど進んだところにあるベルメルンで一番大きな病院にいた。風が吹き付け、病室の窓ガラスがガタガタと音を立てる。この時期には東にある山脈から乾いた風が吹き下ろす。そろそろ冬支度に入らねばと思った。
広場の方が騒がしい。
エレメナは病室の窓から顔を覗かせた。しかし、ここからでは建物が邪魔で広場は見通せない。また喧嘩だろうか。行商同士のいざこざはしょっちゅうだ。
──ビュン
とりわけ強い隙間風がやってきた。エレメナは慌てて窓を閉めて、椅子に座った。目の前で寝ているのは宿屋の主人タッカー・ヴォルドゥの妻・ディアナだ。
ディアナの容態は安定しているそうだが、以前として意識が戻らないままだった。左半身に大火傷を負ったそうだ。首筋から左頬にかけて皮膚がただれているのが見える。
ここに来る前、エレメナは一旦、新聞社に戻っていた。タッカーに会うためだ。しかし、サドラーの取材を受けていたタッカーはすでに帰ったあとだった。ならばと妻が入院する病室を訪ねたのだが。
看護婦に聞いたところ、タッカーはずっと付きっきりだったそうだが、今朝から姿が見えないという。
ディアナの枕元には色とりどりの花が飾られていた。赤、青、薄紫、ピンク、白……あらゆる色の花があるのに黄色だけがない。
エレメナは地下街で麻薬を売り捌いていたマディルの言葉を思い出していた。
〈たしか、親子ほど離れた妻がいると言っていた。ほとんど会話らしい会話などしたことがないんだが、あの時はちょうど死んだ妻の三回忌でな。家の祭壇に備える花を地上から持ってくるように頼んだんだ。もちろん、リグル草じゃないやつをだ。誰が、妻の弔いに麻薬を使うよ。あいつ、たくさん花を持ってきてくれた。律儀なのか何なのか、黄色だけなかったよ、その花の中には。その時にぽつっと漏らしたんだ。自分にも妻がいるが、親子ほど歳が離れているのに、全くそんな気がしないってさ。あれほど心が通じ合う人に会ったのは初めてだ。心が共鳴するのに、年齢は関係ないとかなんとか言ってた。おかしな野郎だ。屁理屈こねるのもいいが、若い女が好きなだけじゃねえか〉
無論、これだけでタッカーを麻薬の売人と決めつけることはできない。年恰好と妻のことが一致しているに過ぎない。しかし、エレメナはもう溢れてくる嫌な想像を止めることができなかった。
──ロマとタッカーは麻薬でつながっていたとみて間違いない。きっとロマがリグル草を栽培する担当で、タッカーが売人ね。タッカーは一代で財を築いたって話を聞いたことがあるけど、まさか麻薬がらみのお金だったなんて。仲間割れしてロマが放火……いや、地下街で医者をしているマディルにロマを治療させたのはタッカーだから仲間割れの線はないか……じゃ、宿に火をつけたのは誰なの?
ディアナはタッカーの裏の顔を知っていたのだろうか。エレメナと同世代だと思われる。その顔を見ていると、整った顔立ちにまだ少しの幼さを残している。なのに、夫は初老に差し掛かった男。本当に愛していたのだろうか? 幸せだったのだろうか? そして、目を覚ました後、幸せでいられるだろうか?
エレメナは、ロクに話したこともないディアナになぜか親近感を持った。
「でもあなたが愛されているのは間違いないですね。だって、このお花とっても綺麗ですもの。深い思いを感じます」エレメナは物言わぬディアナに話しかけた。
と、入り口が騒がしくなってきた。病室を出て、階下を見下ろすと、暴漢と思しき男が暴れている。
──変だ。
直感的に感じた。何かがおかしい。
よく見ると、暴れているのは一人ではない。さっき診察室に入っていくのを見たばかりの妊婦までもが、待合の病人を殴りつけている。
医師が止めに入る。しかし、その瞬間、衝撃の光景をエレメナは目にした。医師は首をはねられたのだ! 玄関から入ってきた衛兵の剣によって。
──どういうこと? わけわかんない。
あまりの非現実的な光景に足がすくんでいる。すると、返り血を浴びた衛兵が、剣を振り回しながら階段を上がってきた。
──動け。動け。
念じながらふとももを叩く。一刻も早く逃げなければ。しかし、自分が逃げたらディアナはどうなる?
エレメナは病室に入り、ドアを閉めた。空きのベッドや棚で道を塞いだ。
「ディアナさん! ディアナさん! 起きて!」
肩を揺するも、応答はない。衛兵はドンドンとドアを蹴破ろうとしている。退路は窓だけ。しかも二階だ。ディアナを抱えてなど逃げられない。エレメナは室内を見渡した。
──戦うしかない!
やっとのことで見つけたのは、ディアナの枕元にあった花瓶だ。
「ごめんなさい!」花を捨てて構える。
ドアが破られ、衛兵が中に入ってきた。エレメナはディアナのベッドを背に衛兵と対峙する。
その男は我を見失っているようだった。よだれは垂らし放題で、奇声を上げながら近づいてくる。
エレメナは花瓶を衛兵に投げつけた。頭にあたって割れたが、ダメージはないようだった。万事休す。衛兵は剣を振りかぶる。エレメナは目をつぶった。
──バサッ
倒れたのは衛兵だった。
首に割れた花瓶の破片が刺さっていた。そして、その背後に男が立っていた。エレメナたちを救ってくれたのだ。
「大丈夫か?」力強い声だった。
その顔を見た時、エレメナは言葉を失った。
「あなたは……」
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