灰村栞は博識な読書家

青山凌

灰村栞は博識な読書家

僕が読書家を激しく忌み嫌い続けることには明確な理由がある。


君はその事実に驚くかもしれない。けど、その理由には多分、すんなりと納得してくれるだろう。


◆◆◆


彼女――桃瀬文――はここ一ヶ月程でクラスメイトになったばかりの中学一年生の女の子だ。


文と書いて「あや」と読む。洒落た名前だ……と、思う。


まぁ、彼女の手に掛かればどんなキラキラネームだってしわしわネームだって、洒落た名前になる。


それが可愛い人の特権にして魔力。


白状しよう。初めて同じ教室で彼女を見つけた日から、僕は彼女に夢中だ。フォールインラブだ。最高に可愛い。


なのに、彼女は読書なんかが好きで、図書室が好きで、どうやら色んな本を取っ替え引っ替え読み漁っているらしい。


美少女が読書とは!


それは僕にとってなんとも耐え難い事実だった。


苦痛だった苦難だった……!


彼女を好きになることにこんな試練が待ち構えているだなんて。


僕は苦悩した。果たしてこの恋は実らない運命だったのか?愛を隔てる障壁はかくもエベレストのごとく高く高く、そして高いのか?


そして僕は気が狂いそうなほど懊悩して、ある行動に出ていた。


まるで熱に浮かされたように半ば理性を放棄して。


僕は死ぬ程大嫌いなはずの図書室へと機械人形のように淡々と向かっていた。


そう、もちろん。

彼女の姿を求めて――。


◆◆◆


そして場面は今に至る。


僕の目の前には麗しの桃瀬さんがいる。そして僕の名前を呼ぶ。手には複数冊の本。


一方僕は手ぶらだが、まぁそれは貸出用の本を探しに今まさにここに来たばかりだからなんです、というていで無理やり誤魔化した。


「灰村くん。灰村……栞くん。だよね」


間近で僕の名を囁く彼女の声に、僕は生まれて初めて自分の名前を誇らしく思えた。


覚えていてくれたんだ、しかもフルネームで!


そうしてぼーっと天使の囁きに浮かれていると、天使が顔をほころばせて笑った。まるであたりが春のきらめきでもまとったかのような、尊い瞬間。


「灰村くんもやっぱり本が好きなの?ほら、しおり……って名前だから。ご家庭でもたくさん読書とかしてるのかなぁって。家族みんなが本好きだから、本にゆかりのある名前なのかなぁって」


ご家庭!


今どきこんなお上品な単語を使える女子中学生がいるだろうか?


僕は感動と驚愕に内心打ち震えながら、とにかく至って平静を装って、今は全然直す必要のない眼鏡の位置を賢そうな仕草で直す仕草をした。そして平然と嘘を連ねた。


「そうだね……本は好きだよ。桃瀬さん程ではないだろうけどね」


いや、ある意味嘘は言ってない。

僕は桃瀬さん程には全然微塵も本なんて好きじゃない。桃瀬さんの好きと比べると劣る程度には僕は好きだよと言ったまでのこと。ロジック的には正しい。多分。


僕はいけしゃあしゃあと嘘つきと化した己への自己弁護を脳裏で繰り広げながら、桃瀬さんとお喋り出来る千載一遇のこのチャンスを逃すまいとぺらぺらと言葉を垂れ流す。


「うちの家族は……お察しの通り、こんな酔狂な名前を付けるくらいに、両親共々熱心な読書家だよ。女の子みたいな名前で、当人としては気恥ずかしいというか、ちょっと複雑だけど」


現実問題、僕の苦難はちょっと気恥ずかしいとかちょっと複雑とか程度のものではない。


僕は生まれてこの方、本の虫として本を喰みながら生きる生粋の読書家である両親に辟易してきた。


やれこの作品のテーマは実はこうだの、あの作者の作風の変遷がどうだのと、口を開けば空想の世界の話ばかり。


母親はやたら言葉に細かくこだわりが強くてめんどくさいし、父親はいちいち喋り方がふざけた道化じみていてめんどくさい。


そして僕がそんな両親に反発するように読書から距離を置くと「なんと嘆かわしい!」「君は人生の喜びを逸している!」とかなんとか言ってくる。


全く……なにが人生の喜びだ。大袈裟な。


それに、そんなご家庭の事情だけじゃない。


僕にはもう一つ深刻な苦悩があった。


それはなにかと言うと、それこそはまさにこの名前。


厳密にはこの名前と、プラスアルファ、眼鏡が顔の一部かってくらいどうやらしっくりきてしまうらしいこの顔立ちのせいで、僕はこの人生を通して本当に本当に本当にひどい風評被害を被ってきた。


人は必ずこの珍しい名前となんとなくの第一印象にかこつけて「灰村くんはきっと文学に縁がある人なんだ」だとかとまず決めつけてかかる。


そして更に名前の由来を「両親がひどく読書好きなもので……」なぁんて正直に説明してしまえばもう終わり。


「すごい。読書家の家系なんだ。さすが。サラブレッドじゃん」


だなんて訳のわからない理屈で勝手に納得してくる。


もちろん僕は否定した。僕の名前は僕のアイデンティティーとは微塵も関係がないし、読書には生まれも育ちも関係ない。だからサラブレッドなどではない。まず読書に才能は必要ないし血統も不要だ。ある意味とてもフェアで万人に開かれている。それが読書なのだ。(と、憎き父親が得意げに言っていた言葉を途中から引用して説得した。)


だけど、なぜだかその否定もまるで人々の心に響かないらしい。

いやあの時はうっかり父親の言葉をトレースしてしまい、その結果、読書を誉めそやすようなことを言ってしまったせいだろうけれど……、とにかく。


人は僕を十重二十重の先入観でもって勝手に読書家だろうと決めつけてくる。

それが僕には堪え難い苦痛なのだ。


その先入観は更に拡大解釈されて、挙句、漢字とか四字熟語とか得意なんだろ、勉強も出来るんだろと思われちゃうから、そういうのが巡り巡って最終的に、僕は人知れず頑張ってそれらの期待を裏切らないように努力を強いられるのだ。

全然得意じゃないのに。勉強なんて大して得意でもないのに。疲れるったらありゃしない。


あー、やだやだ。なんだよ〝晴耕雨読〟って。

そんな生活嫌に決まってるだろ。晴れの日ゲームで雨の日もゲームだよ、このご時世。そして知らねぇよ作者の気持ちなんて……。


などと不貞腐れつつ、僕は十二年という人生を苦悩と共に必死で悪足掻きして生きてきた。


これが、僕が読書家を忌み嫌う理由。

この憎しみこそがなんなら僕の人生を彩る本質なのだろう。

これこそが僕の抱える、逃れ難い、いわば宿命なのだ。


なのだ、が。しかし――。


◆◆◆


僕は大好きな桃瀬さんの手前、まず身内の悪口はぐっと自重した。

そしてついでにこの人生における葛藤やしがらみや名前にまつわるエトセトラや逃れ難い宿命についても、ぐっと喉の奥に押し込んだ。


こんなネガティブキャンペーンを好きな女の子相手にしてもなにも得はない。

僕は賢くはないが、その程度のことはさすがに理解している。

そしてついでに、もし優等生っぽく見えているのなら、その誤解はここでは活用させてもらおう。


母親曰く、「誤解を解く努力をしないというのは、嘘をついているのと同じ」みたいなことを言っていた気もするが(これも絶対なにかあの人の大好きな作家の言葉なのだ)、僕には僕の主義があり、正義があり、そして諸々の事情がある。


なので代わりに僕は、多分絶対きっとぎこちなくなっているだろうけれど、なるべく爽やかっぽいイメージで笑みを浮かべて、上記の愚痴は自重した。


桃瀬さんはくつくつと控えめにいじらしい笑い声を漏らす。そして言う。


「そんなことないよ。とっても素敵な名前だよ。灰村くんって初めて話したけどなんだか面白いね。さすが、博識な読書家って感じがする」


「…………!!」


桃瀬さんが言うとどうして同じ言葉でさえ違う輝きを放ってしまうのだろう?

今までさんざ拭い去りたいと願ったその先入観が、今は狂おしい程に愛おしい。

どうした僕の感性。いよいよバグったか?!


あぁ……僕は今、好きな女の子にド直球で褒められた!?


そして僕は決意した。


今まで見栄と意地だけでなし崩し的に賢い眼鏡男子・灰村栞をこねくりあげてきたけれど、これからは一人の天使のために本当に本物の博識な読書家であろうと。


いや、厳密には――本当に本物の博識な読書家として見えるようなるべく真剣に徹底的に振る舞おう、と。


◆◆◆


ということで。僕はまず手始めに欠落している読書家としての知識をお手軽にインプットするべく、有名な作品のあらすじをググってはレビューを読み漁り、頭に叩き込んだ。


そしてそれを計画的に彼女の前でアウトプットすることによって、効率的に僕を読書家として印象付けようと試みた。


「吾輩は猫であるは痛快な作品だね」

「人間失格のあの一文はインパクトあるよね」

「容疑者Xの献身は切ないよね」

「いちばんたいせつなことは目に見えないよね」


そんな風にさくさくと僕は僕の読書家としての実績を積み上げていった。


その度、彼女は笑い、賛同し、愛くるしい瞳をそっと細めて「うんうん」と頷いてくれた。


なんて幸せな日々。


僕らは自然、会話する機会も増え、ただのクラスメイトよりは随分と近しい間柄になった。


挨拶するだけで奇跡だった過去が嘘のよう。


今では目が合うと彼女のほうから僕に声を掛けてくれ、一緒に読書談義に耽るのが日常と化している。


凄い。凄いぞ……。


が、しかし。


清らかで純粋で麗しい桃瀬さんの口からある一言が何気なく発せられたことで、この安定の日常が少しだけ変わり始める。


それは”感動する”として有名なとある作品について、まさにその”感動する”というネットレビューからの借り物の感想を僕が述べた時のこと。


「……うん。でもね、わたしは……感動よりも、悲しかった。その時に分かり合えなかったことに」


…………ん?


「あっ、ごめんね。でも好きな作品なんだよ。それでも、どうしても悲しいって思っちゃって。わたしちょっと変かも。でも……」


そう語る桃瀬さんは本の内容を思い起こして、なんなら薄らと涙ぐみそうでもある。


あわわわわわわっ……!


「変じゃないよ。感じ方は人それぞれ! やっぱり人の死にまつわる物語だから、どうしても悲しいって思いが先行してしまうのは自然なことだと思うよ……!」


そう言ってその場は桃瀬さんをなだめたけれど、僕は内心超絶焦っていた。


もちろんそれは、目の前で大好きな女の子が泣きそうになっているという場面に直面してしまったせいでもある。


あるけれど。それ以上に。


どうして彼女は「悲しい」なんて言うんだろう?

だってあれは”感動する”作品のはずなのに?


僕は全く解せなかった。


僕は正直、かなり困惑した。


そして巡り巡った思考回路の先に、僕は仕方なく――でも、どうしようもない猛烈な衝動を抑え切れずに、一冊の本を手に取った。


内心、「キャッチーなタイトルにありきたりなヒロイン死んじゃう系の話だろ」って斜に構えて情報だけを叩き込んだ、その作品を。


僕は多分、生まれて初めて「読んでみたい」って切実な気持ちに駆り立てられながらページを手繰った。


◆◆◆


…………。


……………………。


翌朝。僕はなるべく冷静を装いながら顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べ、支度をし、通学路を淡々と歩き出す。

だけどその歩が自然と早ることを、もう自覚している。


おかしい。おかしい。


僕の理性はそう叫んでいる。


だけど僕の心臓はその理性の叫びを掻き消さんばかりに、強く強く、この胸を叩く。


おかしい。おかしい。


そう何度も己をなだめるも、それももう無意味だと僕は知っている。


今日ほどこの眼鏡という存在に感謝したことはない。

だって誰にも知られたくない。

この僕が、人様の書いた本などという空想の産物に、ここまで。

感情を掻き乱されてぐちゃぐちゃになってしまったというこの事実を。

誰にも知られるわけにはいかない。


そう、彼女以外には――。


◆◆◆


「……ごめん、桃瀬さん。僕は君に嘘を吐いた。まずはそれを謝らせて欲しい。僕はあの本を読んでなんてなかった。だけど昨日はまるで読んだみたいな口振りで感想を言ってしまった。申し訳ない」


朝のホームルーム前に桃瀬さんを見つめるやいなや、僕は謝罪と共に深々と頭を下げた。


近くにいた人達は「何事か?」とやや訝しげにこちらをちらちら窺ったりもしているが、まぁいい。


僕は恥も外聞も忘れてでも、とにかく一刻も早く自分のこの思いを吐露したかった。


勝手な話だけれど、まずは謝りたかった。そして――。


「でも昨日桃瀬さんの〝悲しい〟って感想がどうしてだろうって気になって気になって、うっかり夜三時くらいまでかけて一気読みしちゃったんだ。確かに、あの物語は悲しい。でも僕は一番に、これはかけがえのない話だって思った。あの二人の関係は恋なのかな? 僕としては、彼らが若い思春期の男女だからこそ、名前のない唯一無二の関係を築けたんだと思うんだ。だからあれは恋でもありうるし、恋には至れなかった。定義するには彼らは若過ぎた。若過ぎたからこそありえた共犯関係。だからこそかけがえのないものだって……。ごめん、結末部分をすっ飛ばしての感想というか印象だけど、僕にとってあの作品はそういうものだった。桃瀬さんのそれとは随分と違うけど」


必死で語る僕はさぞかしキモい奴だったろうに、謝罪から顔を上げた先で桃瀬さんは笑っていた。


この上なく朗らかに。優しくて柔らかに。


まるで溶けてしまいそうに甘くて愛おしい笑顔。


「…………やっぱり、灰村くんはすごいよ」


「いやいや僕なんて嘘つき野郎だし、読んでない本を批評して分かった気になってただけで……。なのにそんな本にうっかり泣かされちゃったよ」


「わたしもいっぱい泣いたよ。悲しくて、切なくて、苦しくて、でも……かけがえのない物語だった。わたしにとっても」


◆◆◆


それからも僕らの読書感想会は続いた。


驚くべきことに、あの一件以来僕は少しずつではあるが本当に読書家になりつつある。


でも僕は見栄っ張りなので、今までが全部嘘の感想だったなんてことは言ってない。僕は賢くはないけれど、やっぱりちょっと小賢しい奴なのだ。


それでもこれからは嘘はやめようと思ったりもして。


ちょっとずつ、読書開始時期などに巧みに虚実交えながらも、僕は当初読書家を激しく忌み嫌い続けていたことを白状した。


桃瀬さんは目をまんまるにして驚いていたけれど、その理由にはわりとすんなりと納得してくれた。


「ねぇ、そんな灰村くんはどうして読書をするようになったの?」


桃瀬さんは好奇心に目を輝かせて問う。


そんなの決まってるのに。


僕はドヤ顔で(でもなるべく自然さを装って)言うのだ。


「それは……人の心を知るため、かな」


そしていつかこの僕の心も君に届けばいいけど。


などと……考えてもみるが、まだこの気持ちは黙っていよう。


きっとまだその時じゃあない。


だけどいつか。

本当の読書家になれた日には。

彼女にこの想いを伝えられたらいい。

その時までにせいぜい僕は素直な人間になる練習でもするとしよう。


「ふふっ。素敵な理由だね」


いやいやなんて眩しい笑顔なんだ、桃瀬さん。


本当に……。

素敵だなんて、桃瀬さん程じゃあないよ。

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