第4話 セクハラと『逃げ方』

 更衣室で、二人の女子社員を前に、泣いているバイトの子がいた。いじめられているところに遭遇したのかと思いギョッとしたが、一人がこっちを向いた時、里中さんだと気付いて、何事かと近寄った。

「何かあったんですか?」

里中さんに尋ねる。

「ひっどいセクハラ」

もう一人の先輩、竹田たけだ美代子みよこさんが激怒しながら言う。

「セクハラの域じゃないわよ。犯罪よ!」

里中さんも腹立たしげに言う。

「本部に報告する?」

「本人の気持ちと証拠はどうするのよ?」

「ああ、そっか。アイツが持ってるんだもんね。ああ〜、もう!」


 二人の話を要約すると、こうだった。


 泣いているバイトの子、晴香はるかが、更衣室で着替えているのを、店長が盗撮したらしいのだ。たまたま、汗だくで下着まで取り替えた日だったと言う。それをネットにばらまくと脅してきた。それからというもの、すきあらば、身体を触られ、何度も身体の関係を迫られているらしい。

 動画は彼の手の中にあり、証拠として提出できるものではないし、消されてしまえば終わり。なにより、春香本人が、その動画が他の人に見られることを嫌がった。


「酷い……」


 店長は、春香が恥ずかしくて誰にも言えないことを知っていた。誰かに言えば、ばら撒くと念押ししていたからだ。

 だが、里中さんが、春香の異変に気付き、声をかけたのだった。

「そんな奴こそ『肉と骨』になっちゃえばいいのに……」

小さい声で呟いた。

「葉月ちゃん?」

「あ、いえ、なんでもないです」



 仕事がちょっと長引いて、帰りが遅くなった。

「雨宮さん、大丈夫? 送っていこうか?」

店長から声がかかって、ゾッとする。鳥肌が立つ。ギトギトと脂ギッシュな肌。いいもの食ってるんだろうな、と思わせる腹の出方。こんなのに身体の関係を迫られたら、吐きそう。春香もよく我慢してるよなあ、こんなのに身体のあちこち触られて……。


 そんなことを考えて寒気がしていた時、

「お疲れ様でした〜」

丁度、秀一郎が帰り支度をして出てきた。

「何? 何かありました?」

店長と私の顔を見て、ちょっと間があって、秀一郎が私の方を見て言った。

「あ。雨宮さんも帰るんだ。よかったら送るよ。今日、俺、車だから」

「あ。ありがとうございます。じゃ、店長、お疲れさまでした、お先に失礼します」


 バタン


 秀一郎が車に乗るなり、

「あいつには気をつけた方がよさそうだ」

と言った。

「そうみたい」


 私は、今朝聞いた話を、秀一郎に話した。

「最低だな!!」

こんなに怒っている彼を見るのは初めてだった。


 本人が警察に被害届を出すしかないのだけれど、証拠が証拠だけに、なかなか言い出しにくいのだろう。

 卑劣な行為にはらわたが煮えくり返っても、周りの人間にはどうすることもできない。なんの力になってやることもできない、自分の無力さを思う。



「今日は何も作らなくていいよ」

「え?」

「適当に買って帰ろう。葉月も疲れてるだろ」

確かに。そんな嫌な話を聞かされて、そんな男の傍で仕事をして、流石に精神的に疲れ切っている。秀一郎の優しさに甘えることにした。



 油断した。


 春香のことで頭が一杯になっていて、自分の置かれている状況を忘れてしまっていたのだ。

 気がつくと、私はまた、あの曲がり角にいた。


 このまま、何度も何度も、この夢に捕まり続けるんだろうか。疲れている日も、嬉しかった日も。うんざりした。


 ここから逃げる……。一度……試してみるということはできるのだろうか? チャンスが3回あるのであれば、1回だけ試してみて、それから2回目以降を考えることはできるのだろうか?


 私は、そっと、聞こえるか聞こえないかという音で4回、門戸を叩いた。


「決めたのか? 随分小さい音だったが。」

この老人は随分と耳がいいらしい。

「あの、中がどうなっているかは教えて貰えないんですか?」

「真っ直ぐ入って左だ。」

それはそうだろう。方向からしたって、そうに決まっている。

「もう少し、何か……」

「これ以上は無理だな。行くのか? それとも行かんのか?」

「どう……すれば……いいんですか?」

「行くなら教えてやろう。行かんなら、ここは閉める。別の日に、もう一度、お前さんがここに来て、門戸を叩くまで開かんよ」


 迷った。もう一度、戻って考えようか……。秀一郎に相談した方がいいだろうか? でも、次に、この夢を見るのがいつになるのかわからない。それに、行かなければ、また、目が覚めるまでここに囚われていないといけないのだ。


「行き……ます」

「いいんだな?」

「はい」

「そうか。では、おさらいだ。この宿の表玄関は、真っ直ぐ中央まで入って左。そこまで、誰にも見つからずに行け」

「は、はい」

怖い……怖い……本当に行けるのだろうか?

「じゃあ、お前さんの靴を貸せ」

「靴……ですか?」

「わしがそれを下駄箱に入れて、代わりに鍵を持ってくる。それで、自分の靴を取り出せばいい。そこまでできれば、お前さんは堂々と暖簾をくぐって出ていけばいい。それだけだ」 

老人は随分と簡単そうに言う。そんなに簡単に行くのだろうか?

「それだけのことだ……」

私は、覚悟を決めて、自分の靴を差し出した。


 しばらくすると、老人は1枚の板を持ってきた。

「これは?」

「下駄箱の鍵だ」

ああ、そうか。居酒屋や銭湯で時々見かける、あれか。裏返すと下駄箱の番号が書いていた。

「いいか。途中、お前さんが見たことのないような恐ろしい景色や、見たことを後悔するような物が目に入るかもしれん。が、声を出すな。声や音を立てれば、たちまち見つかって、お前さんは肉と骨だ」

「はい」

ここまできたら、躊躇っている暇はなかった。殺されてたまるか。何としてもここから逃げ出してやる。


「よし、行け」

中の様子をうかがっていた老人が私に合図した。

 私は、グッと鍵を握りしめ、宿の中に入って行った。

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