第一章 ホムスビの娘【6】

 

 ハネヒコはいつもアヤに「変わっている人間がこの世には必要なのだ」と言って聞かせてくれた。

「兄様だけがそう言ってくれる。わたしなんて嫁げるかどうかもわからないし、女王にもなれない」

 三歳上の頼もしい兄をアヤは心から慕っていて、首長である父と同じくらい誇りに思っていた。

 アヤがホムスビであることがわかったのは、生まれてまもない頃だ。アヤの母は女王を幾人も輩出した霊力のある家系で、母親自身も強い能力を持っていた。赤子だというのに乳も飲まず激しく泣き続けるアヤの小さな腕から炎が上がり、火の女神カグチが「……我が子よ、ホムスビの娘よ」とアヤを呼ぶ声を聞いたという。

 ホムスビと聞いて、まずアヤの母は青ざめた。

 他の里で百年少し前にホムスビが生まれたが、カグチ自らが顕現することはなかったという。そのホムスビも鉱脈の在り処を探り当て、たいそう重宝されたが、気を病んで早逝したのだ。

 ホムスビは鉱脈や玉石だけでなく、人の気や霊魂のにおいも嗅ぎ分ける。この世ならざるものと精神で繋がるからなのか、あらぬ幻覚に取り憑かれて狂ってしまう者が多い。

 さらにホムスビの中にも特異体質で、身体から炎が出る者が生まれることは伝承の中だけで知られていた。カグチの恩恵を強く受けたから、女神も惜しんで手元に置きたがるので、いずれは炎に身体を焼かれて死んでしまう。

 アヤは成人を迎える前に、カグチの元へと帰ってしまう運命を持った少女なのだ。しかし両親も兄もアヤをことさら特別扱いすることはなかった。激しい感情を覚えるたびに身体から炎を発し、腕も脚も火傷だらけになってしまうアヤを辛抱強く愛情を持って育てたのだ。

 霊力が高く死者の霊魂も嗅ぎ取ってしまう能力にも随分と苦悩した。人には見えぬものが見えてしまう恐怖があったし、意識すればするほど敏感になってしまう。ハネヒコがあえてアヤを野山に出させ、狩猟を教えたのにはわけがあった。さまざまな強いにおいをかいで、身体を慣らせようとしたのだ。森も山も険しく、そして人智を超えて広い。狭い世界でふさぎ込むよりはましであろう。アヤも姫らしくふるまうよりも、活発に野山に出る方が性分に合っていた。

「嫁がずともよい。女王にもなるな。俺と一緒に八又門やまとを守っていこう。ウカだって喜ぶ。お前は我々の神懐姫かむなつひめだ。なるべく怒るな──長生きをせよ」

 鳶色の短髪と群青色の瞳を持つハネヒコは、いつも豪快に笑う。その笑顔にアヤは無性に安心感を覚えるのだ。内向的だという自覚はあったし、後ろ向きなことばかり考えてしまう性分ゆえに、兄の明るさが眩しかった。

 姫君らしいことは一切苦手で、霊力があるくせに呪術も上手にできないから女王候補としても中途半端だ。他の里や有力な豪族の元へ嫁いで、小さな八又門やまとの後ろ盾を強固にするにも、手足に火傷の痕がある娘など価値があろうか。だいたい器量だって、気立てだって良くはない。

 おのれは確かに伝承のホムスビであるが、なにも特別な存在ではないことをアヤがいちばん理解していた。母が聞いたというカグチの声も、アヤは一度も聞いたことがない。もしカグチがアヤの目の前に現われてくれたら、なぜ自分をホムスビに選んだのかと尋ねてみたかった。もっと上手に能力を使える者に授けた方がましであったろうに。

「ウカが姉様になるのは嬉しい……」

 この面倒な存在を肯定してくれる父と兄、そして里の民だけがアヤのすべてだ。

「ああ、あいつも喜んでいる。それがなあ、婚礼の衣装に何色の腰紐を締めるのか教えてくれんのだ」

 幼い頃からハネヒコが思いを寄せていた豪族の娘ウカとの婚礼まで、あと数日に迫っていた。こっそり婚礼衣装につける腰紐の色は茜色にしたのだと教えてくれた花嫁の、上気してひだまりのように美しいウカの笑顔を思い出す。アヤにとっても姉のような人だった。

「……わたしは聞いた。とても楽しみだ」

「なんだと、すっかり姉妹だなあ!」

 嬉しそうに笑う兄の破顔した顔が忘れられない。もうすぐ祝言を上げて、幸せな夫婦になるはずだった。きっとすぐに子供が生まれて、アヤも父も民たちもそれを喜ぶはずだった。

 兄は幸せになるはずだった。それがどうだ、今はアヤの目の前で血を流して息絶えている。

 瞳孔が開いたまま虚空を見つめ、けしてもう優しく笑いかけてくれない。その隣で同じように絶命している父の姿も。

 民たちと逃げずに、ここにいればよかった。そうしたら、この身体を燃やして、ふたりが逃げおおせる時間を稼げたはずだったのに。父と兄を守るためなら、死んでもかまわなかったのに。

 必死で止める民たちを振り切って、アヤは宮へ戻った。父は首長としてオグト皇子と交渉をすると言ったが、嫌な予感がしたのだ。数年前から黒の国はその侵略の手を強めていて、なんとか耐え忍んで来たけれど、次はきっと里が滅ぼされると民が怯えはじめた。それで陰陽師たちが山の一角に、赤の国で生まれた者しか入れぬ結界を各里に張ったのだ。

 せめて民たちは逃さねばならないと思ったし、不吉なにおいがずっと鼻にこびりついていた。そうしてアヤの予感は当たり、高御座たかみくらの間で父と兄が殺されている。

「そなたがホムスビか……」

 白銀の鎧をまとった武人は、おそらく黒の国の壱の君オグト皇子であろう。苛々としてアヤに問うて来た。アヤは頬に傷のある大柄な武人に腕を抑えられ、動かぬ父と兄の名を叫んだ。

「父様、兄様! 嫌だ、嫌です! ────っ! 離せっ!!」

 涙が頬をつたい、視界を覆う。共に八又門やまとを守ると約束した。兄はもうすぐ祝言で、あれだけ喜ばしそうだったではないか。

「兄様、ウカを残して逝ってしまうのか! ウカは──私はどうなるんだ……兄様、父様……」

 武人は咆哮して泣くアヤの肩を床へ押し付け、耳元で小さく「今はこらえよ」と言った。

 その物言いが侮蔑ではなく憂いをおびていたので、アヤは驚いて武人を見る。武人は表情こそ崩さなかったが、しっかりとアヤの目を見つめていた。

 この武人は少なくともアヤに危害を加えるつもりがなく、大人しくさせたいのだと理解したが、とても我慢ならない。

 オグトの傲慢な物言いに、はらわたが煮えくり返りそうになっていたのだ。皮膚の下の血管からふつふつと熱いものが込み上げて、燃える気配がする。身体に炎があらわれる予兆だった。

「答えよ! カグチの愛娘なれば、どのような美姫かと思えば……小汚い娘ではないか」

「────黙れっ! お前も敵国の皇子なら、私を殺せ!」

 オグトが自分に向けて剣を突き立てた瞬間、身体を焼こうと考えた。いつも思い通りにならぬ体質だったが、我を忘れるほど怒りを感じている今なら容易に炎が出るだろう。前々からあと一回でも身体から発火したら、アヤは死ぬだろうという予感があった。オグトもろとも、根の国へ連れて行ってやるつもりだ。

「ほう、威勢だけは良いな。我らに弓引いたことを後悔させてやりたいが、そなたを連れて帰れと父上がおっしゃるのでなあ。こんな掴む肉もない娘を抱きたいとは、父の好色にも恐れ入るぞ」

「皇子、そろそろ撤退の準備を」

「まあ、待て。よくよく見たら、そなたの容姿は悪くない。ふふ、まだ処女か?」

 アヤの細い顎を掴み、オグトは意地悪く言い放つ。ぞっとしながら、アヤは息を飲み込んだ。

「……オグト皇子、時間がありませんぞ。娘は生け捕りせねば!」

 アヤの肩を押さえつける武人の手に力がこもる。どうもこの武人はアヤを守ろうとしてくれているらしかった。アヤは憎しみを抱きつつも戸惑い、呼吸を整える。

「黙れ、オジカよ。父へ献上する前にわたしのしとねへ参らせようか。どうだ、娘よ。そなたの父と兄を殺したわたしに汚されるのは、それは我慢ならぬだろうなあ。

 だが、わたしとて黒の国の壱の君なのだ。水の神ミツハの末裔と、火の女神カグチの娘の間に子が生まれたら、なかなか面白いと思わぬか、え?」

 ちろりと舌舐めずりをして品なく嘲笑うオグトへ、アヤは唾を吐きかける。

「……もしそうなったら、殺してやる! お前の身体を焼いて、わたしも死ぬ!」

 とうとうアヤは叫びながら、その腕に炎をまとわせた。あまりの熱さに耐えかねて武人が手を離したので、アヤの姿に怯んだオグトへと掴みかかる。

「ぐわぁっ!」と呻き声を上げたオグトがアヤの腕を振り払おうとするのにも必死で食らいつき、身体がもっと燃えるようにと祈った。

(カグチさま、アヤはあなたの元へ参りますから、この男は根の国へ連れて行ってください)

 アヤは力を振り絞って手を伸ばし、オグトの顔を掴む。オグトは慌てて顔を背けたが、あっという間に顔の半分は炎に包まれた。

「──っ! 皇子っ!!」

 華奢なアヤを武人は思い切り蹴り飛ばし、皇子から引き離す。アヤは悲鳴を上げて倒れ、蹴られた腹をおさえた。内臓が飛び出そうなほどの痛みが身体中を走った。

「ああ、顔が……わたしの顔が! オジカ、助けよ、オジカっ!」

 顔を抑えながら転がるオグトへ、武人は几帳にかかる布を引っ剥がしオグトの顔にぶつけ炎を鎮める。何度かその動作を繰り返し、やっと炎はオグトの顔から消えた。

「おい、なぜだ、今はおさえよと言ったではないか!」

 ひいひいと小刻みに震えるオグトの肩を抱きながら、武人はアヤに投げかける。

「……今でなくて、いつこいつを殺せるんだ。お前はわたしがそれで大人しくなるとでも」

 痛みで腹のあたりが痙攣を起こしながら、アヤは毅然と言い放った。この武人は話のわかりそうな男だが、敵は敵なのだ。

「殺せ、オジカ! このバケモノを斬り捨てよ!」

「……なりませぬ。このオジカ、皇子の腹心であると同時に大王の下僕。ご命令は守りませんと」

「馬鹿を申せ、この私を、翠流すいりゅうの君を殺そうとしたのだぞ! 殺せ、殺さぬか!」

「……なりませぬっ!!」

 オジカという名らしい武人はオグトを大声で遮ると、アヤにずかずかと歩み寄り、思い切り頬をはたいた。

「小賢しい真似を! 皇子の御顔に火傷を負わせよって、覚悟はしておろうな」

 アヤは口の端が切れるのを感じ、武人を睨む。

「大王の御前で同じことをしてみよ。今度こそ命はないと思え」

 武人から衣の襟を掴まれたが、どこか本気ではないようなそぶりであった。まるで不可解で、アヤは顔をしかめる。

「……さあな、約束はできない。息の根ならば、今止めろ。そんなにホムスビは珍しいのか。どうせ百年おきに生まれて来るぞ」

 武人は「──愚かな娘よ」と静かにつぶやき、アヤのみぞおちを強く打った。アヤは小さく声を上げて、気を失ってしまう。そこから目覚めた先のことは、思い出すのもつらい。

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