第5話

 翌朝、その時の煙草の味を思い出しながら、和博は鏡に映った自分の髪形を整えた。

 あの後、いつ、どうやって帰ってきたのか分からない。自宅への道中もまるで記憶になかったが、あの煙草の味だけはしっかりと覚えていた。美味い煙草だった。

 舌下にはまだ、その余韻があるような気がして、彼はしきりに唾液を啜ってみた。

「仕事行くの? 昨日遅かったんでしょ?お休み貰ってもいいんじゃない?」

 台所から、妻の声がする。それを聞き流し、鏡に映った自分をじっくりと眺めた。顔や目が溌溂としている。眠気や気怠さは微塵もない。彼は深呼吸をして、幸福的反芻を始めた。

 一つずつ、一つずつ、間違いのないものを確かめていく。昨夜、ほんの数時間前まで宙ぶらりんであった自分の平穏。しかしそれは、今や再び自分の手中へきれいに収まっている。

 マンションに息子、そして妻。このネクタイだってそうだ。

 そして何より、医師としての立場を失わなかった。その証拠をつかもうと、和博はコートのポケットに手を伸ばした。

 何も入っていないポケットの中、指は虚しく空をかいた。

 名札はどうした― 名札を熱し、傷口を塞いだ後どうしたか、どれだけ時間をさかのぼってみても記憶がない。昨晩から戻ってくるのはニコチンの苦々しい旨味だけ。

 名札はまだ、あの老人の―

「ねぇ、聞いてる?」

 台所から妻が顔を出したのを、和博は鏡越しに見つめ返した。

 和博は振り返り、にんまりと笑いながら言った。


「今夜は夜勤になりそうだ」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今夜は夜勤になりそうだ 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ