第二節 クローバー炭鉱のストライキ①

 朝日の眩しさでヨルカは目を覚ました。安堵とも落胆とも取れぬため息をついた彼女は、ベッドの上で身体を起こして、汚れたまま放置されている窓の外を見た。この部屋の窓からはいつも炭鉱の煙突が煙をもうもうと吐いているのが見えるのだが、今日は見えない。煙は出ていないようだった。

 しばらくぼうっとしていると、ヨルカは右手に違和感を感じ始めた。手が暖かく、柔らかい何かに包まれているような気がした。まるで、誰かに右手を握られているような感覚だった。彼女は、自分の左手で右手を強く掴んだ。


 ヨルカは寝室を出て居間へ行き、それから台所へ入った。狭い調理場では既にエレンが朝食を作っているところだった。ヨルカは彼女を手伝い始めた。

「今日くらい良いのに。あんな大きな事故だったんだから、無理するんじゃないよ」

「無傷だったんだから休む必要もないでしょ」

 ヨルカは決して休みたくないわけではなかった。ただ何かしていないと右手の温もりが蘇りそうな気がしただけだった。彼女は食器棚から皿を取り出した。

「でも煙をたくさん吸い込んだらしいじゃないか。医者も安静にしろって言ってたろ」

「煙突の煙が見えなかった。昨日の今日だし、休業になったのかな」

 ヨルカが話をはぐらかしたのに気づいてか、母親はため息をついた。

「それがね、さっき外で近所の奴らが集まって話してるのをこっそり聞いてたんだけど、炭労連がストライキをやり始めたんだってさ。ピケが選炭所を塞いでるから、採炭もストップしたって」

 母親は鍋の中のスープをかき混ぜながら言った。

 ストライキ参加者らが選炭所をピケで包囲しているのは、選炭所が機能していなければ石炭を出荷可能な状態にすることができないためだ。原炭ポケットに貯蔵できる石炭には限りがあるため、スト破りの坑道労働者が働いたとしても採掘できる量が限られてくる。そのため坑道労働者は選炭所が機能していない限り坑内で働く意味がない。また、スト以前に選炭した石炭が尽きれば出荷自体が完全に停止するので、炭鉱会社も打撃を受けることになるのだ。

「ここ数年うちの業績は落ちっぱなしだし、来年からの給料のこともあって、不満が溜まってたんだろうよ。それが今回の事故で爆発したってとこだろ。だが、ストライキなんかやって何の意味がある?無意味に飢えるだけさ……」

 ヨルカは黙ってパンを切っていた。

 来年の春から炭鉱における全ての仕事の賃金が一割ほど引き下げられる予定になっていた。坑道労働者は日給が5オロから4オロ50プラタに、選炭所は2オロから1オロ80プラタになるという。

「噂では」エレンは再び口を開いた。「クローバー山の石炭はもう殆ど取り尽くしてしまったんじゃないかって言われてるだろう?事故が起きた区画は、新しく通路を作ったのに効率を優先して通気坑を新設しなかったせいでガスが溜まりやすくなってたんじゃないかってみんな話してたよ。利益優先であたしたちの安全が無視されてたんだとしたら、腹が立つが事故が起きたのにも納得がいくね。でもそういうもんじゃないか。こんな身分に身を落とした自分や親を恨むしかない。あんたも、憎みたいならあたしのことを憎んだって良いんだよ。こんな世界に産み落としやがってって……」

 ヨルカはどう返せばよいか分からなかった。何を言おうと彼女にやすらぎを与えることはできそうになかった。母親が手を差し伸べてきたので、ヨルカはスープを入れるための皿を彼女に渡した。

「わたしはこの後ちょっと出かけるけど、あんたはうちでおとなしくしてな。折角生きて帰ってきてくれたんだ。どうせ働けないんだし、今だけはもしかしたら死ぬかもしれないなんて考えないで済むんだからね」


 ヨルカはエレンの言う通りにしなかった。彼女は母親が出かけた後家を抜け出し、炭鉱へ向けて大通りの長い坂道をまっすぐ歩いていったのである。彼女は口から白い息をはあはあと荒く吐き出し続けたが、速度を緩めることはなかった。その表情は暗く険しかった。

 ヨルカ自身、初めのうちは母親に言われた通り家で大人しくしていようと思っていた。

 エレンが出かけた後、エイミーの手伝いを本人に断られてしまった彼女はベッドに腰掛けてぼうっと窓の外を見つめていた。しかしそれも長くは続かなかった。右手に再びあの感覚が蘇ってきたからだ。その柔らかな違和感に苛立ちを覚えた彼女は、太腿に肘を置いて、組んだ手を額に当てて俯いた。

 目的の場所へ向けて歩きはじめてしまえば、違和感はすっと失せていった。


 スト参加者――その多くが炭労連加入者だったが、中には組合に加入していない者もいた――の要求は三つあった。一つ目は減給を中止にすること/二つ目は坑道労働者の日給を5オロ50プラタに、選炭所労働者の日給を2オロ20プラタにするなど、全ての仕事の賃金を現状から一割引き上げること/そして三つ目は、坑内における事故防止策に取り組むことであった。

 各選炭所の入り口にはそれぞれピケがバリケードを張っており、スト破りや警官と対峙していた。ダニエルは警官としてその場にいた。

「だから、こっちの要求をのまねえ限りはここを梃子でも動かねえって言ってんだ!」

「気持ちは分かりますけど、仕事をしないと困るのは貴方たちの方でしょう?」

「気持ちが分かるだと!アンタここで働いたことあるのかね?無ぇならアタシらの気持ちなんか分かるはずもない!」

 女性の労働者は後ろの選炭所を指さしながら、ダニエルに食ってかかった。ダニエルは剣幕に押されて怯んだ。

「レイクサイド!貴様の仕事はお喋りをすることか?」

 ユリシーズの叫ぶ声が後ろから聞こえたので、ダニエルは振り返った。彼はライフルを肩に担いで苛立ちの表情を浮かべていた。他の警官らは皆、ピケを一人ひとり列から引きはがそうとしていた。武器は使っていない。選炭所を囲んでいるだけの無抵抗なピケを攻撃できるほど、炭鉱警察は外聞に対して無神経ではないらしい。だがピケ側が警官に対して少しでも暴力的な行動に出れば、たちまちライフルを構えるだろうことは明らかだった。

「無理やり引き剥がしたところで何になるんですか!」

「そうやってくっちゃべってるほうが無駄だろうが!」

 ユリシーズはぴしゃりと言い放った。

 ダニエルがため息をついてそっぽを向くと、別の選炭所が目に入った。彼はピケの列の前にヨルカがいることに気づいた。彼は眉根を寄せながら彼女の様子を観察した。

 ヨルカはピケの列の中に入っていった。

「レイクサイド!聞いているのか」

 ユリシーズが声を荒げた。ダニエルは彼の顔を見た。

「分かりましたよ」

 ダニエルはピケの列に近づき、一人の労働者の肩を乱暴に掴んだ。

「埒が明かねえ!さっさとここから出てけ!」

 彼は怒鳴りながら、相手を列から引き剥がした。ユリシーズは彼が自分の思い通りに動いたことに眉根を寄せたが、黙っていた。



◇◇◇



 ストライキが始まってから数日が経った。

 ヨルカは選炭所前のピケラインに並んでいた。選炭所の入り口を塞ぐ人間の壁の前にスト破りの女性たちが集まっており、その更に後方ではライフルを持った警官数名が睨みを利かせていた。

 警官らは今のところ静観しているようであった。スト破りがピケを突破するのを待っているようだ。

 初めピケはお互いの腕を背中で組んで列をなし、スト破りに対して立ち去るよう要求した。しびれを切らした数人のスト破りがピケの間を通り抜けようと試み、ピケに押し戻された。列に突っ込むスト破りの数が増え、それを押し戻すピケの力も強くなっていく。徐々に荒い罵声が飛び交うようになってきた。今のところピケ側からの暴力行為は無い。スト破りが負傷すれば警官は報復と沈静化を目的にピケを攻撃するだろうからだ。だが状況は徐々に不穏さを増していく。

 ヨルカは警官のほうを見た。少しずつこちらに近づいている。スト破りに加勢する気かもしれない。

「私たちだって生活があるんだよ!何で分かってくれないんだ!」

 一人のスト破りの叫びが辺りに響いた。

 ヨルカはピケの列の前に出て、彼女と正面から向き合った。彼女は大きく息を吸った。

「あんたたちの事情は痛いほど分かる!何故なら私たちもあんたたちと同じだからだ!」

 ヨルカは叫んだ。

「同じだって言うんなら分かるだろ!そこをどけ!」

「それはできない!あんたにもわかるだろう?」

「分かんねえよ!邪魔なだけだ!」

「いいや分かる!あんたが仕事をしたいと思うのは、今すぐに働かないと生きていけないほど余裕が無いからだ!そうだろう?」

 スト破りは沈黙した。

「ならあんたも私たちと同じようにこう考えているはずだ!もし生活がより良くなればどんなにか良いだろうと!黙ってたら状況が良くなるのか?そんなことはあり得ない!なら戦うしかないだろ!」

 ヨルカはスト破りたちの顔を見回した。ヨルカの後ろから同意の声がいくつも上がった。

「あたしが働かなかったら夫や子どもはどうなる!飢え死にしろってか!」

「夫なんざ放っておいても構わないだろう!あんたの家族である前に一人の大人なんだから、放っておけば勝手に飯を食うさ!子供のことが心配なら、ここで黙って会社の言うことだけ聞いた結果やってくる未来のことを想像してみろ!アンタは会社の横暴を許した結果、ついに子供が飢え死にしたって、そのときも黙ったままなんだろうからな!それとも、その段になってようやく抗議するってのか?もう子供は永遠に帰ってこないのに!」

 彼女は再び息を吸い込んだ。冷たく新しい空気が肺を満たした。

「ここで黙っていても今より良い未来は絶対来ない!ただ徐々に首を絞められていくだけだ!本当に自分自身や大切な者のことを思うのなら、ここで黙ってちゃいけねえ!そうだろう?」

 ヨルカは目の前のスト破りを真っ直ぐに見つめていた。彼女もまたヨルカを見つめていた。しばらくの間辺りを満たしたのは沈黙である。

 目の前の女性は大きく息を吸い込んだ。ヨルカは自分の心音がひときわ大きく聞こえた気がした。

 スト破りはヨルカに片手を差し出した。ヨルカは目を見開いた。そして彼女の手を両手で包んだ。他のスト破りの中からもいくつかの拍手が聞こえた。


 全てのスト破りがヨルカの言葉に耳を傾けたわけではなかった。依然として何人ものスト破りがピケと対峙していた。

 スト破りの女性たちに加勢している男の労働者が前に出てきた。ヨルカは彼と対峙した。

「ヨルカ・フロントライン!きさまはあのエレン・アイスバーグの娘だろう?お前だって母親と同じで、以前は組合のことを毛嫌いして会社に尻尾を振っていたくせに、今になって急に組合に味方するたあ、どういう了見だ!」

 ヨルカの後ろでどよめきが生まれた。エレンの娘?エレンって?昔ここであったストライキで先頭に立ってた女だよ。今はアイスバーグじゃなくてフロントラインだよ。選炭婦だったけど、酒飲みでろくでなしの旦那と結婚して坑婦になったってよ。あんときゃカリスマみたいな存在だったけど、今じゃただの母親だよ。

「そうだよ!わたしの母親はエレン・フロントラインだ!母さんは組合が嫌いだし、母さんの言葉を聞いて育ったわたしも組合が嫌いだ!言っとくけど、別に今だってわたしは組合の味方をしてるわけじゃない!組合に何かしてもらった覚えも無いからね!ただ私は、自分自身が地獄を見てきて、私たちの安全が脅かされている現状には抗議しなくちゃならないって思っただけだ!」

 彼女は右手を爪が食い込むほど強く握りこんだ。まるで幽霊の手を掴もうとするかのように。

「私はあそこで……名前も年齢も性別も、そして顔さえも知らない死体の手を握った。爆風が襲い来る直前まで生きていた人間の手だ!そいつにはそいつの人生があったはずなのに、あの瞬間に何もかも奪われてしまった……。私はもう、そいつの手を握る前までの私には戻れないんだよ!!」

 ヨルカはしんと静まり返るピケを振り返った。

「わたしがあんたたちの味方をするのが信じられないってんなら、これから全部行動で示してやるから、ちゃんとわたしを見てろよ」



◇◇◇



 ヨルカが家の扉を開くと、居間のテーブルにエレンが座っていた。彼女はヨルカを待っていたようだった。

 エレンは立ち上がり、ヨルカに詰め寄った。

「どうしてストライキなんかに出るんだ!」

 エレンは怒鳴り声をあげた。ヨルカは母親を睨みつけるだけだった。彼女はなおもまくし立てた。

「仕事が無くなったらどうするんだよ。アンタだけじゃなく、家族の私達だって……」

「じゃあ今の生活のままで良いっての?私があそこで死んでても良かったって?」

「そうじゃない。このあたしが、お前の母親が、アンタが死んだら良かったなんて言うと思うか?このままストライキに出るなら、今度こそ銃弾にぶち当たるかして死んでもおかしくないって言ってるんだ!」

「そりゃそうさ。でもこのまま黙ってたって、いつか真っ暗な地下で死ぬかもね!わたしは死ぬなら地上が良い!」

「抵抗したところで潰されるだけだ。意味がない!大人しく言うことを聞いていれば会社だってそこまで酷い扱いはしてこないさ!」

「もうとっくの昔に耐えられないほど酷い扱いをされてるじゃないか!それがこの結果だ。母さんはこれ以上耐えられるっていうの?」

「耐えるとも。だって父さんはあんな感じだし、あたしたちが堪えなきゃ誰がチビどもを養っていくっていうんだね!アンタも姉貴なら兄弟のことをかんがえてやりなよ!」

「考えてるよ!考えてるから戦ってるんじゃないか。あいつらが働くことになったとき、私たちと同じ苦しみを経験させたくない!母さんだって、昔は……」

 エレンはヨルカの両肩を掴んだ。ヨルカは肩が軋んだような気がした。

「昔アンタと全く同じことを考えて同じことをしてたあたしが、ここでこうやってアンタに説教してるってのがどういうことか、分からないってのか?」

 母親は絞りだすような声で言った。重い沈黙が降りた。



◇◇◇



 石造りの白くつるりとした寺院の壁に、人々の歌声が反響している。ステンドグラスを透過した七色の光が彼らの顔にうつくしい化粧を施していた。賛歌が終わると、神官が演壇に立って口を開いた。

 ヨルカは木製の黒いベンチに座って、神官の言葉に静かに耳を傾けていた。ここはリエブレの労働者のためのアンドロ教寺院だった。神官はドラコだったが、集まっているのはリエブレだけだ。

 礼拝が終わると、ヨルカは寺院から出た。彼女は両脇に同じような造りの炭鉱労働者の家が立ち並ぶ道を歩き始めた。

 次第に周辺の人影が薄くなっていった。

「ヨルカ」

 誰もいないと思っていた彼女は驚いて肩を跳ねさせた。周囲を見回すと、家と家の間の薄暗いところにダニエルが立っていた。

「やっぱりいた!礼拝の後なら確実に会えると思ったんだ……」

「何しに来たの」

「このあと少し時間をくれ。どうしても話したいことがあって」

 彼は小さな声でそう言った。ヨルカは一瞬考え込んだ。ヨルカは彼が他の警官に混じってピケを追い出そうとするのを何度も見ていた。彼女はしばらく考え込んで、「分かった」と短く答えた。


 路地裏に積もったままにされている雪には、二人以外の足跡が見当たらなかった。人気のないその場所で、ダニエルは口を開いた。

「俺たちはウィリアム・フェアリーテイルという人の家に、炭鉱病院の備品だった薬品を隠した」

 ヨルカはダニエルの口にした名前に眉をひそめた。ウィリアム・フェアリーテイルはリエブレ移民の一人で、炭労連の代表を務めていた。ヨルカも彼の名前くらいは知っていたが、母親が組合を毛嫌いしていることもあり、ほとんど交流は無かった。

「どういうこと?」

「つまり、そのフェアリーテイルって人が病院から薬を盗み出して売ろうとしたってことにしようとしてるんだよ。炭労連の役員をしている人間がそういう形で逮捕されたら、ストライキを続けづらくなるだろ?」

 ヨルカは僅かに後ずさりながら眉をひそめた。

「どうしてそれをわたしに言った?もし本気でわたしたちの味方をするつもりなら、あんたが黙ってあの人の家から薬を持ち出せば良かったはずだ」

「どこに隠しているのか俺は知らないんだよ。君はリエブレだから、多分彼とは面識があるはずだと思ったんだ。俺が勝手に持ち出そうとしたり彼に話したりするより、君を通して伝えてもらったほうが信頼してもらえるんじゃないかと」

 ダニエルは両手を彼女に見せながら釈明した。

「分かった。信用するよ。このことはフェアリーテイルさんに伝えておく。でも、その薬品はどうするべきなの?下手に隠すだけじゃ彼が盗んだわけじゃないって証明できないんじゃない?どうせ適当な証拠やら何やら用意してるんだろうし」

「スト破りの家に隠すんだ」

「駄目だ。その人が逮捕されたらどうするんだよ」

 ヨルカはダニエルに食ってかかった。

「されないさ。そもそも自作自演なんだし、スト破りを逮捕する意味は俺たちには無い。適当に辻褄を合わせて解決したことにするはずさ」



◇◇◇



 ヨルカはフェアリーテイルの自宅にいた。彼女は彼が調理場の戸棚の中身を床に放りながら目的のものを探し出すのを見ていた。

「あった!」

 彼は立ち上がり、古い布に包まれていたガラス瓶をヨルカに見せた。ヨルカはラベルを確認した。

「ダニエルが言ってた薬だ。これです」

 フェアリーテイルは安堵のため息をついた。

「あとはダニエルが適当なスト破りの家に隠しておけって。逮捕はされないはずだから」

「君には感謝している。教えてくれたっていう警官にもありがとうと言っておいてくれ」

「分かりました」

 ヨルカは厨房から出て玄関扉のほうへ向かった。

「フロントラインさん」

 フェアリーテイルが後ろから彼女を呼んだ。彼女は無言で後ろを振り返った。

「君はストライキに参加してくれているね。昔のお母さんのように……。でも私たち炭労連のことは信頼してくれないのかい?」

 ヨルカは目をそらした。少し視線を彷徨わせてから、フェアリーテイルをぎっと睨みつけた。

「だってあなたたちは、言ってしまえば無能じゃないですか!あの事故が起きたのだって、あなたたちが口先だけで何も達成できてなかったからです。私はそういう風にはなりたくない、なりません」

 彼女はそう言い放ってからはっとした。フェアリーテイルは黙っていたが、少し悲しそうにも見えた。ヨルカは扉を開け、家の中から飛び出した。


 その数日後、ヨルカとダニエルは寒い朝の路地裏にいた。

「警察がウィリアムさんの家に来たけど、問題無かったみたいだ。あんたにお礼を言っておくよう頼まれたよ」

「それは良かった」

 ダニエルの吐いた深い息が白く染まった。

「あんたが最近『いい子』にしていたのはこのためだったわけだね」

 ヨルカは穏やかな笑みを浮かべながら、皮肉っぽく言った。ダニエルも笑顔を見せた。

「最初に疑われるのは俺のはずだ。元々目をつけられてたし……。今後も協力できるかは分からない。期待しないでくれ」



◇◇◇



 その日もヨルカはピケラインの中で、両隣の労働者と背中で腕を組んでいた。彼女は時折、誰かの視線が突き刺さるのを感じた。スト破りと大声で言い合いをしたり、母親がかつてここで同じようなことをしていたことが知れ渡ってから、良い意味でも悪い意味でも注目されているのを彼女は感じていた。

 いつものように、スト破りの選炭所労働者と、彼女たちに加勢する労働者がピケラインの前に立っていた。そのさらに後ろに警官が控えているのも、いつもと同じだった。だが、警官たちが木製の樽や金属製のバケツなどを足元に置いているのだけがいつもとは違った。


 スト破りたちはピケラインに向かって声を荒げていた。そこをどきやがれ!真面目に働こうとしてる奴の邪魔して何が楽しいんだ!選炭所に入らせろ!

 ヨルカの耳が一人の女の叫び声を捕らえた。

「旦那がストライキに出るから、あたしが稼がないと子どもが死ぬ!野郎はみんな身勝手だ、てめぇのガキのことなんざちっとも考えないで好き勝手やりやがるんだ!その尻ぬぐいをしてんのは誰だ!」

 彼女はジェグア――馬のように背中まで伸びるたてがみを持った種族――だった。ヨルカは彼女の声に答えようと、大きく口を開いた。

「旦那がストライキをやってるならアンタもすれば良い!このまま黙ってても何も良いことなんかない!未来のことを考えるなら、絶対に抗うべきだ!」

 ヨルカは以前、子どもの心配をしていた女の労働者に言ったのとほとんど同じことを言った。スト破りの女の顔に絶望と怒りが浮かんだ。彼女は地面に手を伸ばして、小石を拾った。

「未来のことなんか知ったこっちゃねぇ……!今!この瞬間!死にそうだって言ってんだよ!風邪こじらせて家で寝込んでるんだ!身体に良い食い物と薬を買ってやらなきゃいけねえ!てめぇみたいなクソガキに死にかけのガキ抱えた母親の気持ちが分かるかよ!」

 女はヨルカに向けて石を投げた。咄嗟に身をかわしたヨルカの後ろで石がぼとりと落ちる音がした。ピケラインの間に動揺が水面の波紋のように広がった。投げつけた女のほうは、やった後で自分が何をしたのか理解したのか、目を見開いて固まっている。ピケの中から罵声が飛び始めた。何してんだ!あぶねえだろ!ポリ公め、突っ立ってる暇があったらその女をとっ捕まえろ!ヨルカが女のほうを見ると、彼女はおびえたように肩を跳ねさせ、ヨルカに背中を向けて走り出した。女は敷地内から去っていった。ヨルカは前や後ろを飛び交う罵声をぼうっと聞きながら、女が去っていったほうを見つめていた。

 ダニエルはそんな彼女を警官の群れの中から見つめていた。

「あの女は?」

 巡査の一人が、立ち去るスト破りの女を見ながら言った。

「かまわん。放っておけ」

 巡査部長のサンセットが言った。彼は足元のバケツを見た。中に入っているのはただの水だ。冬の、ひどく冷たい水だ。

「そろそろうるさくなってきたな。こいつの出番だ」

 巡査部長のその言葉を聞いて、ユリシーズはダニエルのほうを見た。

「レイクサイド、奴らに水をかけてやれ」

 ダニエルは一瞬戸惑った。ユリシーズは彼の目が泳いだのを見逃さなかった。だが彼が言葉を重ねる前に、ダニエルは動いた。彼はバケツを一つ持ち、ゆっくりと人間の壁に近づいていった。傍目には、バケツの水を零さないようゆっくり歩いているように見えただろう。

 ピケラインに動揺の波が広がった。ヨルカは、その中の誰かが彼女をじっと見つめたような気がした。ヨルカはその幻の視線に押し出されるようにしてピケの列から飛び出し、ピケラインを背中で守るようにダニエルの前に立ちはだかった。

 彼女の中には焦りがあった。とにかく、炭労連に自分を証明しなければならない。この集団のために身を挺するところを見せなければならない。そうしなければ、ヨルカはこの戦いには勝てない。一人で炭鉱会社という一個の巨大な群れを相手に戦って勝利することができる人間など、いないのだから。

 ダニエルはヨルカの前で立ち止まった。ヨルカはダニエルを見つめた。彼女は瞬きひとつしなかった。

「良いからやれ……」

 ヨルカは囁いた。

「何を迷ってる、二等巡査!」

 ダニエルの後ろからユリシーズの罵声が聞こえた。目の前からはピケの怒号が波のように迫ってくる。彼はほとんど眩暈がしそうだった。それでもバケツの縁を両手で掴み、高く持ち上げようとした。

 そのとき、ピケの列から女が一人飛び出した。そしてヨルカを手で後ろに押して、彼女とダニエルの間に入った。釣られるようにして何人かがまたピケの列を抜けて、ダニエルの前に立ちはだかった。数人の男女がヨルカを守るように、彼女の前にいた。そのうち一番若い青年が振り向いて彼女の目を見た。

「一人で戦わなくたっていい。俺たちはもう、君を仲間として認めてるよ」

 ヨルカはひと時の間呼吸を忘れた。

 ダニエルは目の前にいる数人のピケに向けて、思い切ってバケツの中身をぶちまけた。彼はせめて頭にかからないように努めたが、それでも彼らは悲鳴をあげた。

 水をかけた側のダニエルにとっても、今日の気温は頬に冷気が突き刺さって痛いほどだった。それに加えて水を被った彼らは、まるで北極の海に身を投げ込んだかのように感じたことだろう。ダニエルは自分の眉間に皺が深く刻まれるのを感じた。再び後ろから数人のピケが出てきて、水を被った彼らに自分の上着を着せた。ヨルカも目の前にいた女に自分のストールをかぶせた。

「水を被ったやつは連れていけ!」

 ピケラインの誰かがそう言った。ヨルカと他の数人が水を被った者たちを敷地の外へ連れて行くのを、ダニエルは見ていた。

 彼は後ろから近づいてくる足音に気づき、振り向いた。樽を持ったユリシーズがダニエルの横を通ってピケに対峙し、彼らに水を吹っ掛けていった。再び痛みを訴える声が響いた。他の警官も次々と人間に向かってバケツや樽をひっくり返した。ピケの列は乱れた。だが選炭所だけに全てのピケが結集しているのもあって人数が多く、一部が離脱しても入り口を封鎖するには十分な数の人が集まっていた。

「お前ら!もう一度水を入れてこい」

 ユリシーズが二等巡査たちに指示をした。彼らはバケツや樽を回収して水を汲みに向かった。ダニエルもそれに続いた。

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