第44話 もうひとりの孫子

「パイアル閣下、ここからはさらに作戦が厳しくなります。前線からお下がりください」

 公爵になにかあったら、わが軍はその場で崩壊しかねない。

 状況を確認できる範囲で後ろに控えてもらうほうが全軍を統制するのに適していた。


「いや、軍師を失っては勝てる戦も勝てはしない。今は全軍を鼓舞するためにも私が前線で汗をかかずにどうするか」

 パイアル公爵の穏やかな視線を感じた。

 おそらく閣下は後方へ下がるのをよしとはしないだろう。


「ボルウィック、閣下の警護を頼みます! アルメダさん、アンジェント侯爵軍の魔術師を後方へ送ってください。呼吸を整え終わったら順次攻撃魔法を放ってもらいます!」


 今私を守っている者はいない。


 戦場でここまで無防備になったのは、初めて戦場に立った歩兵隊のとき以来だ。

 しかし、ここを凌げば必ずゲオルグ隊が駆けつけてくれる。

 挟撃ができたら立場は逆転するはず。


 今はパイアル公爵とともに前線を支えるので手いっぱいだ。

 ゲオルグさん、まだなの? 私を守ってくれるはずではなかったの?

 そんな思いを抱いていると、アルマータ共和国軍の向こうからときの声があがった。


 間に合った!


 まずはゲオルグ隊に名乗りをあげさせて敵軍の注意を逸らす。

 そのスキに態勢を立て直して挟撃に持ち込むのだ。

「われこそはイーベル侯爵の一番槍ゲオルグである! 貴様らの退路はすでに断ち切った。物資貯蔵庫も焼き払っている。もはや軍を維持できる道理がない。速やかに投降するのだな!」

 ゲオルグの名乗りのスキにわが軍の再編を完了させ、魔術師を交替させて万全の準備を整える。

 そしてゲオルグ隊が突進を開始するのに合わせてこちらも全軍で突き上げにかかる。


「見つけたぞ、イーベル! 貴様が策を練らなかったら、俺の計画は達成されていたんだ! 貴様の首だけは必ずもらうからな! 指揮官、早くあいつを捕まえろ!」


 タイラ・キミヒコは私を見つけると執拗に狙ってくる。

 もしアルマータ共和国に彼が異世界転生しなかったら、今日のような激しい戦闘は起こりえなかったかもしれない。


 異世界転生者がこの世界で命を落としたらどうなるのだろうか。

 元の世界に戻れるのか、また別の世界へ転生するのか。それともそのままこの地で朽ち果てるのか。


 挟撃しているとはいえ、数ではわがほうが劣るため、なんとかして状況を好転させる策を生まなければならない。

「イーベル侯、お主は狙われておる。いったん後方へ下がるんだ」

 パイアル公爵の指示だが、今私が下がるとアルマータ共和国軍の攻勢を呼んでしまう。なんとしてでも敵軍への圧迫を続ける必要がある。


 そうした兵の隙間から魔の手が伸びてくる。


 圧迫の壁から解き放たれたアルマータ兵が私をめがけて突っ込んできたのだ。

「危ない!」

 パイアル公爵の声がしたかと思ったら、跳ね飛ばされて代わりに敵兵の剣が閣下の腹に突き刺さっている。

「公爵閣下!」

 ボルウィックは閣下を貫いた剣の所有者を事もなげに一閃した。

 そして公爵閣下の状態を確認する。


「イーベル侯爵、傷は深いですが急所は外れております。ただちに治療を受ければ助かります」

「わかりました。これは私のミスです。閣下を後方へ送って治癒魔法が使える魔術師に預けてください。頼みますよ!」

「イーベル侯爵、援護します!」

 オサイン伯爵付きの魔術師であるユミルさんが近くまでやってきた。

 パイアル公爵が負傷したことにより、わが軍は一瞬動揺した。

 そのスキを突かれて後方のゲオルグ隊が襲われて数の差であっけなく突破されてしまった。

 そしてすぐに態勢を立て直そうとしている。


 ゲオルグさんに託した魔術師へ魔法電話をかける。

「ゲオルグさん、帰陣してください!」

 敵が再編しようとするのに合わせて、こちらも陣を整えて敵軍と対峙した。


「挟撃は半ば成功していたのですが、こちらを突破されてしまい申し訳ございません」

「いえ、ゲオルグさんはきちんと役目を果たしました。こちら側で将軍であるパイアル公爵が敵の手にかかったのが原因です」

「で、公爵は?」

「傷は深いけれど命の心配はないそうです。長期戦に陥れればこちらの優位は疑いようもないのですが」


「挟撃から逃れた軍が、数を頼んで再度突撃してくる可能性が高いですね。短期決戦を挑まれると、数が少ないぶんこちらが不利だ」

「わかっています」

 敵の狙いはあくまでも短期決戦だ。

 今この戦場で勝たなければ、魔術師の少ないアルマータ共和国は圧倒的に不利になる。

 だからこそ今わが軍を倒そうと躍起になるはずだ。


 であれば、撤退するのが最善策なのだが、不用意に下がると敵の猛進を呼ぶだけである。

 どのようにして撤退するのが得なのか。


 『孫子の兵法』は強者の兵法だ。

 つねに優位に立って戦を挑み、不敗の態勢で敵を打ち破る。

 だから退却戦についての記載は存在しない。


 だが、私はあることに気がついた。

 そう、もうひとりの「孫子」の存在を思い出したのだ。


 不利な状況を策ひとつでひっくり返した、もうひとりの「孫子」。

 彼の知恵も借りてこの場を凌げれば、勝ち目は出てくる。


 両軍がにらみ合っている中、その策の準備に入った。



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