第14話 侯爵の企み

 いくら『孫子の兵法』に詳しいとはいえ、一言一句正確に思い出すことなどできはしない。

 でもエッセンスを抽出するくらいのことはできるのではないだろうか。

 パイアル公爵から“完全に失われた書物”の復元を任されたからには、それに応えなければならない。

 私が今貴族でいられるのは、公爵閣下のご威光の賜物である。

 そして次の戦い、中隊長として戦を勝利に導けばいよいよイーベル伯爵号が下賜されるのだ。


 そもそもなぜイーベル伯爵号が宙に浮いてしまったのだろうか。

 ボルウィックはつねに傍らに控えている。


「ボルウィック、イーベル伯爵号はなぜ継ぐ者がいなかったの?」

「先代のイーベル伯爵様は魔術の研究に熱心でした。家督を継ぐにあたり、魔術の才ある者を求めたのですが、嫡子は皆魔術の才がございませんでした。それで伯爵様は世継ぎを決めず、家督を陛下に委ねたのです」

「その伯爵号を次の戦に勝ったら下賜されるわけだけど、私にも魔術の才はないのですけどね」

「農家の娘が、入隊後に次々と戦果を重ねていらっしゃる。それは魔術のようなものではございませんか」


 この世界の人からはそう見えていたのか。

 私は単に『孫子の兵法』を実戦で試してみたかっただけなのだ。

 そう『孫子』オタクと呼んでも過言じゃないほどに。


 そしてパイアル公爵が私に目をつけ、爵位を授けて軍才を利用しようとしている。

 でもそれは『孫子の兵法』を閣下が買っているからにすぎない。

 であれば『孫子の兵法』をこの世界の文字で書き起こす作業は、あまり性急に進めないほうがよいのではないか。


 あまり考えたくはないが、『孫子の兵法』が手に入ったら私を重用する必然性はなくなってしまうだろう。

 保身のためにも、さも思い出すのに時間がかかっているふうを装わなければならないかもしれなかった。

 それはせっかく知己を得た人たちの好意に反することにはならないか。


 心が痛まないわけではないが、大陸を統一して平和をもたらすには『孫子の兵法』の知識は不可欠だ。

 そのためにも私は功績を挙げて軍師の座を手に入れなければならない。


 とりあえず「兵法」が必要な理由が書かれている『孫子の兵法』始計篇第一だけでも早めに完成させ、パイアル公爵に報告したほうがよいだろう。


「思い出せないことはないけど、時間がかかりそうね」

 ボルウィックに聞こえるようにつぶやいてみた。おそらくこの発言はパイアル閣下の耳に入るはずだ。

 そのための護衛役だと判断してよいだろう。

 もちろん敵方に寝返らないよう監視するためでもあるはずだ。

 そんなことを考えていたら、意外な人物と面会することになってしまった。


 ◇◇◇


「そちらにおかけになってくださいませ、アンジェント侯爵閣下」

「ラクタル嬢、いや今はベルナー子爵夫人でしたな」

 なにやら腹の探り合いになりそうだ。

 こういう駆け引きは『孫子の兵法』というより『鬼谷子』や『韓非子』あたりの得意分野なのだが。


「本日は子爵夫人によい話を持ってきました」

「どのようなお話なのでしょうか。侯爵閣下のお申し出に不足があるようには思えませんが」

 とりあえず相手の機嫌だけはとっておこう。

 少なくとも爵位では先方のほうが上だ。

 アンジェント侯爵は口元を扇で隠している。

 口を見られたくないということは、心の底を読まれたくないという態度だろう。


「あなたに結婚相手を紹介しようと思いましてね」

「結婚ですって!?」

 素っ頓狂な返答をしてしまった。

 しかしまさか女子高校生に結婚を斡旋しようとはなんたる珍事だろうか。

 あ、そうか。今はラクタルでありベルナー子爵夫人だった。

 この世界では来年で成人を迎える年齢である。

 そう考えれば有力な貴族なら結婚相手を早めに決めて取り込みを計りたいところだろう。


「取り乱してしまい、申し訳ございません。しかし結婚とはまた急な話でございます」

「急ではありません。先頃子爵夫人となり、後ろ盾を必要とする立場となったのです。もしこの縁談がまとまれば、わがアンジェント侯爵家がそなたの後ろ盾となろう」

 つまりパイアル公爵から私を奪い取ろうという算段か。


「そうすれば先の戦で私の命を聞かずに戦場を離脱した罪をなかったことにしてやってもよいのだが、いかがかな?」

 なるほど、こちらの弱みを握っていると言いたいわけか。


「あれは陛下より下命された行動です。問題がおありでしたら陛下にその意図を尋ねられてはいかがでしょうか」

 この程度の腹の探り合いなら、女子高校生のときにクラスから爪弾きされたことと比べればかわいいものだ。

 あのときは「なんの役にも立たない本を後生大事に読み返しているとはね」と嘲笑われたものだ。


「しかし、せっかくの結婚のお申し出です。一足飛びに結婚などできませんが、お会いしてお話を伺うくらいはお受け致します。どのような方なのか、お話を伺わなければ判断のしようもございませんので」

「よろしいでしょう。それでは後日ベルナー子爵夫人宛に、正式な文書で通達致します。そこに書かれた方と対面して話すとよいでしょう」

 少し事を急ぎすぎたかもしれない。


 しかし「兵は拙速を尊ぶ」と孫武も言っている。

 あまり重要な局面でないかぎり、深く考えても時間の無駄である。

 さっさと会って後日断りを入れればよいだけの話だ。



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