エキストラ

辺見愚詠

第1話

(ドライ01 カメラ無しのリハーサル)

 あの有村架純が正面から歩いてくる。淡いピンクのワンピースに、純白のカーディガンを華麗に羽織っている。膝丈のワンピースに描かれている小さな花びらが、彼女の歩調に合わせて軽やかに春の舞を踊っている。

 彼女の黒髪は風になびき、ふわりとした気品がある。つやつやのキューティクルはそのままシャンプーのコマーシャルが撮れるのではないか。いい匂いがする?そんな次元ではない、もはや辺りの空気が澄んできた。まるで森林浴をしているような気分になる。彼女の部屋は空気清浄機が必要ないんじゃないだろうか。吸い込まれそうになり、鼓動が高まってくる。彼女は一見すると無防備に見えるが、一縷の隙もない。彼女に話しかけてはいけない気がする。

 すれ違いざまに「カット」と声を掛けられた。ああ、そうか。ここはドラマの撮影現場であることを思い出した。話しかけてはいけないのは当然だ。ここは商店街のセットの中、有村架純とすれ違うシーンだった。

「あかん、めっちゃ可愛いわ!」思わず声が出てしまい、周りのスタッフがクスクスと笑い出した。

「あ、すみません、心の声が漏れてしまいました。取り乱して申し訳ありません」少しオーバーにお辞儀をすると、さすがにスタッフも笑いが耐えきれなくなった。次の瞬間、その奇跡は起きた。

「関西のご出身なんですね」なんと有村架純が笑いながら話しかけてくれたではないか。手を後ろに組んで斜めに覗き込みながらの可愛い姿に吸い込まれそうになった。

「そうなんです、僕、地元が滋賀県で、、」

「分かります、分かります。私も地元が兵庫県なんで、心の声は関西弁が出ちゃいますよね。って言うか、滋賀って関西やったかなあ」彼女は視線を右斜め上にして首をかしげながら呟いた。

「あ、すみません。心の声が漏れてました」彼女はイタズラに舌をペロリと出して笑った。


(プロローグ)

 エキストラとタレントとの出逢い。あまりにもあり得ない話であり、「教師と生徒の禁断の愛」どころの騒ぎではない。業界関係者に聞いてみても苦笑いか鼻で笑われてしまうだろう。フィクションとして、想像することもありえないくらい、ありえない。

(以下、大人の事情により、有村架純を秋原和美と変換する)


(シーン01 巻きとバラシ)

「すみません、本日は少し巻いているので、14時に現場入り出来ますか?」テレビ局のドラマ制作スタッフから携帯に電話が来た。

「はい?」一瞬、意味がわからなかったが、どうやら15時スタート予定だったドラマの撮影時間が早まったようだ。要するに、当初の予定より一時間早く現場入りしてほしいようである。それにしても「巻いている」とか、わざわざ業界用語を使う必要はあるのだろうか。ひとこと「撮影時間が早まった」と言えば済むのではないか。ボランティアエキストラ初参加のど素人には、業界用語などピンとこないということが理解できていないらしい。

 都営三田線の西高島平駅から徒歩で5分ほど、撮影スタジオに到着すると、既にドラマ班のスタッフが慌ただしく作業をしていた。今回のエキストラで募集していたのは175㎝前後、30〜50歳ぐらいの男性医師役の募集であった。173㎝で42歳の江藤乱次は一応該当するものの、写真選考もない安易な採用に苦笑いした。いくら白衣を纏っても到底医師に見えないルックスの人もいると思うが、ほとんど映らないと言われているようなものだ。遠目からぼんやりとシルエットがあれば、人間であれば誰でも構わないと言うことらしい。

 控え室にはハンガーラックに5着の白衣が用意されており、本日のエキストラ5名も揃っていた。すでに現場では数名のキャスト(俳優)がいて、初めて芸能人の普段の表情や言動を見ることができた。どのキャストもスタッフと仲良く談笑していた。あからさまにわがままを言うような横暴な役者はいない。現場から総スカンを喰らうような性格の悪い役者は、そのうちに呼ばれなくなるのだろう。

 巻いているわりには、一向にスタッフからお呼びはかからない。現場入りから2時間が過ぎ、16時に近づいたとき、女性スタッフがやって来た。明らかに一番下っ端と思われる。アルバイトの大学生かも知れない。

「すみません、本日の予定シーンがなくなってしまいました。みなさんは、このままバラシになります」棒読みで撮影がキャンセルになったことを告げた。2時間も無駄に待たされた後である。助監督ぐらいの大人がひとこと頭を下げにきてもよいのではないか。

 しかもまた業界用語、『バラシ』とはなんだろう。文脈からすると、なんとなく解散という意味だと思われる。一般社会の常識はこの業界では通用しないらしい。結局、往復の移動時間と待ち時間で4時間ほど無駄に費やしたことになる。結局『ドラマの台本をモチーフにしたノート一冊』の記念品だけを受け取って帰る事になった。

 帰り支度をしていると、先ほどのアルバイトスタッフがまた棒読みスタイルでエキストラ陣に話しかけてきた。

「すみません、次の現場で18時から路上シーンがあるのですが、そちらの通行人として参加出来る人はいますか?」

「ここからその現場までは自力移動ですか?」別のエキストラが質問をした。

(愚問だな、そんなの当たり前だろ)エキストラ初体験の乱次でさえも察する通り、勝手に各自で現場に向かえとのこと。

「じゃ、帰りまーす」ほとんどのエキストラが帰っていった。そりゃそうだろう、この状況でわざわざまた時間と交通費をかけて次の撮影現場に移動するモノ好きがいるとは到底思えない。


(シーン02 幻のデビュー作)

 乱次がそのモノ好きになったのは気まぐれだった。たまたま路上シーンの撮影場所がJR田町駅付近で乱次の帰りの沿線であったし、暇つぶしにもなる。後から話のネタにでもなるだろう。初めてのエキストラがいきなり『バラシ』だったので消化不良気味でもあった。

 何回か歩けば終わるだろうと軽く考えていたが、思いのほか拘束時間が長かった。18時から22時までの4時間はほとんど待ち時間だったおかげで「エキストラの仕事=ひたすら待つ」を体感することが出来た。10月後半の屋外は日によっては少し肌寒い。夜は特に冷えるが、椅子が用意されストーブに当たれるのはキャストのみ。エキストラはキャストから離れた場所に立たされた。まるで撮影現場を見学させていただいてるかのようだった。

 撮影が始まり、説明もなく歩けと言われた。どのようなペースで、どのようなテンションで歩けば良いのか全くわからない。普通に歩く事がこれほど難しいとは思わなかった。自分でも不自然な歩き方をしていることが分かる。カメラを意識するなと言われても、初陣のエエキストラには無理な注文である。まあ最初はこんなもんかと思いつつ、家族と友人に限定してドラマの放映日を公開しておいた。

 待ちに待った放映日、予想通りの全カット。もはや乱次の後ろ姿どころか、手足すら映ることがなかった。当日の現場に乱次は存在していないことになっていた。まわりは残念がっていたが、元々こんなものだと思っていたので、不思議と腹は立たなかった。最初からこの業界をあまり信用していないのである。なんの見返りも期待もしていない。


(シーン02 幻のデビュー作)

 乱次がそのモノ好きになったのは気まぐれだった。たまたま路上シーンの撮影場所がJR田町駅付近で乱次の帰りの沿線であったし、暇つぶしにもなる。後から話のネタにでもなるだろう。初めてのエキストラがいきなり『バラシ』だったので消化不良気味でもあった。

 何回か歩けば終わるだろうと軽く考えていたが、思いのほか拘束時間が長かった。18時から22時までの4時間はほとんど待ち時間だったおかげで「エキストラの仕事=ひたすら待つ」を体感することが出来た。10月後半の屋外は日によっては少し肌寒い。夜は特に冷えるが、椅子が用意されストーブに当たれるのはキャストのみ。エキストラはキャストから離れた場所に立たされた。まるで撮影現場を見学させていただいてるかのようだった。

 撮影が始まり、説明もなく歩けと言われた。どのようなペースで、どのようなテンションで歩けば良いのか全くわからない。普通に歩く事がこれほど難しいとは思わなかった。自分でも不自然な歩き方をしていることが分かる。まあ最初はこんなもんかと思いつつ、家族と友人に限定してドラマの放映日を公開しておいた。

 待ちに待った放映日、予想通りの全カット。もはや乱次の後ろ姿どころか、手足すら映ることがなかった。当日の現場に乱次は存在していないことになっていた。まわりは残念がっていたが、元々こんなものだと思っていたので、不思議と腹は立たなかった。最初からこの業界をあまり信用していないのである。

 その後、別のドラマでもボランティアエキストラに参加したが、撮影で丸一日かかっても交通費すら支給されない。撮影現場までは電車バスを乗り継ぐ場合もあり、交通費は持ち出す場合もある。貰える報酬は例の「台本ノート一冊」、この業界テンプレート的な記念品も巷では大量に出回っている。メルカリでは数百円でも売れ残っており、全くプレミアム感はない。さすがに割りに合わないと思うが、乱次は他にやることもない。愛娘も大学受験に向けて勉強が忙しく土日も塾通いのため、もう父親とは一緒に遊んでくれなくなっていた。ちょうど土日の過ごし方を模索中だったので良い暇つぶしになる。

 あるドラマのエキストラに参加したときに、点呼の際にスタッフから所属事務所の有無を聞かれた。(え、事務所?)その時に初めてエキストラ事務所が存在することを知った。とりあえず登録料無料キャンペーンを行っていたエキストラ事務所に登録してみた。通常は最初に三千円ぐらいの登録料が必要らしいが、たとえ1円でも払うのはバカバカしい。

 その後、別のドラマでもボランティアエキストラに参加したが、撮影で丸一日かかっても交通費すら支給されない。撮影現場までは電車バスを乗り継ぐ場合もあり、交通費は持ち出す場合もある。貰える報酬は例の「台本ノート一冊」、この業界テンプレート的な記念品も巷では大量に出回っている。メルカリでは数百円でも売れ残っており、全くプレミアム感はない。さすがに割りに合わないと思うが、乱次は他にやることもない。愛娘も大学受験に向けて勉強が忙しく土日も塾通いのため、もう父親とは一緒に遊んでくれなくなっていた。ちょうど土日の過ごし方を模索中だったので良い暇つぶしになる。

 あるドラマのエキストラに参加したときに、点呼の際にスタッフから所属事務所の有無を聞かれた。(え、事務所?)その時に初めてエキストラ事務所が存在することを知った。とりあえず登録料無料キャンペーンを行っていたエキストラ事務所に登録してみた。通常は最初に三千円ぐらいの登録料が必要らしいが、たとえ1円でも払うのは馬鹿らしいと思い、そのキャンペーンに乗っかった。


(シーン03 きっかけ)

 エキストラ事務所に登録したところで、頻繁に現場が決まるわけではない。エキストラ同士の競争もあるが、事務所同士の競争もある。番組制作会社は複数のエキストラ事務所を利用しており、事務所自体が成約に至らない場合もある。また最近は番組制作費の予算も厳しい。制作会社からすれば、ストーリーに影響のないエキストラに費用はかけたくないのは至極当然である。事務所を通してしまうと1人一万円ほどの人件費が発生してしまう。出来ればボランティアエキストラで済ませたいところだが、経費とエキストラの質がトレードオフされる。ボランティアエキストラの中には、勝手にスマホで撮影したり、キャストに握手を求める不届き者もいる。金銭が発生しないので、責任感は皆無だ。少し重要なシーンでは、エキストラ事務所に頼らざるを得ない。

 結局、乱次がエキストラ事務所に登録してから1ヶ月、1件もエキストラの仕事の依頼は来ていない。登録したことさえ忘れていた。エキストラ事務所の『for Cast』から初めての電話が来た時も、最初は悪徳業者からの勧誘かと思った。怪訝に返答していると、明日のドラマのエキストラで急遽キャンセルが出たので参加してもらえないかとのこと。乱次の背丈、年齢、雰囲気があっているとのことだった。そういえば、登録したときに宣材写真のようなものを提出したし、簡単なプロフィールも書いた。

 今回はスタジオ内での撮影なので、前回のような屋外の通行人と違い、気温を気にする必要はない。それに主演はあの秋原和美である。今年の視聴率ナンバーワン女優、CM契約も10本を超えており、テレビで彼女を見ない日はない。本人の飾らない雰囲気も人気で顔もかなり可愛い。大きな瞳が特徴的でありながら、地味で健気な印象がある。年齢は24歳で乱次とは親子ほどの年齢差があるが、ずばり好みのタイプである。普通に生活している限りでは絶対に会うことがない大女優でもある。彼女を少しでも近くで見たい。乱次は二つ返事でokした。

 秋原和美の出世作『メダカ』の続編の撮影は12月24日早朝6時集合だった。クリスマスイブだったが、娘が大きくなった江藤家では関係ないイベントである。乱次が一人で出かけることにも何ら問題はなかった。

 朝靄が立ち込める、自然に囲まれた緑川スタジオ。渋谷から30kmほど離れた場所に位置し、静かな森の中に佇んでいる。祝日の早朝、ほとんど人の気配がなく、数台の車が通る程度だ。この静寂を破るように、ヘッドライトの光が幻想的な世界をかもし出している。夢の中にでもいるような感覚、まるで異次元の扉が開いたような不思議な感覚を覚える。

 乱次は地元の商店街を通りすぎる人々の一人である。セリフもなく、単に主演の秋原和美とすれ違うだけの役割であった。リハーサルを繰り返したところで、現場に緊張が走った。そして、助監督が声をあげた。

「秋原さん入りまーす!」飛ぶ鳥を落とす勢いの秋原和美が現れた。彼女は偉ぶることなく、スタッフに対してはもちろん、エキストラにも上品なお辞儀をしてテレビと同じ百万ドルの笑顔を振りまきながら登場した。撮影現場ではキャストを役名で呼ぶルールがあるため、これ以降は秋原和美の役名のである小和田トミ子、トミ子さんと呼ばれていた。

 本番前のドライ、カメラテスト。主人公が商店街を歩くシーン。いよいよ、秋原和美とすれ違うシーンを迎えた。


(シーン04 出逢い)

『心の声』が漏れたことで秋原和実と言葉を交わしたあと、乱次は我に返って小声になった。

「すみません、キャストさんとは話してはいけないのに」

「少しぐらいは構わないんじゃないですか。共演者なんだし、知らん顔も寂しいじゃないですか」秋原和美は優しい笑みを浮かべて囁いた。

 本番の撮影が始まった。主演者のアップ、共演者のアップ、カメラが少し引いたカットなど、カメラの角度を変えて同じシーンを何度も撮影する。キャストは全く同じセリフ、全く同じ動作を全く同じテンションで演じる。何気に頭を掻く動作でも数センチずれただけで撮り直しになってしまうからだ。やはりプロの役者は凄い。演技に全くブレがなく、ほとんどNGも出さない。少なくともスタッフが大爆笑するようなNGシーンなんか皆無だった。よくみるNG大賞のような番組があるが、あれは別にNG用の撮影をしてるのでは?と勘ぐってしまう。

 一方、我々エキストラ軍団の演技はと言えば、まるで動きに一貫性がない。直前のカットの所作なんか覚えていないから、カットの度に微妙に動きが違っている。人間的な動きとはほど遠く、表情も固い。個々が演技プランを持っているわけではなく、適当に動いている。基本的にエキストラには台詞はなく、声を出さずに会話しているフリ、いわゆるパントマイムをする事が多い。たまに監督がざわつき感を出したいときに、エキストラに会話を指示する事もあるが、ドラマの中で会話内容が聞き取れるようなレベルではない。

 エキストラは存在自体が空気のようなもので、実際の映像ではピンぼけ状態になることが多い。ものがたりにはあまり影響はないので、監督もさほど気にしていない。エキストラがよほどのヘマをしなければNGになることもない。エキストラはそこにいれば良いだけである。壁紙背景のようなものである。仮に邪魔になったら、後から編集でカットすれば良いだけの話だ。

 カメラに動きがあるシーンではレールのセッティングが必要になる。手慣れたスタッフが敷かれたレールの中にクサビと呼ばれる枕木を手早く投げ入れてカメラの動きを安定させていく。エキストラは現場で作業が長引いてもそのまま待たされるが、キャストを長い時間待たせるわけにはいかないため、控え室に戻る事が多い。この時間を利用して女優がメイク直しをする場合もある。

「トミ子さん、直し入りまーす」助監督が声を上げた。そのとき、2回目の奇跡が起きた。秋原和美が乱次の真後ろを通ろうとした時、少し肩がぶつかってしまった。

「あ、すみません」

「いえいえ。むしろ、『ありがとう』です」乱次は振り向きざまに戯けた笑顔で応じた。

「うふふ、それも心の声ですか?またイントネーションが関西弁になってますよ」秋原和美は名残惜しそうな笑顔を残しながら、控え室に戻っていった。

 次に撮影するシーンは秋原和美のアップだった。透き通るような白い肌をしている彼女にはシミそばかすを隠す必要ないと思っていたが、照明スタッフはレフ板を用意した。彼女の美しさをより引き立たせるため鼻の影などを飛ばす効果があるらしい。

 撮影現場ではエキストラがキャストに近づくことは禁止と言いつつも、スタジオ内では隔離されているわけではない。秋原和美が言ったように広義ではエキストラも役者であり「協力して一つのものを作り上げる」という意味では仕事仲間である。スタジオ内の施設は共同で使う場合もあるので、トイレに行くときに廊下で普通にキャストとすれ違うこともある。無視するのも心もとないので、軽く会釈くらいはする。もちろん中にはエキストラに無関心なキャストもいるが、秋原和美はキャスト、スタッフ、エキストラに関わらず、すれ違う人には微笑みながら会釈していた。役を演じること、この場所にいることを心から楽しんでいるようだった。(本当に純粋な娘さんなんだろうな)と乱次は自分の娘もこんな風に育って欲しいと親目線でみていた。

 トイレ休憩の際、乱次は廊下で秋原和美とすれ違った。本日3回目の奇跡である。

「あ、さっきの関西の人ですね」なんとまた秋原和美から声をかけてくれた。

「どうも、お疲れ様です」

「ふふふ、すみません。”関西の人”なんて愛想がない言い方ですよね。あのー、もしよかったら、お名前をお伺いしても、、、」また先ほどの手を後ろに組んで首を斜めにした可愛い姿勢である。このポーズはテンプレートなのだろうか。自分で可愛いとわかってやっているのか、天然なのかは知るよしもない。

「すみません、申し遅れました。『for Cast』の江藤乱次と申します」

「あー、for Castさんに所属されてるんですね。私もよく現場でご一緒しますよ。それなら、また別の現場でもお会いするかもしれませんね、よろしくお願いします」秋原和美は丁寧にお辞儀した。大女優の低姿勢とその眩しい笑顔にドキッとした。少しでもこの一瞬を永遠にしたい想いで、乱次なりに必死に話を広げた。

「秋原さんご出演の作品全部好きです。毎回、物語に惹き込まれてます。この前の「スクールダイアリー」もよかったです。自分の年齢を忘れて、中学生になった気分でキュンキュンしました」

「嬉しいー!そんなふうに言っていだけると、とても励みになります。ありがとうございます」と秋原和美は100%の笑顔になった。めちゃくちゃ可愛い。心から喜んでくれているようである。

「もしかして、この前の映画 『微笑みながら紅茶を』もご覧になりましたか?」

「すみません。エキストラをしているくせに芸能情報に疎くて。実は最近その作品を知って、めっちゃ観たかったんですが、時すでにお寿司、、いや、時すでに遅しで。上映期間が終わってました。DVDが出たら必ず買います!」乱次はすこし慌てて、関西弁のイントネーションになった。

「ありがとうございます。でも無理なさらないで、レンタルとかでもいいですよ。観ていただけるだけで」まるでこちらの心を見透かしたように微笑みながら話した。

「ふふふ、今のは私が勝手に江藤さんの心の声を想像したんです。自分やったら、レンタルとかテレビ放映になるまで待つかなあと思って」秋原和美はキュートな関西弁で続けた。

「なんかいいですね、秋原さんの関西弁。普段はあまりでないみたいだから新鮮で」

「あー、なんか江藤さんにつられてしまいましたね。普段は敬語で話すことが多いから、ほとんど標準語になっちゃいますけど。私の関西弁、レア感ありますか?」彼女と笑いながら話し込んでいると、秋原和美のマネージャーが話しかけてきた。

「おーい、和美。ん、この方とはお知り合い?」乱次と同世代の男性マネージャーは少し怪訝な面持ちで話こちらを一瞥した。

「実はお母さんの知り合いだったんです、地元の」機転を効かせた秋原和美が、マネージャーに見えない角度でペロリと舌を出した。そのほうが都合がいいのだろう、乱次も話を合わせた。

「すみません、和美ちゃんと会うのが久しぶりで。ちょっと驚いて、つい話し込んでしまいました」乱次はここぞとばかりに、今まで培ってきた演技力(?)を駆使して、エキストラの本領を発揮した。

「ふーん、、まあ周りの目があるから、ほどほどにお願いしますね」

「そんなことより、監督が呼んでるぞ。次のシーン、セリフが少し変わるみたいで」二人は慌ただしく現場へ戻っていった。マネージャーが一度振り返って乱次を見た。目があったので、お互い軽く会釈をした。

 丸一日、言動や所作を見ていれば、それなりに人となりが見えてくる。秋原和美はイメージ通り、現場でもニコニコしており明るい印象だった。だが、乱次はなにか別の一面を見たような気がした。ときおり見せる秋原和美の本番前の一瞬の表情、それは役に集中しているだけだとは思えない。自分の殻に閉じこもったような暗さを感じた。秋原和美は常に「秋原和美」を演じているのではないだろうか。


(シーン05 思わぬ贈り物)

 一週間後、エキストラ事務所のfor Cast から電話が来た。

「お渡ししたいものがあるので、事務所に来ていただけますか」

「え?ギャラだったら来月まとめて取りに行きたいんですが」僅かなエキストラのギャラのために交通費をかけてわざわざ事務所に行くのは割りに合わない。

 エキストラの平均的なギャラは大体1本6H3000円ぐらい。6時間以上に及ぶと残業代が出る場合もあるが上限がある。朝から夜まで拘束されて、5000円貰えたら多い方である。

 乱次はこの中学生の小遣いのような金額をお年玉貯金のように積み立てようと目論んでいた。確か半年分までは、ギャラの取り置きが可能だったはずだ。エキストラ登録の時にそのように説明を受けた気がする。

「江藤さん宛にフローラルさんから郵便が届いてまして、できればお早めに取りに来ていただきたいのですが」

 フローラルと言えば秋原和美が所属しているタレント事務所だ。彼女以外にも有名女優が多数所属するかなりの大手事務所であり、業界内での発言力もあると言われている。もしかして、先日の撮影現場で秋原和美と勝手に話をしたことで先方の逆鱗に触れた?知り合いとか嘘をついたことがバレた?何かしらのクレームとか通達文書が来たのだろうか。正直、やばいと言うよりはなんだか面倒だと思ったが、会社の帰りに事務所に寄ることにした。仮に何か文句を言われて、最悪エキストラ登録を抹消されてもなんとも思わない。もし、この業界から干されても乱次の生活自体には全く影響はない。

 銀座線の青山一丁目でおりて事務所へ向かった。最寄り駅こそ青山一丁目だが、細長く痩せた雑居ビルにある。4階でエレベーターが開くとそのまま事務所になっている。事務作業をしている30代ぐらいの女性に声をかけた。

「お疲れ様です、江藤です。郵便物を取りに来ました」事務の女性は顔を上げると微笑んだ。

「ああ、江藤さん。おはようございます。先日の現場、お疲れ様でした。制作会社からの評判もよかったですよ。現場の雰囲気が明るくなったとかで」誉められると悪い気はしない。

「あ、それでお届け物はこちらです」渡された郵便物を見ると、レターパックだった。なんだ、それなら最初から言ってくれたらいいのに。送り状には丁寧な字で(宛先 for Cast 江藤様, 差出人フローラル秋原和美)と書かれていた。おそらく彼女の事務所の人間が書いたものだろう。エキストラ事務所で中身を開けるのも気恥ずかしいので、そのまま自宅に持ち帰った。

「ただいまー」

「あー、おかえり」妻の里美が洗い物をしながら返答した。

「あのさ、クリスマスの日にドラマのエキストラに参加したじゃない、あの時の共演した秋原和美の事務所からレターパックが来たよ」

「えー本当に?あの秋原和美?凄いじゃん!でも、共演って、、、。あなたは単なるエキストラでしょ」里美は笑いながらも興味津々で早々に洗い物を終えた。

 中身を開けたところ、例の映画『微笑みながら紅茶を』のDVDが入っていた。あの時の立ち話を覚えていてくれたんだ、と乱次は小躍りした。そのDVDは家族と一緒に鑑賞した。妻と娘は、しきりに和美ちゃん可愛い、和美ちゃん可愛いと言っていたが、そのうちに物語りに没頭して、ポロポロ泣きながらティッシュを使い果たしてしまった。


 =映画の内容は、人々の運命を変える紅茶が注目される話。

 秋原和美は紅茶専門の喫茶店『スモール・ワンダー』の店主を務めていた。店主の人柄と不思議な癒しを求めて店はそこそこ繁盛している。その店には、人生に挫折した人々が自分の未来に一縷の望みを求めて次々とやってくる。この店の特別メニュー『未来の紅茶』を注文してティーカップを覗き込むと、未来の幸せな情景が目の前に現れるのだ。たとえば、失恋した女性には、将来子供と幸せに暮らしている情景。夢破れたミュージシャンには、別の仕事で成功している情景。

『未来の紅茶』はみんなを笑顔にする。ただ、この幸せな情景は、紅茶を一口飲んだ時点で記憶からは薄れていく。だが記憶になくても、感情的には笑顔のまま。誰もが少し涙ぐみながらも幸せな気分で『微笑みながら紅茶を』飲みほすことになる。紅茶を飲み切る頃には未来の記憶は全て消えてしまうが、なぜか心には少し余裕ができている。ここがシステムの肝要なところである。なぜなら、人生における些細な選択が未来を決めてしまう場合があるからだ。あの時に飲み会に参加してなければ、結婚していなかったかも。あの学校に入学していなければ、あの会社に入社していなければ、あの道を通ってなければ、あの電車を乗り過ごしていなければ、それぞれ別の未来があったかもしれない。

 もし、先に未来を知ってしまったら、果たしてその未来に辿り着けるだろうか。また、夢を叶えるための努力を怠ってしまう恐れもある。人間は非常に弱い生き物である。無意識だからこそ築ける未来がある。意識し過ぎて行動する事で別の未来が訪れてしまうかもしれない。だからこそ、安易に未来を知る事は非常に危険である。=


「この映画良かったわ、秋原和美って演技派だったのね。可愛いだけかと思ってた」妻と娘がやたらと感動していた。たしかに、秋原和美はそのルックスの良さが仇となり、演技力が評価されにくい女優の一人だ。どちらかと言うと個性的な顔の俳優たちの方が演技派としての評価が高い傾向にある。イケメン俳優や美人女優の演技には、賛否が分かれることが多い。人は天が二物を与えるとは認めたくないのかもしれない。思い返せば、秋原和美は何の役を演じる時も非常に丁寧な芝居をしている気がする。オーソドックスではあるが、しっかりと自分に登場人物を落とし込んでから演技をする。子役でもあるまいし、泣くシーンで母親が死ぬところを想像するわけではない。登場人物になりきって、感情の起伏を真摯に表現している。辛口コメンテーターや厳しい演出家からも、彼女には高い評価があたえられているのも納得できる。


(シーン06 はじまり)

 妻の勧めもあり、向こうの事務所にお返しで差し入れを送ることにした。日本では銀座にしか店舗がないデルレイのチョコレート。荷送人の電話番号欄は自分のスマホにしておいた。普段から個人セキュリティを意識しているので、むやみやたらに自宅の電話番号は書かないようにしている。スマホならいざとなれば気軽に番号は変えられる。

 翌日、乱次のスマホに見知らぬ番号からメッセージが来た。

『チョコレート、ありがとうございました!スタッフで美味しくいただきました』乱次は思わず、バラエティー番組のテロップかよ!とツッコミを入れたくなった。おそらく秋原和美の事務所「フローラル」のスタッフからのメッセージだろう。大手の事務所はしっかりしており、洒落も利いている。乱次は感心してお礼のメッセージ返信をした。

『いえいえ、どういたしまして。秋原さんにもよろしくお伝え下さい』まあ、こういう類いの伝言は本人には届かないだろうと思ったが、瞬時にスマホがブルッと震えてメッセージ通知が来た。

『もう伝わってますよ』という返信だった。

『リプ早いですね、今日は秋原さんも事務所にいらっしゃるんですか?』

『って言うか、本人W』予想外の返信が帰ってきた。一連のメッセージが秋原和美のスマホからだと思うと、乱次は舞い上がってしまった。

『えー、まじで?』と乱次が返信すると、

『それ、関西弁?』秋原和美が反応した。

『うん。心の声、漏れてた?』

『うん、ダダ漏れ』どうやら本物の秋原和美のようだ。

 次第に文字入力がもどかしくなってきて、乱次は思わず電話がしたくなってきた。そもそもフリック世代の秋原和美とメッセージ交換するにはスピード感がケタ違いで会話にならない。

『秋原さn、文字にゅりょく早いね』

『江藤さんも頑張ってますよ。なんか、誤字ってますけど笑』

『やっぱでんwの方が楽だよねn』

 秋原和美のリプライが一瞬止んだ。露骨に電話がしたいと思われたかもしれない。そもそもメッセージはやめ時がわからないものだが、乱次は続けた。

『すみませn。なんか変なこと言ってしまて』

『え、何がですか?』

『さっき電話とか書いたから、ちょっと引かれたのかなって思って』

『はい。今はちょっと』

『ごめん。銚子に乗って』

『違うって。だから、、、今はちょっと無理ってこと。今日も撮影日でもうすぐ本番が始まるから。夜の11時ぐらいやったら話せるけど。その時間、起きてますか?』

『まじで?もちろん俺は話したいけど、本当に大丈夫?それじゃ23時ね。楽しみにしてるよ。ジャー秋原さn、仕事頑張てね!』

『うん、あとで。江藤さんもお仕事がんばってください』

 文字だけを見ると標準語だが、二人の間では関西弁のイントネーションで会話をしていた。


(シーン7 長電話)

 23時を過ぎたものの、実際こちらから電話は掛けづらい。もしかしたら、秋原和美の仕事が押してるかもしれないし、疲れてもう寝たかもしれない。乱次はまるで中学生男子みたいに悶々としていると、スマホが武者震いをした。画面には『フローラル』と表示されている。乱次はスマホを落としたときのリスクを考えて、秋原和美の番号は事務所名で電話帳に登録しておいた。待ち望んだ秋原和美からの着信である。

 第一声は少し不機嫌だった。

「もう23時15分ですよ。なんで電話して来ないのですか?」

「すみません。もしかしたら、まだ仕事が押しているんじゃないかなとか考えてると、なかなかタイミングが、、、」

「ふふふ。嘘ですよ、別に怒ってないです。どうせそんなことだろうと思ってました。っていうか中2男子?」秋原和美は、容赦ないツッコミをいれてケラケラ笑いだした。なかなか感の鋭い娘だ。

「ちゃんと電話できる時間をお伝えしましたから。余裕をもってじゃないと約束はしませんよ。今、もう家にいます。ちなみに、、、パジャマです」

『え?どんなパジャマ?』と心の声で反応した乱次だったが、口には出さなかった。

「そうなんですか、すみません。あ、なんか悪いから、こちらから掛け直しますね」一旦電話を切った。秋原和美は乱次の数倍、いや十倍以上は稼いでいると思われる。彼女にとっては電話代など全く気にならないだろう。だが、大人の礼儀としてこちらから電話を掛け直した。

「もしもし、すみません」

「江藤さん、、、さっきから謝ってばかりなんですね。しかも敬語、さっきのメッセージでは結構フランクでしたよね」

「自分かって敬語に戻ってるやん」

「そりゃそうですよ、だいぶん年齢も離れてますし。私、相手の話し方に合わせるタイプだから、、、江藤さんがもっとフランクに話してくれたら」

「じゃあ関西弁で話す?秋原さんの関西弁、めっちゃ癒されるから」

「ホンマですか?そやったら、普通に話してもいいんですか?私、人見知りするから普段はあんまり関西弁にならないんですけど。なんか江藤さんには普通に話せる気がします」

「そうなん?なんか嬉しいなあ。あ、秋原さん、今までドラマの撮影やったん?」

「さっきまで番宣で取材を受けてました、この前のメダカの続編」

「あーそうなんや。俺、この前初めてスタジオの現場に参加したけど、改めて秋原さん凄いと思ったわ。格が違うと言うか、やっぱりプロやなって」

「ホンマに?なんか江藤さん、人を乗せるのが上手いなあ。接待ゴルフで慣れてはるとか?」

「いやいやゴルフ出来るポジションとちゃうし」

「プライベートではゴルフとかされないんですか?」

「それこそ身分不相応やわ。ドラマの見過ぎ、いやドラマに出過ぎやで。実際のサラリーマンは小遣いもランチだけでほぼ消えて行くし、滅多に飲みにも行けへんし。ランチ込みの2万やで、毎月」

「そうなんや、大変やね。じゃあ電話代もあれやから、LINE通話に切り替えませんか?ご自宅、WiFiですよね。ただで話せるし」え?まさかの秋原和美のLINEもゲット?乱次は心弾んだ。正直、金銭的に電話代が助かるのも事実だが。

「そういえば、今週の土曜日に江藤さんのご自宅の近くでロケがあるんですけど。『シャンティ』っていうケーキ屋さん知ってはります?」

「あー、いつも並んでるお店やんな。でも、よくうちの近所ってことがわかったね」

「送ってもらったチョコの連絡先を見た事務所の人が言ってました」

「あー、そうなんだ」

 結局、その日はLINE通話に切り替えてから1時間ほど話をした。やはり電話代は助かったことになる。昼間のメッセージのやりとりだけではまだ本人かどうか半信半疑だった乱次は、直接、秋原和美の声を聞けたことで100%本人である確信ができた。この日は興奮して朝方までほとんど眠れず、翌日の会社では睡魔との戦いを強いられた。


(シーン08 突然の家庭訪問)

 土曜日の朝10時頃、遅めの朝食をすませた後、乱次が部屋で掃除機を掛けていたところ秋原和美からLINEが来た。

『おはようございます。江藤さん今、家にいます?』

『いるよー。あー今日はこの近くでロケだよね』

『さっき終わりました。で江藤さんの家の近くまで来たんですけど、ちょっと時間あるから寄ってもいいですか?』

『ええっ?家に?今から?』乱次は驚いたが、秋原和美ほどの有名人が来れば家族も大喜び、というか腰を抜かすだろう。どこかのテレビ局で「実は身内が芸能人と知り合いだった?」と言うドッキリ番組を見たことがある。隠しカメラを設置したら、リアルなモニタリングが成り立つかもしれない。

 妻の里美に伝えると、文字通り腰を抜かしそうになった。

「えー!やっぱりお出しするのは紅茶でいいかしら、、、」例の映画のタイトルに引きずられているようだ。あれは役柄であり本人がリアルに紅茶好きだとは限らないだろう。娘はギャッと声を上げて固まってしまった。

 インターホンが鳴り、ケーキ屋の袋を携えた秋原和美が立っていた。久しぶりに会った彼女はやはり輝いていた。お洒落なニット帽と上質な淡いブルーのセーター、シンプルながらもエレガントなベージュのロングスカート。何を着てもやっぱりめちゃくちゃ可愛いやん!と思ったが、家族の手前、乱次は心の声を封印した。

「江藤さん、お疲れ様です。家庭訪問に来ました」秋原和美は冗談を交えながらも少し他人行儀な挨拶をしてきた。まあ、今までは文字や電話のやり取りばかりだったし、人見知りテンションになるのも仕方ないか。乱次も敬語でお疲れさまです、と挨拶を交わした。

「先日はおいしいチョコレートありがとうございました。奥さんがセレクトされたんですよね?事務所の方々も喜んでいました」

「いえいえ、お気に召していただいてよかったです。それより、DVDありがとうございました。毎日見てます、毎日泣いてます」

「ありがとうございます。ふふふ、やっぱりご夫婦ですね。江藤さんと表現が似てらっしゃいます。先日の撮影の時に江藤さんも同じようなことをおっしゃってました」

「そうでしたか。まあ夫婦ですからね。さあ、狭い我が家ですが、どうぞどうぞ」玄関先で実物の秋原和美を見た娘は、またギャッと言って固まってしまった。

 芸能人慣れしていない妻が、コントのようにカタカタ言わせながら紅茶を運んできた。リビングの家族全員の緊張が秋原和美にも伝わり、なんともチグハグな雰囲気になったが、乱次の『人間離れした演技』の話になると一斉に盛り上がって女子会が始まった。乱次は女子3人組みから強制的に通行人の演技をさせられた。

「右手右足が一緒に動いてる」「肩で風を切ってる」「侍か」「ナンバ歩きか」とツッコミのオンパレードで真面目に歩こうとしていた乱次も途中から吹き出して、大爆笑の渦になった。

 滞在時間にしてほんの30分ぐらいだろうか。秋原和美は出されたごく普通の紅茶をキレイに飲み干して、ごく自然に口紅も拭き取っていた。その辺の気遣いも出来ている。

「本当に今日は突然すみませんでした、なんか江藤さんとは話しやすくて。関西のご出身で。私、幼い頃に父を亡くしてますので、父とか叔父さんみたいな感じで」秋原和美はお嬢様のような綺麗なお辞儀をした。

「江藤さん、またどこかの現場でお会いできる日を楽しみにしています」最後は機内アナウンスのような堅い挨拶をして帰って行った。やっぱり電話じゃなくて面と向かって話すと緊張する。秋原和美もどこか演技というか他人行儀の感じがした。もちろん赤の他人でしかないのだが、また秋原和美に会いたい。また奇跡がおこらないものだろうか。

 数秒後に秋原和美が慌てて戻ってきた。一体、何度目の奇跡かと思ったが、手に持っていたケーキを渡し忘れたとのこと。

「す、すみません!さっきロケで行ったお店で頂いたのですが、私、今ダイエット中なので、よかったらどうぞ」そのおっちょこちょいな仕草は、彼女の可愛らしさをより一層に引き立てた。それに加え、秋原和美の気遣いは、江藤家にとって心地が良いものだった。秋原和美が帰ってからというもの、妻と娘のマシンガントークはとどまるところを知らなかった。やたらと秋原和美を褒め称えていた。

「本当に良い娘さんだったよね。実際に話をしたら人間も出来てるし」本当に良いお嬢さん。これは妻、里美の本心である事に間違いはない。だが、何故か里美の心は釈然としない。あのお嬢さんは、まわりへの気配りとか出来ているし、有名人のおごりもない。話し方にも嫌味がなく育ちの良さを感じて全く悪いところはない。それなのに、、、それなのに女性の本能だろうか。里美は何故か秋原和美を好きにはなれない気がした(嫉妬?まさかねぇ。それはどう考えても無理があるし)と、鋭い女の勘も残念ながらこの物語の中では活かすことができない。なにせ原作者の怠慢、ご都合主義により、妻の里美の活躍の場どころか、今後の話の展開に家族はほとんど登場しない。そんなことが許されるのだろうか。にわかに信じ難いが、小説と言うものはペンを取る者が神様なのだから仕方がない。

 

(偶然から必然へ)

 翌日、乱次は秋原和美とLINE通話をしていた。もやは奇跡や偶然ではない。秋原和美との繋がりは、必然とも言える普通のことのような感覚であった。

「昨日は急にすみません。ご迷惑でしたよね?」

「いやいや、家族はめっちゃ喜んでいたよ。来てくれて本当にありがとう」

「なんか、、、江藤さん、いいご家族ですよね」

「あー、かずみちゃんお父さんがおらへんかってんな。知らんかった」

「他にも知らんことたくさんあると思いますよ。秋原和美は芸名って知ってはりました?漢字違いで本名は秋原和実、『実る』って書くんです」

「それは知ってた。ウィキペディアで見たし」

「へー、わざわざ調べてくれたんですか?」

「あ、ごめん。キモいよね。おタッキーやんな」

「ううん、全然。江藤さんって、なんかいつも自虐的ですよね」和実はクスクスと笑った。

「もっと言うと、さっきさりげなく『かずみちゃん』って呼んだけど、和美ちゃんじゃなくて、和実ちゃんって呼んでたから」

「なんのこっちゃ。会話やとわからんっちゅうねん。まあ言いたいことわかるけど、絶対テロップが必要やし」和実はケラケラ笑いだした。

「それにめっさぎこちなかったし。初めて名前で呼んでみました感がありありで」和実は涙を出しながら笑っていた。

 ちなみにこの会話以降、二人は乱次の家族に関してはあまり触れなくなっていた。なにもこの二人の頭のネジが飛んでいるわけではない。口説いようだが、これはストーリーの展開が面倒という著者の都合でしかない。

 その後も乱次と和実は、LINEのやり取りを続けた。ほぼ毎日のように、

『撮影だよー』『打ち上げだよー』ほぼツイッターに近い、たわいも無い実況報告。親子以上、友達未満?多分、そんな感じだろうか。たまにはLINE通話をすることもあったが、乱次は和実ともう一度会いたいという想いに駆られた。こうやってスマホで繋がることが出来ただけでも幸せなのに、全く贅沢な話しである。これ以上、何を望むというのだろうか。これ以上、、、

 彼女は今日、取材だったはずだ。そろそろ仕事が終わる頃だろう。LINEのやり取りから乱次は和実のスケジュールをなんとなく把握するようになっていた。もしかしたら、事務所の人間より詳しいかもしれない。

 そんな中、乱次は和実にLINEで尋ねた。

『今日、少し話せる?』

『うん、もう少しで家に着くから、30分後ぐらいだったら』

 そして30分後、乱次は和実に連絡した。

「和実ちゃん。お疲れ様」

「うん、、、」

「昨日の和実ちゃんの主演のドラマ見たよ、次が気になる内容だね」

「うん、、、」

 電話越しでも陰鬱な雰囲気が漂っている。それは初めて和実と出逢ったときに感じた、言い表せない違和感であった。彼女は言葉数が少なく、控えめな性格に見える。彼女は自分自身を守るために、他人から距離を取っているようにみえる。

 彼女は女優なので、知り合いは多いが、なかなか距離は縮まならい気がする。親友になるのは難しそうなタイプだ。また、世間的に秋原和美は笑顔のイメージがあるが、どこか繕っているように感じられる。彼女の瞳には時折、悲しみをにじませたり、微かに震えたりすることがあった。

 秋原和美は、雑誌のインタビューで自己分析をしていた。自己肯定感が低く、前に出るタイプではない。緊張しやすい性格で表情が固くなる。女優になったのは目立ちたいのではなく、演じてみたかったからと語っていた。結局は目立つことになってしまい、戸惑いがあったようだ。それでも女優業はやりがいはあるとも語る。引っ込み思案の自分でも、役の上では何にでもなれるからだ。彼女の内に秘められた才能が開花した理由の一つでもあるだろう。

 数年前に、乱次は秋原和美が海外ロケで外国人のお宅訪問をする番組を見たことがある。番組自体は普通の内容だったが、一つのシーンが乱次の心を揺さぶった。秋原和美が訪問先の部屋を次々に紹介される中で、外国人がドアを開けっ放しにしていた。誰も気にもとめないシーンだが、彼女が何気なくドアを閉めた。その咄嗟の行動に、乱次は彼女の誠実さと思いやりを感じた。普段からそういう習慣があるからこそできたことだと感じた。

 乱次は主役を引き立てるというエキストラ魂からか、このまま和実をほっておくわけにはいかないと感じた。

「和実ちゃん。どうかしたん?」乱次は和実に寄り添って問いかけた。

「、、、別になんもないです、少し疲れただけ」

「そうなんや、ごめんね。寝たほうがいいんちゃう?もう通話切る?」

「ううん、大丈夫。そういうことじゃないから」和実は微妙にイラッとした口調になった。彼女の心が少し揺れたような気がした。

「そやったら今度ご飯でも行く?」乱次は言ってすぐに後悔した。(しまったあ。何が、『そやったら』やねん。今の会話の流れ不自然過ぎる!)と心の中でボケツッコミをした。ところが、和実は意外で迅速なな反応をした。

「えっ、ホンマに?それなら私、元気になれるかも。いつにします?江藤さん、明後日の夜とかお時間ありますか?」

「うん。全然大丈夫だよ。お金はないけど、時間はあるから」乱次の蛇足的な会話に、和実が穏やかに笑った。

「私がお店を決めてもいいですか?仕事柄っていうか(笑)、あまり目立たないお店がいいから。少し高くなっても大丈夫ですか。あ、もちろん割り勘で」和実は決して自分が奢るとは言わない。中年男性のちっぽけなプライドを理解している。それでいて、こちらの財布事情も心配してくれている。若い女性とは思えない、大人びた思慮深さを持ち合わせていた。

 

(シーン09 秋原和美でなく、秋原和”実”として)

 当日21時に乱次は和実と京急線の北品川駅で待ち合わせをした。北品川駅は隣の品川駅から徒歩圏内のため、意外にも1日の乗降人員数は一万人以下、京急沿線でも72駅中59位で人通りも少ない。たしかに穴場かもしれないが、SNSが蔓延る現代社会、全く気は抜けない。数年前に不倫騒動を起こしたメアリーのLINE流出の件が頭を過る。あの記事をきっかけにして、芸能界の不倫への当たりが一気に厳しくなり、世の中の流れが変わった気がする。芸能人に限ったことではないが、現代人はSNSに秘匿性があると過信している傾向にある。決して対岸の火事とは思えない。相手に迷惑がかかる可能性がある。乱次は古いスマホのリセットやパスワードの見直しなど、改めてセキュリティをチェックした。何か対策が必要かもしれない。

 その日の待ち合わせ時間は21時だったが、浮き足立った乱次は20時半には到着していた。完全に早過ぎる。女性は待ち合わせには少し遅れるのがテンプレートだし、ましてや秋原和美は多忙な人気女優である。仕事が長引くことも考えられる。

 そうなると1時間以上待つ可能性もあるが、乱次は全く苦にならない。なぜなら、あの秋原和美を待つという最高の贅沢な時間を過ごしているのだから。いや、乱次が待っているのは秋原和美ではなく、秋原和実だ(ここ重要!)大女優ではなく、ひとりの女の子と待ち合わせをしている。和実のルックスはズバリ乱次の好みでど真ん中のストレートだ。しかしながら、今ではむしろ和実の内面、誠実さ純粋さ儚さに惹かれている。どことなく不器用な和実も愛おしくて、仕方がない。

 やがて、待ち合わせの15分ほど前にひとりのマスク姿の女性が改札から出て来た。ほぼノーメイクにニット帽。ジーンズにベンチコート。まさか秋原和美とは誰も気づかないだろう。だが、乱次はすぐに和実だとわかった。まるで歩く姿は百合の花。乱次は丸一日、彼女の立ち振る舞いを見ていられる。飾らない性格の和実はサングラスや違和感のある伊達メガネなんかはしない。あんなもの掛ければ余計に目立つ。なんだかんだで有名人アピールをしたい芸能人とは一線を画する。

 やがて和実もこちらに気がついた。

「江藤さん!早いですねー」

「和実ちゃんこそ、女の子にしては早いやん!そこポイント高いよ」

「初めてのご飯やし、わざと少し遅れる演技するのもなんか失礼ちゃうかなあって」やっぱりこの娘は心の底からピュアだ。

 駅から5分間ほど歩いて和実セレクトの小粋なレストランに着いた。和実とは顔なじみの店のようで、手際よく一番奥の個室に案内された。先ずはビールで乾杯!まるで夢のようだ。心の底からビールが旨いと感じた。

「すみません、急にお誘いしてしまいましたけど、大丈夫でした?」和実は両手を合わせながら上目遣いで言った。

「全然、むしろ早く会えて嬉しいよ」

「えー、本当ですか?」

「さっきから思ってたけど、、、和実ちゃん、どうしたの?」

「え?何がですか?」和実は大きな瞳をさらに見開いた。

「電話のときはもう少しリラックスしてたように思えたけど、なんで緊張してんの?」

「なんでって、、、実際にお会いするのは3回目ですし。人見知りが出ちゃってるかもしれませんね」

「それに標準語モードになってんじゃん」

「江藤さんのほうこそ、標準語になってますよ。今も『じゃん』って。滋賀県出身の癖に」と和実は関西弁で笑った。

「心の声、漏れてますやん」乱次も大げさな関西弁で応戦して、ふたりで顔を見合わせて笑った。

 ナチュラルメイクなのに、和実はどこまでもめちゃくちゃ可愛い。そうやって乱次が和実に見惚れていると二人のの視線がぶつかった。乱次がふざけて和実に向かって手をかざして眩しい仕草をすると、

「江藤さんどうしたんですか?え、和実の笑顔が眩しい?、、、って恥ずかしいこと言わせんといて!」彼女は笑いながら顔を赤らめた。和実はいつのまにか乱次と話すときは、自分の事を 『和実』と言うようになっていた。これは乱次に気を許してくれているという証左だろうか。

 美味しい料理に舌鼓を打ちながらお酒も進み、ビールからワイン、梅酒と進むうちに少し酔いが回って来た。和実の口調もタメ口の関西弁になってきた。

「和実ちゃんて、料理とかするの?」

「和実、こう見えて結構レパートリーあるから。今度、江藤さん食べに来る?」

「もちのろんだよ!でもホンマに招待してくれんの?和実ちゃん、酔ってるから。明日になったら忘れてるんちゃう?」

「あー、ひどいなあ。せっかくお酒の力を借りて言うてんのに」

「え?」

「ええねん、ええねん。気にせんといて。それより、もっと飲みましょ」和実は誤魔化すように飲み物メニューに目を向けた。

 その後も楽しいお酒を飲みながら、あっという間に2時間が過ぎた。

 店から駅までの道、和実が酔っているのか、ふざけているのか腕を組んできた。

「和実ちゃん、俺は嬉しいけど。やばいんちゃう?写真とか撮られたら、どうすんの?」

「この辺は多分大丈夫やって。それにどうせ並んで歩いてるだけで撮られるんやったら、しがみついとかんと損やん!」関西人は何事も損得勘定で判断する癖がある。

「それより、今、また乱ちゃんの心の声漏れてなかった?なあ、和実がくっついたら嬉しいん?」上目遣いの笑顔が可愛すぎて乱次は立ち止まった。そして、思わず和実を抱きしめた。

「漏れたんじゃないよ。ほんまに嬉しいから、ちゃんと口に出してゆうてん」

「乱ちゃん、やり過ぎ、やり過ぎやって。それは目立つからあかんって!外で抱き合うって、あほの芸能人みたいやん」和実は乱次の背中をパンパン叩いた。

「あれ?いきなり平常心、和実ちゃん酔うてたんちゃうの?」

「だから、さっきからゆうてるやん、お酒の力を借りてんねんって!ほら、早く離して」か細い声で和実が呟いた。

「あ、ごめんごめん」と言いながら乱次が和実を離そうとした。

「ほんまは離れたくないけど、、、」和実の囁くような台詞で乱次のスイッチが入り、また和実を抱きしめてしまった。

「ほーら!乱ちゃんってば」叱られた子供のようになり、ようやく乱次は和実を離した。ただし手は繋いだままで。そういえば、いつのまにか乱次も和実から名前で呼ばれるようになっていた。

 乱次も和実もそのまま帰りたくはなかったが、お互いにそんな心の声を漏らさないようにして、その日はそれぞれの家路についた。

 いつもの電車で揺られていると、ふと我に返る。一体何をやってるのだろうか。全く現実味がなく、ふわふわしていて地に足がついていない。まるで幽体離脱をしているかのように、自分が自分ではない。これから大胆なことをやろうとしているかもしれないが、まるでドラマでも観ているかのように他人事にも思える。これは夢だと思うからか、不思議と罪悪感はない。なにも背徳感を感じないのだ。

 それからも何度か和実とは食事をした。何回か和実の顔を指しそうになったが、その都度、タクシーに飛び乗ったり、角を曲がって全力疾走したりして、毎回なんとかその場を切り抜けていた。


(シーン10 オータムフィールド)

 ある日の夕方、和実の指定の店で待ち合わせをする事になった。その日、乱次の妻と娘は旅行中だったため、遅くまで和実と一緒にいられる。まだ和実には秘密にしてある。

 店の名前は『オータムフィールド』で広尾にあり、完全予約制でありながら、webにも掲載していない隠れ家的な店らしい。和実の指令通り、広尾駅から10分ほど歩くと、閑静な住宅街で、いつの間にかに辺りは緑に包まれていた。なんか宝探しみたいで少しワクワクする。

 指定の場所に着いたが、どう見ても高級マンションである。もしかしたら、どこかの1室に知る人ぞ知る隠れ家的なレストランがあるのだろうか。乱次はマンションのエントランス前から和実に電話をかけた。すると玄関のロックが解除されて、エレベーターで19階まで上がった。そして、指定された1903号室の前でインターホンを押した。すると、中からエプロン姿の和実が「いらっしゃいませ」と言いながら無邪気な笑顔で乱次を迎え入れてくれた。

「うわぁ、なんか本当に普通の家みたいな店だなあ。ってか普通の家やん!」乱次は軽快なノリツッコミを披露して、和実は吹き出した。

「え、今気づいたん? 店の名前でわかると思っててんけど」

「え?んー、オータムフィールドで、、、」

「秋原!」 と二人で声を揃えて言った。嬉しいサプライズだった。初めての和実の部屋にきた。

「へー、いい部屋だねー」

「うん、、、普通はこんなところ住めへんよね」和実は少し浮かない顔をしている。おそらく乱次が卑屈にならないように気遣っているのだろう。ここは乱次の収入で住めるようなマンションではない。やはり一般庶民と売れっ子芸能人では、金銭感覚が全く違う。いくら和実が庶民派でも、有名人になればどこにでも住めるわけではない。ごく自然に住める場所は制限され、セキュリティの行き届いた高級マンションに住まざるを得ない。

 昭和世代の乱次には、男性特有のプライドもある。和実の前では極力、ネガティブな性格はひた隠しにしてきたつもりでも、感のいい和実には落ち込みやすい性格を気づかれていたようだ。

「和実、ありがとう」

「え?うん、、」

「でもね。和実が頑張って成功した結果やし、セキュリティも必要やねんからさ。俺に気を使う必要なんかないよ」

「うん。ちょっと迷ったけど、やっぱり乱ちゃんに来てもらって嬉しい」

「俺の方こそ、和実の部屋に来れたことも、その和実の気持ちも嬉しいよ」乱次は和実を抱き寄せた。

「ちょっと待って。ご飯を食べに来たんでしょ?オータムフィールドに」離れようとする和実を強く抱きしめた。

「違うよ、和実を食べに来たんだよ!」乱次はニヒルに決めたつもりだった。

「うわぁ、さむっ!」和実は笑い出した。

「ドラマの見過ぎか!いや出過ぎか!エキストラやけど、、、しかもなんで急に標準語やねん!」和実のツッコミは止まなかった。

「ええねん!」乱次はさらに強く和実を抱きしめた。

「あかんって、、、」和実も観念したようだ。和実の顔を引き寄せて優しく接吻をしたら、さすがの和実も大人しくなった。

 まもなくして『オータムフィールド』が開店して、和実の手料理を食べた。本当に店を開けるほどに美味しい。二人の会話も弾んだ。シャンパンも和実らしく可愛いピンクのラベル。知り合いからもらったと言うクリュッグロゼは数万円するだろう。多少のプラセボ効果もあったものの、値段相応で、高いワインは上品な酸味で美味しい。でも和実と一緒なら、たとえ赤玉パンチでも美味いはずだ。(古過ぎて和実には知らないと言われたが)

 乱次は洗い物を少しだけ手伝った。和実には座っているように言われたが、二人ででやる方が早いし、一緒に過ごす時間が増えるから、と諭したら和実は納得してくれた。

 ソファに座った和実はケラケラ笑い出した。

「なあ、さっきも思ったけど、乱ちゃんって結構さむいこと言うやんな。初めて逢った時もそうやったし。メダカの現場で和実の映画の話したくだりあったやん。乱ちゃんが結局見逃したって言ってたやつ。あのとき、『時すでにお寿司、、、』とか、めっちゃさむいこと言ってなかった?」

「そうやったかなあ」

「あれさあ、楽屋で思い返してツボってもうたもん。おなかがよじれるくらい笑い転げてたら、マネージャーさんとかもびっくりして」

「じゃなんであの場で笑ってくれへんかったの?」

「だってあの時は初対面で和実も緊張してたから気づかへんかったんよ。乱ちゃんも緊張してたやん」

「そうかもなぁ、たしかに緊張してたわ」

「緊張してる癖にあんなギャグをぶち込んで来るとか、どんだけ笑いに貪欲やねん。と思って」和実は笑い転げている。

「まさに緊張と緩和やね」

「ほんで事務所の人にマジで心配されて、、、。あの頃のスケジュールは殺人的に忙しくしてたから、和実がおかしくなったって。休ませないとまずいと思われたみたいで」

「え、まじで?」

「そんで、ケーキ屋のロケの後、お休みもらえたから江藤家にお邪魔して」

「あーそうなんや、そんな伏線があったのか」

「そんでまた、その江藤家が家族総出で緊張しまくってるから。和実まで緊張したわ。緊張感は伝染するっちゅうねん。基本的に和実も緊張しいやし」

「芸能人やのに未だに緊張するの?なんか親近感あっていいね」

「わあ、それ嬉しいわ。そういうのを大切にしていたいもん」

「芸能人に染まりたくないとか?」

「芸能人というか、人に見られるお仕事と言うことは自覚してんねん。しっかりせんなあかんとか。でも、なんか実感がなくて。和実の中身自体は、なんも変わってへんもん。なんで自分はここにいるのかなあとか、未だに不思議な感じ」

 それにしても時間が経つのは早い。22時を過ぎて和実は時間を気にし始めた。

「乱ちゃん、そろそろ帰ったほうがええんちゃうの?」

「今日は帰らへん」

「え?」和実は少し戸惑った顔で応えた。

「実は、、、家族は旅行中やねん」乱次はこのマジックの種明かしをした。和実の喜ぶ顔が見れると思っていたが、急に真顔になり少し涙ぐんだ。

「アホ!乱ちゃんのアホ!そんなんやったら最初から言えばいいやん。そんなんマジックでもサプライズでもないわ!和実がどれだけ、、、」今まで和実が我慢してきた感情を、すべてさらけ出したような気がした。乱次は言葉が見つからず、ただ和実を後ろから抱きしめた。

「でも、嬉しいけど、、、」和実はか細い声でさらに大粒の涙をこぼした。堪らなく和実が愛おしい。乱次は和実の涙を拭う間もなく、半ば強引にくちびるを奪った。

 レースのカーテンから漏れる優しい朝の光が、和実のあどけない寝顔を照らし出している。その美しい肌に吸い寄せられそうになる。疲れているんだろうか、このまま静かに寝かせてあげたいと思ったが、つい衝動的に和実の鼻先にキスをした。すると、和実は目を覚ました。大きな瞳でじっとこちらを見つめている。

「あ、起こしてごめん」

「ううん、大丈夫やで。それより、、ずっと和実の寝顔見てたん?恥ずかしい〜」和実はシーツで顔を隠した。

「なあ、和実、口開けて寝てなかった?」シーツから少しづつ顔を出す仕草も可愛らしかった。乱次は和実を抱き寄せた。そして、二人だけの特別な時間がゆっくりと流れていく中で、互いに触れ合い、心を通わせた。


(シーン11 やじろべえの思い出)

 あるとき、和実が父親との思い出を話してくれた。

「え、お父さんの記憶?うーん、まだ小さかったけど、やじろべえの話とか覚えてるわ」懐かしそうに和実が言った。

「へー、やじろべえの職人さんだったんだ?」

「そうそう、腕はいいけどこれが頑固オヤジでね。自分の気に入らない作品は、こうやって、あかん左右のバランスが、、、クソ。ボキッて」和実はジェスチャーを交えながら乗っかった。

「なんでやねん、何の思い出やねん!そんなニッチな職人、いまどき需要あるのかい」和実は五月雨式にツッコミを続けた。

 二人でさんざん大笑いしたあと、和実は乱次の肩にもたれながら少し真顔になった。

「人生は、やじろべえ、やねんて」

「え、なにそれ?」

「さっきのお父さんの話。悪い事が起きても、後には必ずええことが待ってるって。それで人生はバランスが取れてんねんって」

「そうかなあ。俺はどちらかというと不幸せ気味だけど」

「それは幸せを実感していないからやと思うねん。幸せはあとから、感じるもんやん。あー、あの時は幸せだったなあとか」和実の年齢にしては悟りが深い。いろいろ辛い経験もしてきたのだろう。

「で、乱ちゃん。和実と出逢って幸せちゃうの?」和実のプク顔はかわいい。

「和たんと会う前の話だよ」乱次はニヤニヤしながら言った。

「えー、なになに?急に『和たん』って。めっちゃキショイんですけど」和実は大笑いした。

 乱次と和実は普段の生活では、標準語を話しているので、周りからは二人とも関西出身者だとは思われていない。だが、二人っきりでいる時は関西弁ベースで会話をすることが多い。時折、二人だけの言葉遊びをする。標準語のカップル。大阪の女と東京の男、その逆など。様々なシチュエーションを楽しんでいる。また乱次と和実はボケとツッコミの役割もその都度交代する。

 もしかしたら、和実の標準語は変装の一種なのかもしれない。和実は関西出身を公表しているものの、テレビではほとんど関西弁は話さない。関西人のイメージはほとんどないから、街で関西弁で話している女の子を見ても、だれもそれが秋原和美だとは思わないだろう。


 二人は和実のマンションのダイニングで、ゆったり食後の紅茶を飲んでいた。

和実は頬杖を付きながら、乱次が何やらスマホを操作する様子を眺めていた。

「なーにやってんの?」

「アカウントを作ってるんだよ」乱次はスマホに目を落としたまま応えた。

「Googleアカウント?乱ちゃん、新しく作り変えるの?」和実は乱次のスマホを覗き込んだ。

「いやそうじゃないよ。二人で一つのアカウントを使うねん」

「ん、どういう事?」和実にはさっぱりわからない。

「だからね。メッセージやLINEを送信すると情報が漏れるから、下書きフォルダを利用するんだよ。メールは送信はせずに」

「へー、それって情報漏洩しないの?」和実は頬杖をついたまま、不思議そうに尋ねた。

「そうだよ。これだとアカウントを知らない人には絶対に漏れないよ」乱次は得意そうに答えた。

「へー、それって乱ちゃんが考えたの?」

「ううん、元CIAの人が使っていたらしい、誰も知らない秘策みたいだよ。」

「へー、じゃあ、なんで乱ちゃんが知ってんの?」

「それはネットに出てたから、、、」と言いながら、手の動きを止めて、一瞬右斜め上の天井を見上げた。和実はじっと乱次を見つめている。

「え?」乱次は和実と目があった。

「ん?」和実は首を少し傾けた。

コントのようなやり取りをのあと、和実はカップを片付けようと立ち上がった。流し台に向かいながら話した。

「結局バレるものはバレるんだよ。たとえば、伝書鳩を使ったとしてもさ、鳩を捕まえられたら終了やし」和実は鳩を捕まえるジェスチャーを交えた。

「ふるっ!昭和の人かよ」

「古くて悪かったわね。一応、平成生まれですけど、なにか?」和実のプク顔が、乱次を微笑ませた。


(シーン12 夢の国)

 『エレクトリカルパレードが見たい』

 乱次はそんな和実の夢を叶えたくなった。行楽地に気軽に行けないことを有名税で済ませるには、可哀想である。やはり和実も年頃の女の子である。周りの友達みたいに遊びたい気持ちはわかる。

 夜であれば、ノーメイクで眼鏡をかければ大丈夫だろうと、乱次と和実は思い切って夢の国へ繰り出す計画を立てた。

 まずは少し安っぽい服のほうがより目立たないという事で、二人はパシオスの衣料品売り場でショッピングをすることにした。街の中で和実が気付かれないかどうかのリハーサルも兼ねている。まさか有名女優がこんなところに来るとも思わないようで、周りから気づかれずに済んだ。もちろん用意周到で予め乱次が1人でロケハンしており、顔バレした時に逃げ切る動線も確保していた。和実は程よくダサめで、そこそこの品質のTシャツとジーンズを手に入れた。乱次はわざわざ買うまでもなかった元々、庶民的な衣服以外は持ち合わせていない。

 ここ、東京ディズニーランドは夢の世界だから、芸能人がいても気に掛ける人はほとんどいない。それでも昼間だと修学旅行の学生に囲まれる恐れはあるが、平日の夜なら何とかなるかもしれない。

 乱次調べによると、意外にも空いてる月は7月、夢の国にとっても猛暑と雨の組合せは大敵で入場者数は比較的に少ないらしい。おすすめの曜日は火水木。今回は木曜日の夜に行った。

 人が少な過ぎると、かえって和実が気付かれるリスクも増える。ある程度は人がいてある程度は活気に満ち溢れていてほしい。かと言って人が多すぎると、待ち時間が長いアトラクションにはうんざりする。つくづく人間はわがままな生き物だ。だが、矛盾こそ生きている証かもしれない。

 夜のパレードまではまだ少し時間があると言うことで、バズライトイヤーのアストロブラスターに乗る事にした。この時間になると、ほとんど待たずにアトラクションに乗れるようになる。和実もはしゃいでいた。

「うわぁ、これめっちゃおもろい」

「初めて乗ったの?」

「うん、前から乗りたかったけど、いつも混んでたから」やはり周りの目が気になっていたんだろう。昼間の夢の国では、長時間並ぶのにも気を使う。やはり有名人になると、何気ないことでも気を遣わなければならず、多くの犠牲を払うことがある。当たり前のことを当たり前にできななることもありそうである。

 やがて夜のパレードが始まった。

「めっちゃ綺麗!」「きゃあ可愛い!」単純な言葉ばかりだが、かえって和実の感動が伝わってくる。心のそこから楽しんでくれている。最近の和実は笑顔がより自然になってきたような気がする。開いた笑顔とでも言うのか、なにか心の壁が取り払われたようにも思える。

「なあ乱ちゃん。君の方が綺麗だよ、とかさむいことは言わんといてな」和実に釘を刺された。すっかり乱次の言動パターンを読まれているようだ。

「なんでわかったん?」

「なんとなく、何考えてるかわかるよ。だって好きやもん」和実はふとした時にドキッとすることを言ってくれる。乱次もこれ以上は茶化したくはなかったので、無言で和実の肩をやさしく抱き寄せた。和実はそのまま乱次に身を委ねた。

「ねぇ、このままで、、、、」二人は同時にその言葉を言った。そして、お互いの目を見て微笑みあった。

この儚い一瞬の時間の中に、二人は永遠を感じた。


(シーン13 センテンススプリング)

 それは二人にとって突然の出来事だった。目の前のテーブルの上には、乱次と和実が手をつないでいる写真が一枚置かれている。目の前の相手は週刊誌の記者ではない。秋原和美のマネージャー、篠崎だった。三人は篠崎の行きつけの料亭にいた。まるで政治家がトップ会談するかのように離れの席で人払いもしてある。

「もし、私がセンテンススプリングの記者だったら?もし、この写真が世に出たら、お二人ともどうなるかわかりますよね?」篠崎は落ち着いた口調で話し始めた。乱次は言葉が出ない。喉が渇いてきた。まるで砂漠を彷徨っているようだ。

「江藤さん。秋原和美にとって、今がとても大事な時期だと言うことも、ご理解いただけてますよね」篠崎は穏やかな口調のまま話したが、どこか凄みがある。

「はい、、、」

「それで、うちの事務所には他にもたくさんの女優が所属しています」篠崎は乱次の隣にいる和実にも顔を向けた。和実は呆然としており、俯いたままキュッと唇を噛んでいる。

「お二人の関係を解消して女優を続けるのか、引退して交際を続けるのか。江藤さんはご家庭をお持ちなので、このまま自由恋愛では済ませられない。当然会社としても看過できないですね。もちろん会社として、このタイミングで秋原和美に辞められたら困りますよ。私も責任を問われますし、クライアントから賠償請求もされるでしょう。事務所の負担も秋原の負担もある。でもね、今の時代でタレントを拘束しすぎると、それこそ人権問題になる。我々はあなた達に強制はしません。うちも女優の卵はたくさん育てていますから。後はお二人で話し合ってください」篠崎は憤りを表現することもなく、終始事務的に話をして席を立った。あくまでも表面上の選択肢は二人にあるかのように。

 しばらくの間、残された二人には重苦しい沈黙が流れた。和実が女優を引退する事はありえない。和実は幼い頃から女優に憧れて、幾度ものオーディションを経てようやく手にした夢である。デビュー後も仕事がない日々が続いて苦労した。主役級の仕事が増えたのはここ数年、まさに脂がのっている時期である。普段のインタビューでも和実は生涯女優を公言している。

 和実は固まったまま微動だにしない。

「篠崎さん、いつから気づいとったんかな」

「そんなことより、乱ちゃんはどうしたいの?」和実は大きな瞳で乱次を見つめた。

「篠崎さんは、あんなふうに言ったけど、選択肢はないと思う。和実は女優を続けるべきだし」乱次がやりきれない口調で言うと、和実はため息をついた。

「そう言うと思った。乱ちゃんはずるいよ。女優は和実の夢だから?和実のためだから?」

「え?」

「だから、、、乱ちゃんは和実が引退せえへんって決めつけてるやろ」

「そんなことないよ」

「じゃあ、もし和実が女優引退して、乱ちゃんと一緒にいたいって言ったら?」

 その和実の真剣な眼差しに乱次は目をそらすことが出来なかった。

「その時は俺も覚悟を決めるよ」

「うそ。乱ちゃん、めっちゃ困った顔してるやん」

 和実は大きく息を吐いた。

「もし和実が引退しても、しばらくはマスコミとかファンの目を気にして生活せなあかんねんで、何年も何十年も。当然、引退したら事務所も守ってくれへんし」

「そしたら俺が和実を守るよ」

「現実を考えてよ。乱ちゃんの方も簡単ちゃうやろ。会社にもいれなくなるで。それに娘さんが高校生の間はお父さんでいたいんちゃうの?」

 乱次は言い返すことができなかった。

「そやったら、いつまで待てばいいの?娘さんが高校卒業したら、次は大学卒業まで?就活も父親がいないと不利になる?その次は結婚式に父親がいないと可哀想?結婚後は実家で里帰り出産するから両親が揃ってたほうがいい?」和実の言い分に乱次は言葉がなかった。和実のことは好きで好きで仕方ない。本当に離れたくないたと思っている。でも、今のままでは身動きが取れない。

 結局この日は結論を出せなかった。もう少し冷静になって考えるように、数日後にもう一度二人で話し合うことにした。和実をタクシーに乗せた後、乱次は東海道線で家路に向かった。

 電車の中は呑み帰りや残業帰りのサラリーマン達でごった返している。いつもの満員電車で乱次は現実に引き戻された。ここでも身動きがとれないのか、と乱次は苦笑いをした。ついさっきまでの出来事が、まるでドラマや映画みたいに他人事のように感じる。しがないエキストラが、何かの手違いでいつのまにか主役級の役者になってしまった。乱次は現実と妄想が交錯している点に、独りだけ取り残されたような感覚だ。

 だが、自分だけがドラマチックな経験をしてるというのは、思い上がりに過ぎない。ここにいる乗客も全員が、それぞれに壮大なドラマを抱えているはずだ。人は誰かとすれ違ったり交わったりして、新しいドラマが生まれては消えている。和実と乱次もたまたま出逢っただけ、ひと時の間、お互いのドラマが交わっただけに過ぎない。当然、和実と出逢う前の乱次の人生も、かけがえのないドラマの連続があった。生まれた時は、両親や祖父母などまわりの人たちを笑顔にしたし、ときには誰かを悲しませたこともあったはずだ。

 人は誰かに迷惑を掛けながら、誰かのお陰で生きている。みんな一様に誰かのドラマに参加している。それは物語のヒーローやヒロインみたいなメインキャストではないかもしれないし、脇役ですらない通行人のような端役かもしれない。

 こうやって考えてみると、エキストラが物語に欠かせない役割だと気付かされる。人生において無駄なことや無意味なことなんてない。日頃の全ての出来事が、人生のなんらかの伏線になっているような気がする。人から見たらちっぽけな事かもしれないが、当人にとってはかけがえのない、守るべきことをたくさん抱えている。

 乱次には、もう一つ気になることがあった。篠崎が去り際に乱次の耳元でつぶやいた言葉。「あなたはエキストラですよね?」が、耳から離れない。エキストラだって人間だから、人を好きになることもある。ただ、、、。


(シーン14 エンディング)

 外で会うとリスクがあるため、二人は和実のマンションで落ち合うことにした。その日は和実は1日オフで朝から家にいる。和実は一歩も外に出ず、乱次が部屋を訪れたのは夕方であった。二人は無言のまま抱き合った。

 今までで一番長いキスの後、和実は乱次の胸に顔を埋めたまま話し始めた。

「だから、、、」和実はため息をついた。

「乱ちゃんには無理やねんって。和実は乱ちゃんの事がめっちゃ好きやから、仕事辞めても構わへんよ。でも、乱ちゃんが今の生活をやめることは出来へんやろ。会社で一所懸命働いて家族を支えてるんやもん。大体、そんな簡単に割り切れるような薄情な人やったら、こんなに好きになってないから」乱次は何も言えず、沈黙の時間は永遠に続くかと思われた。

 やがて、和実が大きく息を吐いた。

「もし和実と乱ちゃんが一緒になったら、絶対に乱ちゃんに迷惑がかかるやん。乱ちゃんは普通の人やのに、いろんな人に好奇の目で見られてしまうし、会社もやめんなあかんかも。危険な目にあうかもしれないし」和実は冷静に状況を分析していた。

 有名人は引退しても有名人である。引退理由を徹底的に探られて、不倫が明るみになるのも時間の問題だろう。そうなると世間やマスコミは二人を許さない。事務所を辞めれば後ろ盾もなくなる。誰も守ってはくれない。おそらく日本ではまともな生活も送れないだろう。

 あの人は今、、、のように何年経ってもメディアから追い回されたりするかもしれない。もしかしたら、熱烈なファンが思わぬ行動を起こすかもしれない。秋原和美の女優としての実績は、デジタルタトゥーどころでは済まされない。二人はお互いを守るため、別れを決断せざるを得なかった。

 今思えば、最初から、、、二人が始まった時から、この結末はわかっていたのかもしれない。少しでも長く一緒にいたいという想いと、ブレーキの効かなくなったお互いの気持ち。二人とも不器用な性格である故、華麗に恋を乗りこなすことは出来なかった。

 二人にとって一番大切なもの、乱次にとっては家族を、和実は芝居を捨てる寸前までいったが、崖っぷちギリギリで理性を保つことができた。それはお互い相手を想う優しさでもあったし、お互いの自信のなさでもあった。果たして二人が一緒になったとして、本当に相手を幸せに出来るのか。もし、強引に結びついたところで、後悔をするかもしれない。この二人に未来はない。和実が言うようにこの恋には弊害が多すぎた。二人の熱い想いも、所詮は砂上の楼閣に過ぎなかった。

 最終的に二人は別れることになったが、お互いに感謝の言葉しかない。二人が愛し合った時間、心臓の鼓動が聞こえるような胸の高まり、夢のような瞬間。二人はしばらくの間、抱き合って、泣いて、泣いて、そして見つめあって穏やかに微笑んだ。

「和実がおばあちゃんになって、もし寂しい思いをしてたら、必ず迎えに行くからな 」

「出来もせえへんこと、ゆったらあかんで」

 和実は涙ぐみながら優しく天使のように微笑んだ。その儚げな尊い笑顔を見て、乱次は呟いた。

「あかん、めっちゃ可愛い!」

 和実は思わず吹き出した。

 画面はFinで、ブラックアウト。

「乱ちゃん、心の声が漏れてるで」(和実の囁き声で)


 映画のエンドロールにて

(エピローグ) 秋原和実の日記

 12月24日 私の出世作と言っても過言ではないドラマ『メダカ』の続編の撮影日。それはあの人に巡り逢えた日だった。

(ああ、この人も心の声は関西弁なんや)と思ったら、無意識のうちに自分から話しかけていた。私は元々人見知りだったけど、この業界に入ってからある程度は慣れたのかもしれない。というか芸能人として接していれば、秋原和実ではなく、”秋原和美”を演じでさえいれば、人に話しかけるのもそれほど苦ではなかった。人見知りのくせして、実は結構な話好き。仲の良い友達の前ではよく喋るし、よく笑う。自分でも典型的な内弁慶タイプだと自覚はしている。

 エキストラからキャストに話しかけてはいけないと言われているのは知ってる。同じように、キャストもエキストラにあまり話さないように言われているから。一部のエキストラだけに話しかけると不公平だし、現場の収拾がつかなくなる。

 エキストラの中には、撮影中にキャストを凝視する人もいる。好きな俳優を見ていたい気持ちはわかる。ただ、こちらも人間だから、必要以上に凝視されると演技もやりづらい。あまりに酷過ぎれば、スタッフが注意してくれるし、事務所がNGを出すこともある。意外にスタッフやキャストは、エキストラの言動を見ている。丸一日同じ現場にいることもあるから、真面目か不真面目かは態度を見ていればわかる。あまりに目に余ると、途中でバラシになるエキストラもいる。

 休憩時間のときに、あの人が前から歩いてきた。さっき2回も私から話しかけたけど、もっと話をしてみたくなった。エキストラからは話しかけにくいだろうから、また私から話しかけてみた。実際にあの人とお喋りしてみたら、話が弾んだ。年齢も性別も職業も違うし、多分、趣味や嗜好も全然違うと思う。普段の生活では出逢うことがないタイプだ。でも、なんだろう。あの人と話をすると、なんか、、、そう、ほっこりする。こういうのをウマが合うってこと?

 あの人との立ち話は、マネージャーに遮られて会話終了した。でも、少しホッとしたかも。あのままだと、延々と話し込んでいたかもしれない。自分達では、会話を終了するタイミングがわからなかったから。

 さっきの私、あの人と話しているとき、少し緊張していた。それにあの人も少し緊張してたみたい。そういえば、お寿司がどうのこうのって言ってたよね。記憶をたどってみた。

(んんん?ときすでにお寿司???何それ)後から気づいて楽屋で笑い転げた。

 1月 何気なく、あの人のエキストラ事務所にDVDを送ってみた。特に深い意味はなかった。

 そしたら、事務所にお返しが送られて来た。とっても美味しいチョコだったけど、ダイエット中だから私は1個だけ食べて、残りは事務所の人が美味しくいただいた。

「あれ、この人の住所、今度ロケに行くケーキ屋の近くじゃない」と事務所の人が言っていたので、宅配の送り状を覗き込んだ。そしてみんなが見てないうちに、さっとスマホで盗撮?した。送り状の連絡先に携帯番号が書いてあったから、差し障りないお礼メッセージを送ってみた。最初はメッセージのやり取りだけで楽しかったけど、文字だけだとなんか物足りなくて、電話して声を聞いたら、やっぱり話は弾んだ。そして、それだけでは物足りなくなって、あの人に会いたくなった。今思えば、この時に気づくべきだった。

 あの人に会うためにロケ帰りに自宅に突撃してみた。最初は親戚の家にでも遊びに行く感覚だった。だけど、あの人に会ったら少しドキッとした。ご家族もとても良い人だったし、話も弾んでとっても楽しかった。久しぶりにたくさん笑った。帰りがけにわざと手土産を渡さずにいて、すぐにあの人の家に戻った。

 そして、確信した。家に帰って泣いた。ものすごく泣いた。

(なんで? なんで今? なんでこのタイミングで好きって気づいたの?)

 考えてみれば、アプローチはいつも私からだった。あの人の立場では、積極的になれないのはわかっているけど、少し癪に触る。いつも私から話しかけて、私からDVDをプレゼントして、私からあの人の自宅にまで押しかけた。私、いつから肉食系女子になったの?

 でも、大丈夫。これ以上私が動かなければ、きっとこの恋は始まらない。淡い思い出のまま、自然にフェードアウトするものだと思っていた。

 そのはずだった、、、。だけど、私に逢いたいというあの人の心の声が聞こえた気がした。そう感じたらめちゃくちゃ嬉しくて、もう後戻りが出来なかった。それから私達はアクセルとブレーキを同時に踏みながら、前に進んでいったような気がする。

 2月 初めてご飯を食べた日。あの人は、待ち合わの10分前に着いた私をピュアだって言ってくれた。だけど、本当の私はちょっと計算高い。本当は30分前に着いていた。って言うか、偶然にもあの人と同じ電車に乗っていた。私は直ぐにあの人だとわかった。探さなくても、直ぐに見つけられるよ。

 駅に着いて電車から降りたあの人の後ろ姿、嬉しそうに待ち合わせ場所に向かう姿を見てると私も嬉しくなった。それから、ホームのベンチで時間を潰そうとしたけど、さすがに30分待たせるのは申し訳ない気がした。電車を二本見送ってから、待ち合わせ場所に行って、あの人を探すふりをした。私、こう見えて一応女優なんだよね。

 4月 あの人が初めてうちに泊まった日。今夜は帰らないと言われて、正直とても戸惑った。あの人に無理をさせているんじゃないか。でも事情を聞いて、実はホッとした。怒って泣いたのは自分に対してだったかもしれない。私ってずるい女だと思った。

 これは間違いなく不倫。私がそんな愚かだったなんて。不倫を純愛と思い込むのは当人たちの身勝手だ。不倫の末、結婚に至ったとしても、一途な恋と貫いたと評価されない。

 8月 事務所のマネージャーにあの人の事がバレた。女優業は楽しいし、演じることは私の生きがい。私にはこれしかないから、これからも続けていきたい。けど、、、今までたくさんドラマをやらせてもらったし、主演映画も何本かやった。全てをやりきったわけじゃないけど、充実感はある。チヤホヤされている今のうちにやめるのも悪くないかもしれない。そう、今の私はどうしようもなくあの人の元に走りたい。そう、今の私の幸せはあの人なしではありえない。

 9月 すべてを捨ててあの人の胸に飛び込もうと覚悟を決めた日、偶然にあの人を街で見かけた。娘さんと一緒だった。私が見たことがないあの人の表情。あの人はふざけて娘さんの手を握ろうとして、パチンと手を弾かれていた。二人とも幸せそうだった。仲の良い親子の日常。かけがえのないあの人の日常。あの人が本当に幸せじゃないと意味がないじゃない。その日は家に帰って水のシャワーを頭から浴びた。まるで滝に打たれているみたい。寒すぎて、辛すぎて、涙が止まらなかった。最後の別れも私から切り出した。フラれるのは辛いけど、振る方もダメージが大きい。


 私から始めた恋、私から終わらせた恋。だけど、、、やっぱりなんか癪に触る!

和実は口を尖らせたものの、なんだか可笑しくなり吹き出した。一粒の美しく透き通る涙と共に、、、。

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エキストラ 辺見愚詠 @henmigwei

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