第3話「タイ人のお名前」

 当時、私が教えたのは3年生と1年生の2クラス。3年生のクラスで初授業に挑みボロボロに疲れ切ったのは前回書いた通り。今回はもう一方の1年生のクラスで驚いたお話。

 

 1年生達は大学に入ってから日本語の勉強を始める学生もいるクラスだった。この、ひらがなから始める学習者のことは『ゼロ初級』と呼ぶことが多い。この時の1年生9人の中で、たしか3人がゼロ初級だったはず。なら他の学生達は?というと高校で既に勉強してきた学生達だ。

 現地の高校のシステムについて書くと、タイでは高校で既に第二外国語の授業がある。中国語とか日本語とか、最近はドラマなどの影響で韓国語も人気らしい。その他フランス語とかロシア語とか。学校によって違うらしいけどそんな感じ。

 そんなわけで新学期スタートの段階からレベルに差があるわけだが、人数が少ない田舎の学校だからか別段学生同士で溝ができることもなく、既習の学生たちにときどき通訳をしてもらいながら授業を進めた。


 この1年生達は私にとっても思い入れの強い学生達だ。もちろん今まで教えた学生達は全員思い入れがあるので表現が難しいけど、この中の多くの学生たちにとって初めて接する日本人が私ということもあり、かなり懐かれたのが理由だ。私から見てもちょうど妹と同い年の子達だから親近感が湧いたのもある。


 さて、私はこのクラスで会話と聴解、漢字を担当した。会話は教科書を使って文字通り会話の練習。発音指導や、その表現はどんな場面で使うのかを説明する。聴解と漢字は読んで字の如く。気になる方は多いだろうが、前回書いた3年生の授業と同じで今にして思えば納得いかないことばかりやっていたので詳しい授業内容は勘弁してほしい。


 このクラスでは印象に残っていることがいくつもある。ここではその一つを紹介しようと思う。

 それはこのクラスの記念すべき1発目の授業の出欠にて。

 名簿を手に1人ずつ名前を呼んで学生は手を挙げ「はい」と返事をする、極めて普通の光景。だがこの時教室の人数はピッタリなのに返事が1人分足りない。初対面の学生たちを前に相変わらず緊張しているので、誰が手を上げていないのかは把握できていない。困惑して返事のなかった名前をもう一度呼んだところ1人の学生が近寄ってきて名簿を覗き込む。


「あ、先生、これは古い名前です」

「えっ!?」


 かなり戸惑った。日本で「名前が変わった」と言われて真っ先に思い浮かぶのは親の離婚ではなかろうか。そのため『苗字が変わった』。この時の私はそんな理由なのかと思い、深く聞いてはいけないと新しい名前をメモして出欠確認を終わりにした。


 授業後に主任に聞いてみたところ、なんてことはないタイではよくあることなのだという。正確に言うと、例の学生の名前は


『変わった』


 のではなく


『変えた』


 自動詞ではなく他動詞!

 この解説で納得する人は同業者以外いないだろうな。自他動詞の解説はまた機会を見つけて。


 タイという国は名前を変えるのが割とちょいちょいあるのだ。

 例えば


「最近事故にあったり財布をスられたりと悪いこと続き。そうだ、運気アップのために名前を変えよう。早速お坊さんに相談だ!こんな感じで改名したいんです。私の生年月日はこんな感じで両親の名前はコレコレこんなん。その他趣味とか得意なこととか……、はい、じゃあ、私は今から○○○○です!ありがとうございました♪」


 といった具合。

 それで本当に役所に行ってアッサリ名前を変えてしまえるという。

 キラキラネームに苦労させられ何年もかけて証拠を集めて役所で手続きをする日本の若者が聞いたら羨ましくてたまらないだろう。これがタイの普通なのだ。

 

 そんなわけで、このクラスでは学生に自己紹介もしていないタイミングでタイの洗礼を受けた。

 この「ちょっと名前を変える」というイベント、その後も何度か経験した。一度経験すれば慣れるもので


「先生、名前を変えました」

「へー、なんか悪いことあったの?新しい名前はどんな意味?」


 なんて会話も普通にできるようになった。

 帰国して7年。日本では未だこの会話をしていないのでこの話を書きながら懐かしい気分になった。

 

 今回、本当はもう一つ印象的な出来事を書くつもりだったが『新しい名前』が長くなったので以上。次回は小説にもそのまま使った食事の際のビックリエピソードを書こうと思う。(地味に宣伝)


 









 

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