24


 朝になると彼は消えていた。

 古いテーブルの上に残された皿とコップ。皿もコップも何処か欠けていて、今にも壊れそうなほど古びている。白い朝日の中ではなお一層貧相だった。残されたそれを見て、今さらのようにお互い名乗り合っていないことに気づいた。

 昨夜は水とパンだけだった。出し渋ったわけではなくそれしかなかったのだ。彼はそれを受け取ると手当ては自分ですると言った。それ以上そこにいる必要を感じなかった僕は、彼を残してまた調べ物に戻った。そして本を読んでいるうちに眠ってしまっていた。

 まだいると思ったわけではないが…

 少しは、話せばよかっただろうか。

 話す?

 何を?

 馬鹿馬鹿しいな。

 知らずため息が漏れた。何を考えているのか。皿を片付けようと持ち上げて、その下にあったものに気づいた。

 白い紙に包まれたそれを開くと、小さな茶色い欠片が入っていた。

 甘い香りがした。

『……』

 菓子?

 礼のつもりなのだろうか。

 小さく齧るとそれは甘かった。

 舌先に残る甘味に胸がざわついた。

 もう来ないだろう。

 三度目はない。

 だが彼はまたやって来た。一週間後の晴れた朝に。



『わあ、先生、見て見て蜘蛛! 蜘蛛の巣!』

 振り返ると、生い茂った花の枝の前で子供が屈みこんでいた。

『触っては駄目だよ』

『ええ、どうしてえ?』

『毒があるから』

『ふーん』

 その子供は、ここから一番近い家の女の子だった。一度その家の老人の為に庭園の薬草を分けてあげてから、時折何かと物を差し入れてくれるようになった。今日も彼女は親に言われて僕に家で焼いたというケーキを持って来た。そのついでのようにいつもしばらく話し相手になってくれる。

『先生、あの花なんていうの?』

『あれは…』

 聞かれるがままに花の名前を教える。僕は先生ではないと何度も彼女に言ったが、彼女にとっては知らないことを教えてくれる者皆が先生なのだった。

『エマ、あまりそっちに行っては駄目だ』

 自分の背丈よりも高い植え込みの中に入ろうとするエマに、声を掛けた。

 小さな体がするりと緑の中に消えた。

『エマ?』

 被っていた麦わら帽子を上げた。

 返事がない。

 しん、と妙に静かだった。

 遠くで鳥が鳴く。

『エマ!』

 さあ、と血の気が引いた。

 持っていた籠を投げ捨て僕は駆け出した。摘み取った花が地面に散らばった。

『エマ! どこだ!』

 エマの体が消えた茂みを掻き分け、僕は自分の体を捻じ込んだ。この向こうは森に続いていて、薄暗い。森のその奥は領地の境目でもあり諍いが絶えずそれに媚びする荒い連中がうろついていると聞く。警備隊はいるにはいるが万年人手不足で手薄だった。よほどの用がなければ、僕もそうそう入ったりはしない。

 四方から伸びた枝が体に突き刺さる。

『…エマ』

 もっとちゃんと言っておけばよかった。

 もしもなにかあったら──

『エ…!』

『せんせえ!』

 エマ、と叫びかけたとき、彼女の声がした。

 すぐ目の前だ。

『エマ!』

 僕は目の前に張り出した木の枝を腕で避けた。

 そこにいたエマが僕を振り返った。

『先生、人が死んでる』

『──』

 小さな手が指差すほうを見て息が止まった。

 エマのすぐそばに男が倒れている。

 血に塗れ、汚れている。

 それは彼だった。

 小さなうめき声が聞こえた。

『死んでないよ』

 と僕は言った。



 エマを家に帰し、僕は水と薬を持って彼のところに戻った。僕が運ぶには彼はやはり大きすぎた。

『大丈夫か? おい』

 水に浸した布を口元に持って行き、ぎゅっと絞る。水は彼の唇の隙間からゆっくりと口の中に落ちていった。

 ぴくりと瞼が痙攣した。

『しっかりしろ』

 頬を軽く叩き、同じことを繰り返す。三度目で彼は目を開けた。

『………あ、…?』

『気がついたな』

 ほっと内心で安堵した。

 全身傷だらけで、本当に死んでしまったらどうしようかと思った。

 特に…

『その足、まだ治ってないのか?』

『あ?』

 肘をつき起き上がろうとした彼が胡乱な目を僕に向けた。

 気が立っているのか。

 まあ無理もない。

『だから言ったんだ』

 一週間前、手当てすると言った僕に自分でやると言ったのは彼だった。雑に巻かれた包帯は薄汚れ体液が滲んでいた。あれから一度も取り替えていないように見える。まさかそんなことはないだろうが、やはり自分がすればよかったと思った。

『どうしていつも傷だらけなんだ? きみは警備隊なのか?』

『……』

『無茶ばっかりして…どうしようもないな』

 包帯に伸ばした手をぱん、と振り払われた。

『やめろ』

 手負いの獣か。

『…いいから、ほら──』

『っ、やめろって言ってるだろう!』

 手首をきつく掴まれた。目を合わすと彼は息を呑んだ。その隙に指を振り払うと、僕は包帯を剥ぎ取った。

『…ッ!』

『ほら見ろ、膿んでるじゃないか』

 傷口全体が腫れあがりどろどろに膿んでいた。

 持って来た水差しでそこに水を掛ける。

『く、ッ…! ウウっ』

『じっとしろ、きみがしたんだろ』

 暴れる体をどうにか押さえつける。

 痛いのは分かっているが、仕方がない。容赦なく水をかけ続けると、彼は僕を睨みつけていた。

『誰が好きで、っ、こんなことするか!』

『そうなのか? へえ? てっきり好きでやってるんだと思ってたよ』

 顔を上げると彼と目が合った。

 見開かれた目に涙が滲んでいた。

 思わず笑ってしまった。

『…なんだ? 痛すぎて泣いてるのか?』

『なっ…!』

 誰が泣くか、と彼は怒鳴った。その言い方がまるで子供のようで僕は声を上げて笑った。

 そうか、子供か。

『ほら、もう終わる。この薬は効くから、きっとすぐに治るよ』

 洗い終わった傷口はさっきよりも随分ましになった。持って来た軟膏の瓶を開け、指先で掬い傷口に塗った。ぴくりと肌が痛みに動く。

『じっとして』

 軟膏を塗った上に蝋紙を被せ、新しい包帯で覆っていく。

 僕の手に注がれる視線を感じた。

 これで三度目だ。

 そういえば、名前をまだ聞いていなかったな、と僕は言った。

『きみなんて言うの?』

『……』

『僕は──』

 彼が答えやすいように先に名乗った。

 風がざあ、と激しく吹き、周りの枝を揺らした。

『きみは?』

 少し間を置いてから彼は口を開いた。

『シノ』

『シノ?』

 不思議な名だ。

『…シノだ』

 もう一度彼は──シノは繰り返した。

 それから頻繁にシノは僕の元を訪れるようになった。

 特に話をするわけでもない。ただふらりとやって来ては僕が庭園を弄るのを見ているだけだ。

 遠くから。

『なんだ、また来たのか?』

 聞こえてきた足音にそう言うと、悔しそうに黙り込む気配。

『…またってなんだ』

『最近よく来るじゃないか』

『悪いか』

『そんなことは言ってないよ』

 夏の日差しで伸びすぎた枝を落としていく。ぱちん、ぱちん、と鋏の音が響いた。

 足音が近づいて止まり、小さな音に顔を向けた。

 シノが自分の持っていた短刀で枝を切っていた。

『こら、駄目だろう』

 言うだけ言って自分の手元に集中していると、シノが不服そうに言った。

『駄目?』

『その枝は切ってはいけないんだよ』

『なぜだ』

『なぜでも、どうしても』

 どこか遠くで蝉が鳴いている。

 夏の青空。

『ひとつひとつ、順番があるんだ』

 どんなことにも順番がある。

 出会いがあって、別れがあるように。

『ならどうすればいい?』

 窺うような言い方が可笑しかった。

『教えようか?』

 シノはゆっくりと近づいて来た。

『…ああ』

 陽を背にして僕の前に立つ。僕の体は彼の影の中にすっぽりと収まってしまった。

 顔を上げると、シノは僕を見下ろしていた。

『教えて欲しい』

 彼の手が伸びてくる。その手は怖くない。

 じっとしていると、荒れた指先が僕の汗を拭った。

 夏が終わり、秋が来て冬になった。

 彼は次第に僕と一緒に過ごすようになっていた。

 僕の家に何日もとどまっては、ふらりと出て行ってまた帰ってくる。

 素性は要として言わなかった。僕もどうでもよかった。僕自身人にわざわざ言うような出自ではなかったし、今あることがすべてだった。

 シノがなんであろうが構わなかった。

 どこの誰だろうが…

 けれどその日、使いの者がやって来た。

『どうぞこれを。是非お読みくださいませ』

 その老人は僕に手紙をを差し出すと、一礼して踵を返し待たせていた馬車に乗り込んだ。

 去って行く馬車の黒光りするその豪華さに嫌な予感がした。

 渡された手紙を見た。白い手紙を返すと裏には紋章入りの蝋印がされていた。それはこの土地を支配する三国のうちのひとつの領主の印だった。

『──』

 手紙にはシノが領主の子息であることが簡潔に書かれていた。それ以上もそれ以下でもなく、かえってそれだけで僕に分からせようとしていることが明白だった。

 おまえのところに入り浸っているのははるかに身分の違う人間なのだと暗に釘を刺しているのだ。

『早いな』

 シノが上から下りてきた。もうすっかり空いた部屋を自分の寝床にした彼は、三日ほど前からここにとどまっていた。

『もう昼だよ』

『そうか? ああ、陽が高いな』

 窓の外を見上げてシノは言った。

『家に帰ったらどうだ?』

『え?』

 僕は手紙を彼に差し出した。

『城に』

 シノが目を瞠った。

 僕が差し出した手紙を引っ手繰ると斜めに目を通して顔を上げた。

『領主の子息だそうだな』

『…誰がこれを』

『誰でもいい』

『誰だ』

『使いの方だ』

 飛び出そうとしたシノにもう帰られた、と告げた。

『こんなところに出入りせず、城の自分のベッドで寝ろ』

 そう言い置いて僕は庭に出た。

 嫌味を言うつもりなどなかったが、なぜか言わずにはいられなかった。

 見事に咲いた花の前に膝をついた。この花の成分を調べて欲しいと頼まれていた。やらなければ。

 目の前にあった蜘蛛の巣に小さな羽虫が捕らわれていた。近づくとかさっと動いた。蜘蛛のその目が僕を見たような気がして気味が悪かった。



 気がつくとシノはいなくなっていた。彼の馬も消えていて、城に戻ったのだと分かった。もう来る事もないだろうとひとりで食事を済ませ明かりを落とした。

 ベッドに入ったがなかなか寝付けなかった。

 人の気配に慣れてしまったからなのか。

 二日と開けずいつも家の中にはシノの足音がしていた。

 何度か寝返りを打ち、ようやく眠りに落ちたころ、ベッドの端が沈んだ。

『……ん』

 誰かいる。

 外の冷たい空気の匂いがする。

 じっと僕を見ている。

 思うように動かない瞼を無理矢理開けると、暗がりの中にぼんやりと顔が浮かんだ。

『シノ…、?』

 大きな手が僕の髪を掻き上げた。

『俺はここがいい』

『…ど、して?』

 寝入りばなだったからか、ろれつが上手く回らなかった。

 笑う気配がした。

『俺はおまえの傍がいい』

 そう言ってベッドの中に入り込み、冷たい体で僕を抱き締めた。

『や…』

『逃げるな』

 逃げようともがくと背中からさらに深く胸の中に抱き込まれる。冷たい鼻先が首筋に当たり、びくりと体が跳ねた。

『寒かったんだ。温めてくれ』

 耳元で囁かれ、背中が震えた。

 冷え切った足先が僕の足の甲に触れ、ゆっくりと擦った。息を呑むとシノの腕がさらに強く僕を引き寄せた。

『ここがいいんだ。…頼むから』

 合わさった背中から彼の鼓動が伝わってくる。

 何故か、じわりと涙が滲んだ。

『好きなんだ』

 縋るような声に振り向くと、待っていた彼の唇に塞がれた。



 冬が終わり春が来て、二度目の夏も峠を越えた。

 シノは相変わらず僕のところに入り浸っていた。

 だが城からの使いはあれ一度きりで、そのことがかえって胸の中に影を落としていた。

 いつかは離れなければならないのだ。

 きっと。

 この関係は報われない。

 欲しいと思ってはいけない。

 これ以上を。

『欲しいものはないのか?』

『それ去年も言っていたな』

『……』

 ひらひらと瑠璃色の羽をした蝶が庭を舞っている。去年も同じものを見た。

 この庭のどこかで卵が孵ったのか。

 空には大きな雲が浮かんでいる。

『何でもいい。何かないのか?』

『何もないよ』

 本心を隠すのは得意だ。

『嘘をつくな』

『本当だよ』

 きつく眉を顰めて彼は僕を見る。

 見透かされている気がして心臓がぎゅっと痛んだ。

『本当に何もないんだ』

 去年の今ごろも同じことを思っていた。

 去年よりもずっと、願いは強くなっている。

 本当はずっと、彼と一緒にいたい。

 でも。

『──嘘つきめ』

 シノは苛立ったように強引に僕を振り向かせた。



 そして予想通り、秋が深まったころ、使者は再びやって来た。

 前と同じ老人だった。

『シノ様にはすでに別の者から知らせがいってあります。決してお引き留めなどは致しませんように』

『わかりました』

『これもシノ様の身の為です。どうぞご理解を』

『……』

『約束の不履行は誰にとっても不幸な結果でしかありません』

 それは脅しだった。

 シノをここから追い出さなければ彼の地位は剥奪される。それは領主の後を継ぐ地位を失うということだ。彼には腹違いの弟がいた。弟は正室の子であり、シノの母は側室だった。当然生まれの順で第一権利はシノにあったが、正室からの圧力はそれは激しいものだったようだ。

 たった半年の違いで自分の子供を二番目という地位には置きたくはないのだ。

 だが弟は素行が悪く乱暴で跡継ぎには向いていないともっぱらの噂だった。

 そんな弟が領主になればこの地がどうなるか、想像に難くない。だからその前にシノの地位を確固としたものにしておく必要があるのだ。

 他国との婚礼はその布石だ。

『貴方も是非それをお読みください』

 老人は言外にそれを告げていた。 

『良い未来のご選択を』

『承知しています』

 使者が去った後手紙を読んだ。

 覚悟していたことだ。

 霧雨の降る朝に別れを告げた。

『ここを開けろ!』 

 唯一の扉を閉じ、鍵を掛けた。シノの怒りに満ちた声が厚い扉の向こうから聞こえた。

『…開けろ、頼む』

 開けるわけにはいかない。

『頼むから…ここを、開けてくれ』

 目を閉じた。

 早く行って欲しいと願った。

『明日、戻ってくる。また話をしよう』

 明日?

『約束する。明日必ず戻ってくる』

 密やかな足音に離れていく気配。

 僕は言った。

『出来ない約束は要らない』

 そんなものは要らない。

 そんなものに期待して何になる。

 その場から離れ、二階に上がった。

 シノの後ろ姿を見送り、使者も出て行った。

 一体どこにあの老人は潜んでいたのだろう。

 自分で自分を傷付けてしまった。

 血の滲む手のひらが痛い。

 何が欲しい? としきりに聞いてきたシノの声を思い出す。

 …何が?

 そんなものはとっくに決まっている。

 きみが欲しい。

 自分だけのものにしたい。

『その願い、叶えてやろうか?』

『…え?』

 誰?

 ざあ、と雨音が大きくなった。窓を見ると、霧雨だった雨はひどくなっていた。薄暗いその中を蝶が飛んでいた。

 翌日シノは戻っては来なかった。

 その次もその次の日も、シノは帰らなかった。

 待つほどに虚しさが募った。

 当たり前のことだと自分に言い聞かせた。昼間は諦めていられるのに、夜になると駄目だった。

 耳元で声がする。

『その願い叶えてやろうか?』

 いらない。

『あいつをおまえだけのものにしたいだろう』

 やめろ。

『自分だけのものに──』

『うるさい!』

 それは呪いのようだった。

 夜な夜な僕の耳元で囁いた。

『うるさい! 黙れ!』

 嫌だ嫌だ嫌だ。こんな自分が嫌だ。

 くすくすと笑い得体の知れない声は消えていく。もう何日も何日も同じ夜を繰り返していた。

 知らない女性と抱き合う姿を想像してしまう。

 浅ましくて寝られない。

 どうして。

 どうしてそれが僕ではないのかと思うことが腹立たしかった。

『せんせえ!』

 早朝、咲いた花の中でぼんやりとしているとエマがやって来た。いつものように籠を持っている。その籠についた小さな鈴がりんりんと鳴る。それは牛飼いをしているエマの家の象徴のようなものだった。

 澄み切った秋の空気にその音が響き渡る。

『せんせえ! 昨日ねえ、エマクッキー焼いたの! すごく美味しかったからそれでねえ…、っ?』

 振り向いた僕にエマは驚いた顔をした。

『エマ、クッキー焼いたのか?』

『うん…』

『どうした?』

 目を丸くしているエマの前に屈みこむと、小さな手が僕の頬に触れた。

『先生、泣いてるの?』

『え?』

『涙がいっぱいついてるよ』

 柔らかな手のひらが僕の顔を拭う。自分でも気がつかないうちに僕は泣いていたようだった。

『ありがとう』

『どっか痛いの?』

『大丈夫だよ』

『ほんとお?』

『本当だよ』

 手の甲で目尻を拭い僕は立ち上がった。

『朝食まだなんだ。エマも食べて行くか?』

『うん!』

 行こう、と手を繋いだ。

『あ』

 家に向かって歩いているとエマが小さな声で言った。僕の服を引っ張る。

『? なに?』

『蜘蛛の巣』

 蜘蛛の巣ついてるよ、とエマが言った。朝日に指先をかざす。

 細い銀糸が光っていた。



 シノが城に戻ってからひと月が過ぎた。

 村のあちこちから婚礼の噂が聞かれ始めていた。

 彼はもうすぐ結婚する。

 これでよかったのだ。

 ようやく諦めることが出来る気がした。婚礼の日が過ぎたら、この苦しい思いからも解放されるだろう。

 夜も、きっと上手く眠れるようになる。

『おまえはそれでいいのか』

 囁く声に、それでいいと答えた。

 僕の選んだものはまちがっていない。

 そうだ。

 もう大丈夫だ。

 目を閉じて眠りを探した。ゆっくりとその深さに落ちる瞬間、どこかで音がした。

 かたん。

 はっ、と目を開いた。

 耳を澄ませた。

 かたん、ともう一度音がした。

 もう一度。

 僕は跳ね起きて寝室を飛び出し、扉の前に立った。

 こつ、こつ、こつ。

 誰かが扉を叩いている。

『……誰』

『俺だ』

 シノだった。

『なぜ…ここにいるんだ』

『開けてくれ、頼む』

『開けられない』

『開けてくれ』

『嫌だ!』

 声が震えるのを押さえるのに必死だった。

 シノが戻ってきた。

 嬉しさで胸がいっぱいになる。

 でもここを開けるわけにはいかないのだ。

『帰ったはずだ、いいから城に戻れ!』

『俺は戻らない』

『きみの居場所はあそこだろう』

『俺の居場所などない』

『きみを必要とする人が──』

『それは嘘だ』

 僕の声を鋭くシノが遮った。

『すべて弟と…義母の仕組んだことだ』

『仕組まれたって…』

 混乱していると、どん、とシノが強く扉を叩いた。

『頼む、ここを開けてくれ』

『シノ』

 こつ、と小さな音がした。

『頼むから…、──』

 僕の名を呼ぶ。

『顔を見たい』

『……』

『──開けてくれ』

 僕はゆっくりと閂を抜いた。

 扉が重苦しい音を立てて開く。

 月明かりを背に、シノはそこに立っていた。

 どうして。

 視界がゆらゆらと歪む。月はまるで大きな海月のように揺れる。

 世界はまるで水の底のようだ。

 もう限界だった。

『なんで、ここに来たんだ…っ』

『帰ってくると言っただろう』

『でも、でもっ…』

『おまえが好きだ』

 きつく抱き締められる。

『おまえだけだ──オリエンス』

 オリエンス。

 そうだ。

 それが僕の名前だった。

『オリエンス』

 どうしてずっと思い出せなかったのだろう。

 シノの腕が僕を抱え上げ、ゆっくりと歩き出した。




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