23


 ゆらゆらと揺れる。

 泣いている自分がいる。

 今よりもずっと幼い頃の自分。

 泣かないで、と言われ見上げると、苦笑する母親の顔があった。

 懐かしい。

『ほーら、もう顔がぐちゃぐちゃだよ』

『だってえ、おかあさあん…』

『泣くと楽しかったことも悲しいことに変わっちゃうよ?』

『?…』

 幼かった七緒はその意味がよく分からなくて、ぐずぐずといつまでも泣き止まなかった。そんな七緒の顔を持っていたハンカチで拭う。

『今日はあんなに楽しかったのに、お店にお菓子がなかっただけで泣いちゃうの?』

『……』

『それだと今日が悲しい日になって、楽しかったことを忘れちゃうよ?』

『なんでえ?』

『だって、悲しい思い出の方が楽しいよりもずっと強くって、忘れないものだから。ミチルくんとユウちゃんと遊んだことも全部悲しくなっちゃう。あとほら、公園で遊んだ子のことも』

 母親の言葉をちょっと考えてから、くしゃっと七緒は顔を歪めた。

『ええ…そんなのやだあ、いっぱいあそんだの、おぼえてるもん!』

『そうだよね、だから悲しくないようにしよう?』

『どうやってえ…?』

 母親はくすっと悪戯を思いついた子供みたいな顔をして、七緒の耳元に口を寄せた。

『今日はごはん、食べて帰ろうか』

『えっ』

『七緒の好きなオムライス、あのお店に食べに行こうよ』

『うんっ、いく! やったあ!』

 嬉しくて母親に飛びついた。

 外食は滅多になくて、それは特別なことだった。シングルマザーだった母親は経済的にも余裕があったとはとても言い難かったが、その当時の七緒には知る由もなかった。

 無邪気に喜ぶ七緒を見て母親はケーキも食べようか、と笑う。保育園の鞄を下げたまま暮れかけた帰り道をいつもと違う方に歩いて行くのは胸が高鳴った。

『あー、いい匂いする』

 ふわりと吹いた夜風に母親が言った。

『いーにおい?』

 くん、と鼻を鳴らし、七緒も嗅いでみたけれど何も匂わない。店はまだ先で、歩いているのは人の多い交差点からまだ遠かった。

『ん? そう、いい匂い。七緒の匂いだね』

『えー、ななの?』

『そうだよ』

 繋いだ手をぎゅっと握り直して、母親は七緒を見下ろした。

『七緒は泣いちゃうといい匂いがするの』

『ええっ、どんなにおい!』

『えー、おしえなーい』

『えーずるいずるいおかあさあん!』

『ふふふ』

 身を屈め、繋いだ手に顔を近づけて母親は深く息を吸い込んだ。

『でも七緒の手は、いつもいい匂いがしてる』

『て?』

『そう』

『どんなあ?』

『お花の匂いだよ』

 母親は笑った。

 花?

 繋いでいない方の手のひらをじっと見た。開いて閉じ、また開く。鼻を近づけても何も感じない。

『なんにもしないよ…?』

『じゃあお母さんだけの秘密だね』

 そう言ってまた夜道を歩き出した。

 それから二年後に母親は死んでしまった。

 葬儀の日は雨だった。

 見知らぬ大人たちがひそひそと話す声、こちらを見る視線が悲しかった。悲しくて悲しくて──ずっと忘れていた記憶。

 どうして、今──思い出したのだろう。

 どうして。

 


「七緒、おいで」

 両手を広げて梶浦が呼んでいる。

 篤弘が笑う。押さえつけていた影は叫び声を上げて手の下でもがいている。

「おいで」

 詞乃。

「し…」

『シノ』

 自分の声に重なる、この声は誰のものだ。

 誰かの感情に支配されていく。

「…騙されるんじゃない」

 ──違う。

 違う、そうじゃない。

 どこからか湧き上がる声に胸が押しつぶされる。

 世界はゆらゆらと揺れる。

「さあ──」

 篤弘の声で自分を覆っていた揺らめきが一気に膨れ上がり、巨大な海月のようになった。

 自分の中の悲しみを食べて大きくなった。

 苦しみを味わって牙を持った。

 夜を覆うほど肥大したそれは、梶浦に向かっていく。

 だめだ。

 だめだ。

 嫌だ。

 こんなはずじゃない。

 こんなことは誰も──望んでないのに。

「…いいぞ」

 小さな声で篤弘が笑った。

(あ)

 梶浦の向こうに月が見えた。

「──」

 その姿にふっと重なる光景。

 薄暗い場所。

 窓から差し込む月明かり。

 知らない部屋。

 見知らぬ景色。

 それは自分じゃない誰かの記憶だ。

 暗いその部屋の中、扉の前に立っている。

 静寂に満ちた夜。

 閉めたはずのその扉が、重苦しい音を立ててゆっくりと開いた。

 月を背にして誰かが立っている。

 青白い闇の中に浮かんだその顔に七緒は息を呑んだ。

 この人を知っている。

『どうした、そんなに驚いて』

 きつい目元が情けなく歪んだ。

『俺は、戻ってくると言ったはずだ』

 そうだ。

 彼はちゃんと戻ってきた。

 僕のところに。

「…シノ」

 シノ。

 胸の奥深くから響く声が七緒の声に重なる。巨大な海月が梶浦を飲み込んだ。

「シノ!」

 揺らめく水の中で梶浦は一瞬目を見開いて、それから同じように笑った。

「…そうだよ。俺だよ」

 泣きそうな、あのときと同じ顔で。

 七緒が手を伸ばしたその瞬間、世界は白く弾けた。


 


 覚えていない夢を見る。

 繰り返し繰り返し、同じ夢を見る。

 それは遠い思い出のように、いつも明けきらない夜の端のような青白い色をしていた。


『はい、何でしょうか?』

 まだ夜も明けきらない朝と夜の狭間、薄青い光が辺りに満ちていた。

 誰かが屋敷の扉を強く叩いていた。

 目が覚めて下に下り、扉の前で声を掛けた。

 返事はなく、また扉が叩かれた。

『用は何でしょう』

『……』

 開けろ、と聞こえた気がした。

 耳を澄まし外の様子を窺った。

 ガン、と扉の下が蹴られた。

『いいから開けろ…!』

『あなたは?』

『…レクタールに所縁がある』

 ここは旧レクタール家の持ちものだった。レクタール家は何年か前までこの土地を収めていた領主の名だ。だが先々代が亡くなったあと、跡目を継ぐ者がことごとく早死にし、血筋は既に絶えていた。今ここは隣合った三つの国の支配下にあり、それぞれのの領土に挟まれる形の中立地帯となっている。三つ国とも領土の拡大に余念はないはずだが誰もここに手を出さないのは、レクタールの良心と言われた先々代の人徳ゆえだと言われていた。

 そのレクタールの所縁の者なのか。

『今開けます』

 扉の閂を外し、ゆっくりと引いた。

 開けたその隙間から血の匂いがした。

 血まみれの手がぬっと突きだされ、僕の脚を掴んだ。

『水をくれ』

 扉の隙間から外を窺うと、戦装束の男が倒れていた。

 まだ若い。

『脚を離してくれたら』

 胡乱な目で僕を見上げる。その目は真っ赤に充血していた。

 痛みで潤んだ瞳に白い闇が映っている。

『…なぜ動じない?』

『慣れているので』

 人の生き死にには慣れている。血など腐るほど見てきた。

 男はゆっくりと脚を離した。

『逃げるな』

『ここは僕の家だ』

 踵を返し水を汲みに行った。水入れいっぱいに水を汲み、扉に戻った。

『水だよ』

 声を掛けたが返事はなかった。

 彼は隙間に倒れ込むようにして気を失っていた。

『おい…?』

 死んでしまったのだろうか。

 手のひらを男の口元に当てると、かすかな呼吸を感じた。生きている。

 僕は扉を大きく開け、彼の傍に膝をついた。開いた唇の間から水を飲ませ、水差しと一緒に持って来ていたハンカチを濡らし、彼の唇を拭った。かさかさに荒れているそこは皮が捲れ血が滲み、口の端が切れていた。誰かと殴り合ったのか赤黒く変色している。

 そして血まみれの手を取り、拭いた。ひ弱な自分の腕よりも二回りも大きな腕周りに苦笑が漏れた。男らしい浅黒い肌、しっかりとした筋肉がついた体。僕はと言えば庭仕事をしているのに一向に肌は白く、力もない。

『こんな体だったらさぞかし楽だろうな』

 そうして身に着けた戦の為の装束をひとつひとつ外していき、ひと通り彼の体に付いた血を拭いた。幸い腕の傷は浅く、簡単な手当てで済んだ。だが治療が終わり、僕は途方に暮れた。屋敷の中に運ぶには彼は大きすぎた。

 さてどうするか。

『仕方がないな…』

 僕は二階の寝室に行き、まだ温かな自分のベッドのシーツを剥いで彼の上に掛けた。

 取り外した武具は綺麗にして傍に並べ、なみなみと水の入った水差しも横に置いた。

 そして家の中に残っていたパンと作り置きの燻製肉を皿の上に乗せそれを近くのテーブルに置いた。

 扉の隙間に横たわる彼を残して僕は寝室に戻った。

 気がつけばそのまま出て行くだろう。

 その考え通り、次に下りた来たとき、彼の姿はなくなっていた。皿の上のパンと燻製肉も。彼が食べて行ったのだろう。

 元気ならそれでいい。

 片付けようとした手がふと止まった。

『…?』

 空になった水差しの中に、卵がふたつ入っていた。

 それで終わりだと思っていた。

 だが、彼はまたやって来た。

 それからしばらく経った夜。

 真夜中に、小さなランプの明かりで頼まれていた調べ物をしていた。幸いにもこの屋敷には古い文献が手つかずでいくつも残されていた。人が住まなくなった後でも無事だったのは、多くの幸運が重なっていたとしか思えない。

 最初は空耳だと思ったのだ。

 とん、とかすかな音がした。

 風の音だろうと本のページを捲り、文字の上をゆっくりと指を滑らせた。

『…あ』

 あった、これだ。

 そう思った瞬間、また音がした。

 今度はもう少し大きな音で。

 ドン。

 ドン、ドン。

 気のせいではない。扉が叩かれていた。

 僕はランプを手に蔵書室を出た。この屋敷には不思議なことに扉がひとつしかなかった。元々はあったようだがどれも皆塞がれていた。

 寝室の前を通り、階段を下りる。その間にも音はずっと鳴り続けていた。

『はい、何でしょう?』

 ランプの明かりを扉に向けた。ここでたったひとつの出入口だ。

『……』

『村の方ですか?』

 夜にでも昼にでも、時々村の人が薬を求めて訪ねてくることがある。僕は医者でも薬師でもないが、この辺には医者も薬師もいないため、皆僕を頼ってくることがあった。

『俺だ』

 一度だけ、それもほんのわずかな時間、片手で足りるほどの階数しか話したことのない相手の声を、そうそう覚えているわけはない。

 だが僕は、それだけで扉を開けた。

 どうしてだか自分でも分からなかった。

『水をくれ』

 開いた扉の向こうで男はそう言った。

 今度はきちんと立っていた。

 けれど纏う血の匂いは同じだった。

『ここは井戸じゃない』

『知っている』

 この前と同じ戦装束、足の武具が外れ、大きく避けた布の間から血に塗れた肌が見えた。

『水をくれ、…頼む』

 僕は小さくため息をついた。

『仕方がないな』

 橙色の明かりの中で彼はふっと笑った。汗と泥に汚れた頬が緩む。

『出来れば…、パンも』

 彼はそう言って子供のように笑った。

 その違いにどきりとした。

『…図々しいやつだな』

 背を向け部屋の奥に行くと彼が入って来る足音がした。

 ゆっくりと扉が閉まる。

 それがすべての始まりだった。

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