生き物の内側は、暗闇だった。


 現実と幻、その狭間にいるような気分だった。


 しだいに、意識が血のように広がっていき、生き物と同化していくのがわかる。それがどんどん強くなり、骨格や筋肉と繋がっていく。


 目蓋らしきものを感じた。それを外側へ押し開くと、眩しさが目の中に飛び込んできた。


 その痛みに耐えかねて、咄嗟とっさに目を伏せる。滲んだ視界の中、イボのような指がうごめいている。それらは意志と共に自在に動くのだ。


 あの生き物になってしまった、私はそう悟った。


 変わり果てた小さな私は、彼女の唇の上でぼんやりと佇んだ。事の重大さは理解出来る。が、気持ちがついていかない。当事者としての意識がかなり希薄だった。


 光に抗いながら、視線を遠くへ投げると、自分の本当の姿が目に入った。


 無造作に床の上に倒れている。放り出された操り人形のようだ。あそこから目に見えない糸を辿って、私はここに来たのだ。


 なぜこんなことに。


 あそこに、戻らないと……。


 まだ、仕事は残っている。


 しかし、気持ちは空回りするだけで、何も進まない。自分の中に戻ることがとても億劫なことのように感じられる。洗濯籠に脱ぎ捨てた服を、また一から身につけるそんな煩わしさに似ている。


 そうやって自分の抜け殻と向き合っていると、しだいに、ひりひりとした痛みに包まれ始めた。薄い皮膚が乾燥してきている。水分が失われると死ぬぞ。この生き物の本能が私に囁いてくる。


 死ぬ、どうすればいい?


 私の困惑をよそに、本能が身体を動かした。よちよちと彼女の口の縁を歩いたあと、唇の中へぬるりと滑り込んだ。前歯の隙間から、歯茎の窪みにある唾液の泉に落ちる。暗闇に反応したのか、私の身体は勝手に発光した。薄明るい。濡れた手足で、舌の上へ登った。


 呼吸に混じった彼女の匂いを強く感じる。くらくらするほどの甘い匂いだ。ずっと嗅いでいたくなるような……。


 首を伸ばし、喉の奥を眺めると、文字が目に入った。気管を刺激しないように近づいていく。内視鏡で覗いた通り、そこには生々しい傷、いや文字が並んでいた。


〈このせかいに きみと二人きり〉


 赤い火脹ひぶくれのような線だ。それは波打つように太くなり、細くなる。ひっかき傷とも違うのだ。


〈おれのこころ とけて かがやいた〉


 私の手足は肉壁に勝手に吸いついた。重力に逆らいながら、文字の上を這い回り、順番に読んでいく。


〈どろどろの中に おれの きおくは のこる〉


 どろどろ……?


〈さようなら あいしている〉


 文字はそこで終わっていた。


 愛している……。何度も心の中でそう唱えながら、ぴたぴたと食道を下へ辿り、胃の入口近くで新たな文字を見つけた。


〈つぎの人へ〉


 次……。


 それが私へのメッセージだと、直感した。


 誰かがいたのだ、ここに……。


 胃の中はまだ見ていない。躊躇わず頭を突っ込む。思った通り、そこには文字の群が広がっていた。


〈このいきもの ちみもうりょう〉


〈なまえ つけた どろどろ〉


 真っ黒な自分の手に目をやると、それは粘液にまみれている。どろどろだ。


〈どろどろに であった とうなんアジア どうくつ〉


〈らくばんじこ〉


 彼女が話していた旅先での事故のことだろうか。


 動きを止め、思案を巡らせていると、急に頭の中に映像が立ち上がってきた。


 誰かの記憶のようだった。


 どろどろの中に残されていたものだろうか。おそらく、この文字の彼。……確か、先輩が一人亡くなったと、話していた。


 その記憶に意識を向けると、ぼんやりとした映像が私をぐるりと包み込んだ。


 そこは、見知らぬ洞窟だった。


 彼の視点は私のそれになっていた。


 ……仰向けになった身体の上に、大きな岩が乗っている。天井の岩盤が崩落したのだろう。身体を捻ろうとするが、ぴくりとも動かない。内臓がべっちゃりと潰れて駄目になっているのがよくわかる。意識的に息をしなければ、そのまま息絶えそうだ。


 誰か。


 首をひねった先に、妙な生き物がいた。


 どろどろだ。


 この洞窟に棲んでいたのだろうか、それとも岩盤の中に閉じ込められていたのか……。


 どろどろと視線が合った。彼を求めているのがわかった。


 だから助けてと、彼は願った。


 すると、いとも簡単に意識は引きずり出され、どろどろの中へ。さっき私が体験したものとそっくり同じだった。


 どこにいる? 彼は何かを探していた。


 視線が洞窟内をさまよった。やがて、地面に倒れていた紀寺きてらアリスの姿を見つけると、彼はそこに向かって這い始めた。


 どろどろの短い手足を交互に動かしながら、意識を失った彼女に近づき、這い上がり、その口の中へ忍び込んだ。


 アリス……。


 そこから記憶は断片的になり、ついには明け方の夢のように光の中に消えていった。


〈あいが あふれると おれはとける しあわせ〉


 彼はこの文字を残して、どろどろの中で溶けてしまったのだろう。どろどろは女に寄生し、出会った男の意識を捕え、溶かしながら喰うのだ。


 そんな生き物がいるわけない。しかし今、この私がそれなのだ。


 胃から這い上がり、食道を登りながら考えた。


 どろどろの存在自体はもちろんのこと、文字の形をした傷が彼女に痛みを与えていたのだ。しかし、どうやってこれを書いたのだろうか? 思考を巡らせていると、ひどく眠たくなってきた。


 とても、疲れている。突拍子もないことばかりが続いた。……少し休むべきだ。


 腹をつけ、彼女の心音を聴きつつ、私は目を閉じた。


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