第12話

 無事に王子をふかふかのベッドに寝かせることができて、とりあえず一安心。それにしても本当によく眠っているなあ。全然起きる気配がない。元々王子は一度眠ったらなかなか目が覚めない方だとは思っているのだが、うっかり食事中に寝落ちてしまうなんてことは思い返す限りではなかったはずだ。つまりそんな事態になってしまうほど昨日はよく眠れなかったということ。もしもその原因が僕にあるとしたら……。


「全く、呑気な寝顔ですね。まあ大したことなくてよかったんですが」


 黙ったまま王子の寝顔を見つめていたら、隣にいるサンが呆れたように呟いた。早朝から大変だったんだろうということは、彼の疲れ切った表情が物語っていた。


「……サン、ありがとう。王子のこと助けようとしてくれたんでしょ? それと……何も言わずに勝手に出てっちゃってごめんね。多分サンにもヨンにも負担かけたと思う。本当にごめんなさい」


 さっきまでばたばたしていたせいで、ちゃんと話をする余裕なんてなかった。ようやく落ち着いた今、改めてサンに謝罪とお礼の言葉を伝える。サンは突然のことに一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふるふると頭を振ってこう言った。


「謝らないでください。言ったでしょう? 自分を責めないでくださいって。それに私もソンさんがいなくなって代わりをしてみて、初めてソンさんの大変さに気づけたんです。四六時中あのわがまま王子に付きっきり。それはストレス溜まって当然ですよね」

「サン……」

「これからはできる限り力になれるよう、私も努力します。ソンさんも、これからはもし辛くなっても遠慮せず誰かの前足を借りてください。お互いに協力して仕事していきましょうね、約束です」


 そうしてサンはスッと僕に前足を差し出してきた。僕もそれに倣って自分の前足をサンのそれに重ね、二匹で握手をした。


「ん、ありがとう……!」


 泣きそうな声で僕は改めて礼を言う。自分勝手に仕事を放棄した僕を責めるどころか、包み込むような声音で優しい言葉をかけるサンに救われた。サンといいミンといい、どうして僕の周りはこんなにも優しいにゃんで溢れているのだろう。情けなさと嬉しさが混ざった複雑な感情が僕の心を支配する。


 その時、部屋の扉が控えめに開かれ、ミンがひょこっと顔を出してきた。


「あのー……。サンさ朝早かっただろうし、もし朝食まだなら食べていくかって母ちゃんが……」

「え? そんな……悪いですよ」


 申し訳なさそうにサンが答えるが、ミンは「いいの、いいの」と頭を振る。


「遠慮しなくていいだすよ。ヨンさはもう食べてく気満々だすから。『誰かが用意してくれたご飯が食べられるなんてラッキーなんだぞ』って言ってただす」


 なんか容易に想像できる。それを聞けばサンも断りづらくなったらしく、若干ためらいながらも朝食をいただくことに決めたようだった。


「その間ソンさはどうするだすか?」

「あー、僕は……」


 ミンに問われ、僕はちらりと王子に目を向けた。


「もうちょっとここにいるよ。王子が心配だし、それに……」


 王子とちゃんと話をしなきゃ。

 そう伝えると、ミンは少し不安そうな顔をしたがすぐに納得したように頷いてくれた。


「分かっただす。でも何かあったら言うんだすよ」

「うん。ありがとうね」


 そうして二匹が出て行き、僕と王子だけが部屋に残された。


 さてと。この王子がいつ目覚めるのかは分からないが、まさかこんな早く再会するなんて誰が想像したよ。昨日の今日じゃん、何これ。 あ、布団に皺が寄っている。綺麗にしなきゃ。失礼します、王子。

 眠っている王子を起こさないようにそーっと布団に触れたつもりだったのだが、その瞬間にもそりと王子が動いた。


「う……ん。ふにゃあー……」

「ひえっ!? 起こしましたか、申し訳ございません!」

「むにゃむにゃ。ツナ缶……もぐもぐ……」

「ね、寝ぼけてるだけ?」


 焦った。王子の安らかな眠りを妨げてしまったかと……。ほっと安堵の息を吐いたのも束の間、ゆっくりと王子の目が開いたのだ。とはいえまだ意識がはっきりしていないのか、半開きのままきょろきょろと辺りを見回している。


「ここどこなのだ……? 吾輩は誰……」


 貴方は王子ですよ! 心の中で僕は答えた。


「何なのだ、ここは……? 知らない場所……まさか誘拐!? 嫌なのだー!」


 急に意識がはっきりしたようだ。勢いよく起き上がったと思ったら、王子は毛を逆立て身を低くして唸り始めた。

 どうやら王子は自分が連れ去られたと思い込んでいるらしい。そりゃまあ目が覚めたら見知らぬ場所にいたとあれば、誰でも驚きはすると思う。でも連れ去っておいてふかふかのいいベッドに寝かすんだとしたら、随分と対応のいい誘拐犯になると思うのだが。というか僕の姿は見えていないのだろうか。


「王子、王子! 落ち着いてください。大丈夫ですよ、ここはミンの家です。貴方が恐れるようなことは何もありません」

「何……?」


 ここで初めて王子と目が合う。未だ警戒をしているのか向けられる眼差しは鋭く、まるで鋭利な刃物を眼前に突き付けられたかのようで、緊張感が僕の背筋を走る。しかしいざ目の前にいるのが僕だと分かれば、王子の視線は穏やかなものに変わり、逆立てていた毛も大人しくなった。数秒の沈黙の後、告げられる。


「…………ソンか?」

「……はい」


 そしてまた沈黙。とても気まずい。でも駄目だ、黙っているままじゃいけない。ちゃんと話さなくちゃ。逃げるように王宮からいなくなったことも、今まで我慢してきた僕の弱さも。


「あのっ……!」

「……そんなわけないのだ」


 口を開いたら、それを遮るかのように王子の声が重なった。


「そんなわけないのだ、そんなわけないのだ! ソンなはずないのだ!」

「王子? 何おかしなこと言ってるんですか。そんなわけありますよ、ここにいるでしょう?」

「嘘だ、信じられないのだ! だって……だって……ソンは出て行ったはずではないか。何でこんなところにいるのだ!」

「それはー……ただ他に行く当てがなかったからと言いますか。えー……」

「もういい! きっと吾輩はまだ寝ぼけているのだな、寝る!」

「えええええ!? ちょちょちょちょっと待ってくださいよ、現実逃避しないでください!」


 一度起きたと思ったら、なんと王子は頭まで隠れるくらいすっぽり布団にくるまって再び眠る体勢に入ってしまった。目の前の現実から、僕から目を逸らそうとしている。


「起きてください、王子。もう十分眠ったでしょう? お願いですから僕の話を聞いてくれませんか」


 僕は山のように盛り上がった白いかたまりを軽く揺さぶる。今までの僕なら、王子のペースに合わせて王子の心の準備ができるまで待っていたことだろう。でも今日は違う。今この時を逃してしまったら、王子と話し合うことは二度とできなくなってしまう気がした。そうして必死で揺すっていると、根負けしたのかそっと王子が布団から顔を出した。じっとりとした目つきで僕を睨む。


「……本当に?」

「はい、本物のソンです!」

「はあ……」


 すると王子は重々しい溜息を吐いた。のそりと起き上がり、頭を抱える。


「色々言いたいことはあるのだが、まずお前……出て行くならもっと見つからないようなところへ行け!」

「ええええええ!?」


 何でいきなりお説教!? いや、ていうか逆に王子はそれでいいのか? もしかして僕みたいなポンコツとは遠く離れたかった?


「こんな、何なら歩いて行けるような距離の家に泊まってるなんて、見つけてくれって言ってるようなものなのだ! お馬鹿なのだ!」

「だからそれは、他に当てがなかったからって言ったじゃないですか」

「何故だ、吾輩から逃げたかったのではないのか? こんなすぐ見つかるようなところにいては何の意味もないではないか!」

「それは違います! 逃げたかったとか嫌になったとか、そんなのは思ったことない……」

「本当か?」

「本当です……!」


 そう、だと思う。少なくとも今回休ませてもらうことになった一番の理由は、心身の安定のためだ。やっぱりあんな手紙だけでは駄目だった。言葉が足りなかったのだ、僕たち。深呼吸をしてから、僕は王子に向き直った。


「王子。まずは何も相談せずに一匹で王宮から出て行ってしまったこと、謝ります。申し訳ありませんでした。今更何を言っても言い訳にしか聞こえないかもしれませんが、僕の話を聞いてくれないでしょうか」

「……いいだろう。吾輩もちゃんと話がしたいと思っていたのだ」


 こうして僕たちは今まで語れなかった分も埋めるかのように、お互いの思いをぶちまけることになった。先に口を開いたのは僕だった。


「えーっとですね、まず出て行った理由なんですが、禿げたからです」

「は、げ……?」


 王子の顔がポカンとなる。うーん、早速言葉が足りなかった。僕は急いで付け加える。


「あああ、えっと、えっと。なんか知らない間にストレスが溜まっていたらしくて、それが体にも影響が出ちゃったようで、禿げてしまったようでして……。つまり簡単に言うと、病気を治すために少しお休みが必要だったんですよ」


 自分でも何言っているか分からなくなってきた。てかこれ思ったんだけど手紙に書いたよね、僕? 王子もしかして読んでない……? 自室のベッドじゃなく、もっと見つかりやすいところに置いてくればよかったのかも。失敗した。


「どうしてストレスが溜まったのだ? それこそ吾輩が原因ではないだろうな?」


 不安そうな、探るような目つきで王子が問い詰める。なかなか痛いところを突いてくるな。これは本当のことを言った方がいいのだろうか。


「どうしてそのようなお考えを?」

「だってヨンが、ソンは育児に嫌気がさして逃げ出したんじゃないかって言ったから……」


 その育児っていうのは王子のお世話のことか? 全くヨンってば変なことを言ってくれたものだ。彼に言われた言葉をずっと王子は気にしていたのだろう。迷っていた僕の心が、この一言を聞いて決心した。このまますれ違ったままではいけない、今後のためにもここではっきりさせなければ。


「王子。さっきも言ったとおりですが、別に嫌気がさして逃げたとかではありませんのでそこは気にしないでください。きっとヨンも適当に言っただけだと思うのであんまり真に受けなくて大丈夫だと思いますよ」

「そうなのか?」

「はい。ストレスの原因も王子のせいじゃないです、全部僕が弱かっただけの話ですから」

「ん? それはどういうことなのだ?」


 それまで張り詰めていた表情の王子が、眉間に皺を寄せ僕に疑問を投げかけた。


「……僕、今まで何も言えなかった。王子のお世話係なんだから自分よりも王子を優先しなければいけない、これが僕の仕事なんだから誰かに甘えることも頼ることもしちゃいけないんだ。そう勝手に決めつけて、勝手に一匹で苦しんでいたんです。周りに迷惑かけたくなくて。でもそうやって我慢していたら、かえってみんなに迷惑かけてしまった。だからこれは、僕の弱さが引き起こしてしまったこと、全て自業自得です」


 やっと言えた。今まで言わなかったこと、言えなかった思い、今言葉にできる全てをやっと自分の口で話せた。声は震えていなかったろうか。ちゃんと内容は王子に伝わっただろうか。

 言い終わるとすぐに僕は王子から目を逸らした。何を言われるのかが怖くて、王子の顔をまともに見られなかったのだ。やがて王子が口を開いた。


「どうして言ってくれなかったのだ? どうしてそんなふうにしか考えられなかったのだ? 言えばよかったではないか、吾輩は別に気にしないのに……!」


 王子の声は震えていた。それは僕の罪悪感をより一層強くした。


「申し訳ありません。ですがやはり僕と貴方とでは身分が違いますから、失礼があってはならないと思ってまして……」

「そんなの気にしなくていいのだ! 主従である前に吾輩たちは友達だろう? 何を遠慮する必要があるのだ。昔はもっと気楽に何でも言い合っていた仲ではないか」


 そう言われればそうだった。まだ一桁くらいの本当に幼い頃は今よりずっと気軽に付き合えていた。あの頃は自分が一国の王子に仕えているという自覚が薄かったので、友達のような距離感で接することができたのかもしれない。


 でも自覚してからは、自分を抑えて王子を立てて、無礼にならないようにしなければという意識のもとで接してきた。それがもしかしたら、王子にとっては逆に辛いものだったのかもしれない。心を許せる友達が急に自分に遠慮するようになってしまったら、やはり寂しいものであるはずだ。いやその前に、王子は僕のことを友達だと認識していたのか。そこに驚いた。ただの便利屋としか思われていないのでは、と思っていたから、ちゃんと「個」として認識されていたのは普通に安心したし嬉しかった。


「そうでしたね。だから僕、今回のこともあってちょっと反省しまして。これからは我慢ばかりでなく、辛くなった時はちゃんと言おうと思います。もちろん立場はわきまえるつもりですので、ご安心ください」

「ソン……。その、吾輩も悪かったのだ。お前の異変に気づかず苦しませてしまった。もしまだ間に合うのなら、戻ってきてはくれないだろうか……?」


 そう訴える王子の声音は悲しげだった。耳もだらんと垂れ下がっている。


「でも、代わりのお世話係は? そういえば僕がいない間はどうしてたんです?」

「サンとヨンが代わりを務めようとしてくれた。でも駄目なのだ。あやつら二匹もいるのにソンより仕事が遅いのだ。やっぱり吾輩の世話係を務められるのはソンだけなのだ。これもわがままなのかもしれないが、でも戻ってきてほしいのだ。できれば今すぐにでも。お願いなのだ、ソン……」


 あの王子が、頭を下げた。僕に向かって。


「やめてください、そんな真似……!」


 今、王子にこんなことをさせているのは、こんな悲しい顔をさせているのは僕だ。でも戻ってまた同じことの繰り返しになったらどうしよう。罪悪感と不安の間で迷う。


「戻って大丈夫なんでしょうか、僕……」

「約束するのだ、これからはお前の体調にも配慮する。主従という関係を保ちつつも程よい距離感で付き合っていけるよう、吾輩も努力するのだ。お前も嫌なことははっきり言え、分かったな?」

「はい。でも、あの僕、まだ禿げ……治ってないんですけど……」

「そんなのは知らん! 気合いで治すのだ!」

「ええええええ……」


 最後の最後で雑だな。まあそんなところが王子らしいといえばらしいんだけどね?

 こうして僕と王子は新たな約束を交わしたのだった。僕の家出もたった一日で終わりを告げそうだなあ。



「本っ当に大丈夫なんだすか?」


 結局王宮に戻ることにしたと告げたら、ミンが心配そうに聞いてきた。


「うん。なんだかミンにもおばさんにも迷惑かけてごめんね。毛のことなら心配いらないよ、おばさんからもらったセーターのおかげで禿げが誤魔化せるしね」

「違ーう、禿げの心配はしてないだす! そうじゃなくて、このまま戻って同じこと繰り返さないかが心配なんだす。大丈夫? 流されたりしない?」


 禿げの心配してないんかい。一応体に影響が出るくらいにはひどいストレス抱えているんだけどな、ちょっと傷ついた。


「大丈夫だよ、そのために王子と約束したから。今回みたいにならないように嫌な時や辛い時は遠慮しないで言うことってね」

「そうだすか。まあ本にゃんがそう言うならいいだすけど」


 すると僕の横にいたヨンが口を挟んできた。


「痛い目見ても同じこと繰り返すようなら、何も学んでない馬鹿ってことになるんだぞ」

「ヨンさん、失礼な言い方はやめてください」


 ヨンと反対側で僕の隣にいたサンが落ち着いた口調で注意した。それが気に入らなかったのかヨンはムッとむくれる。そしてそのまま二匹は僕を挟んでちょっとした言い争いを始めてしまった。帰る間際までやめてほしいけれど、もはや止める元気はない。

 玄関のところまでミンとおばさんがお見送りに来てくれた。僕は改めて深く頭を下げる。


「短い時間でしたがお世話になりました。本当にありがとうございました」

「まあまあ、そんなにかしこまらなくてもいいのよ。またいつでも気軽に遊びに来ていいからね」


 おばさんが、昨日と同じようなあの温かくて優しい笑顔でそう言った。


「うむ、ソンがたいそう世話になったのだ。吾輩からも礼を言おう」


 いや一番世話になったの貴方でしょうが。

 得意げな顔をして胸を反らす王子に呆れてしまう。

 荷物を持ち再度お礼を言ってから、僕たちはミンの家を後にした。

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