決して覚めない微睡の中で

i & you

それは純白の翼のように


01


 長い、とても長い夢を見ていたような気がする。

 けれど目が覚めてしまったので、重く閉じられた瞼をそっと開く。

 二度寝をすることに抵抗はないけれど、先程見ていた夢の続きは決して見ることが出来ないのだろう、と何故だか強く確信していた。

 今は何時なのだろうか。枕元に時計はない。普段は煩く囀り、私を天国のような夢、の世界から引きずり降ろす悪魔の使者。そんな目覚まし時計はつい先日寿命を迎え、私より先に旅立ったのである。

季節柄、朝の空気は冷たく澄んでいるように感じられ、布団と毛布は私にしがみついて離れない。

 起き上がることもままならず、首を少しだけ横に倒すと、私が横たわっているベッドのすぐ横に位置する窓からカーテン越しに、赤く染まった朝日が差し込んでいるのが分かる。

 その眩しさに思わず目を細め、そして左の手で目を擦る。

 左手に与えられるどこか生暖かいような如何ともし難い感覚が、寝ぼけ眼で惚けていた私の意識に違和感を強く訴えかける。

 おかしい。そんなはずはないのだと。

 どう考えても涙ではない。左手にべっとりと付着した「ソレ」は、涙と呼ぶにはあまりにも多量で、そしてあまりにも───

状況を把握しようと、焦る私は左手を見る。涙ではない、と言ったのは正しい。けれど、その直後に状況を把握しようとしたこと自体を後悔した。

 左手に付着したのは、真っ赤でべっとりとした液体、つまりは血だ。真紅に染められた、血液。人間の血管の中を通り、老廃物や栄養分、酸素などを運ぶための液体成分。

 そう気づいた瞬間、私の思考は硬直する。

 私は、何度も何度も狂ったように顔を撫で回した。血に染まった左手で。今は何もついていない、綺麗な右手で。顔から、そして頭から垂れ続ける血は、ウェディングドレスのような純白のシーツを真っ赤に染め上げる。

 うわぁああぁぁぁああ、と私は叫び声をあげる。より正確には、そのつもりだった。けれど喉はヒュー、ヒュー、と音を立てるばかりで使い物にならない。

手足に力が入らない。何故だ。血だ。怖い。血はとめどなく流れてくる。顔を伝うその感覚が私に、否応無く現実を突きつける。

おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。

この量の血が頭から流れたのか私は死ぬのか痛くないのは何故だ痛みで感覚が麻痺したのか誰にやられた刺されたのか鈍器で殴られたのかなぜ殺される私は悪くないはずだ恨んでやる呪ってやる殺してやる私はまだやりたいことが沢山ある死にたくないない誰か助けて。

と、そこまで考えて、ふと思い当たる。それはとても簡単なことで。なぜ今まで気づかなかったのだろうかと疑問に思うほどだ。

だから私は、他人事のように、必要以上に冷えた頭でぼんやりと考える。

  とりあえず警察を呼ぼう、と。


02


 錯乱状態にある私は、枕のすぐ傍に落ちていた携帯電話を拾ってダイヤルを押す。手が震えて何度か電話を取り落としそうになったり、気が動転して110の三文字を打つばかりのことを何回も失敗した。

 警察に連絡する、というのは別に大したことを考えた末の行動ではない。

何かあったら警察に連絡する。幼い頃から染み付いたそのルーティーンをなぞろうとしたに過ぎないし、その判断が間違っていたとも思わない。

 数回コール音がして、電話口に五十代後半くらいだろうか、すこし落ち着いた声を持った警官が出る。

「こちら110番です。どうされましたか?」

 はい、と言いかけて開いた口から言の葉が出てこない。カラカラに乾いた喉から出るのは、驚く程に掠れてた声だけだ。

 頭から頬を伝って垂れてくる血液が少し口に入って鉄分の味が広がる。少し辛い。喉に努力を見せるよう命じて、それでも普段通りの声量には程遠いけれど、なんとか絞り出す。


  あ、あの、頭から血を流して倒れてて…。


 言っていて先程の昏い怒りが再燃する。こちらは頭から血を流しているのだから、私を害した見ず知らずの誰かを恨むことくらいは許されてしかるべきだ。

「ではその場所と倒れている方のお名前をお願いします。」

 住所は、と言いかけてふと気づく。ここの住所を私は知らないのである。自分の家の住所を知らないことなど有り得るだろうか、いやないはずだ。そう言われてしまうことは明々白々なのだけれど、それでも釈明の余地を残し、私の言い分を聞いてくれるとするのなら、純然たる事実をひとつ、告げるべきなのだろう。

ここは私の家ではなく、ましてや親戚の家などと言うオチでもなく。

名前も知らない赤の他人のアトリエでしかないのだ


03


 この家の、そして私自身について語るとすれば、それは愛すべき同居人のことを省いては成り立たない。

 彼女の名前を私は知らない。正確にはほとんど知らない。ただ知っているのは「ユイ」というあだ名だけ。

 私には───自分で言うのもなんだか恥ずかしいのだけれど───芸術面での才能がある。それが生まれつきなのかは分からないけれど、ともかく物心ついた頃にはもう、その才能に恵まれていたと思う。そんなに凄い才能であるとは言い難い、と私は思っているのだけれど、ユイはそんな私に目をつけ、そして絶賛した。

 ユイは私にとっての師であり親代わりであり、かけがえのない友人であり仕事仲間である。

 ユイが私と同じ才能を持っている、という訳では無い。けれど、私に無いものを沢山、両手に抱えきれないほど沢山持っていた。

彼女は天才という称号にふさわしい人間だった。経歴を詳しく聞いたことは無いけれど、彼女のその有能さ、そしてただならぬ気配が唯の一般人のものでは無いことは私にもわかった。

 ユイは私のパトロンである。私の才能を生かすために、生活設備──つまりはここの家の事だが──を私に与え、自身もこの家で暮らし続けている。

 ただ、彼女は体がとても弱かった。「無血病」という病気だと、そう言っていた。身体の中に血液が通っていないのだと。

「比喩でも何でもなく、血が通ってない女なのよ、私。」

笑ってそう言っていたけれど、果たしてその苦悩はどれほどのものだったのかは分からない。

 ユイに拾ってもらう──一緒に住み始めてから、私は毎日この家の中のみで過ごしている。一方うら若き天才であるところの彼女は引く手数多らしく、毎日のように海外へと赴いている。そのため、最近は一緒に居る時間は少なくなってきた。

 今日はアメリカにいるはずなので、家にいるのは私一人なのだが。


04


 さて、警官には、住所・住人の本名がわからないことと、私が頭から血を流していることを説明したのだけれど、まるで相手にされなかった。

 今いる住所も住人の名前すらわからないなんてことは、きっと彼の日常にはありえないことなのだろう。

けれど、「頭から血を流している」と自己申告している人間がいるのだから、わからないことは頭に障害が起きてしまった、とでも考えてくれればよかろうに。

救急車を呼ぶ作業もおそらく同様の理由で断られるだろうと予期したので呼ばなかった。恥をかくのはもう沢山だ。

 さて、頭を怪我している割には元気に思えるし、痛みも、鈍い痛みが少し私を包み込んではいるけれど、それ以上に流れ出す大量の血があまりにセンセーショナルすぎる。

 頭の何処をやられたのか確かめよう、と考えるに至るには、そんなに長い時間はかからなかった。これだけの出血量でまだ生きている、ましてや会話も思考もなんとかできている、ということは死のタイムリミットまではもう少しだけ時間があるらしい。

 頭をじっくりと検分するかのように、丁寧に触る。万が一傷に触ってしまえば、とてつもなく痛いのは勿論のこと、最悪の場合には自らの命を断つ事になってしまう。

 息を呑む。慎重に、慎重に。左側頭部から右後頭部に。やがては頭頂部、そして前頭部に辿り着く。血で濡れていた髪は既に半分固まっていて、ザラザラとした手触りとヌルヌルとした血液の塊が混ざり合う様は、とても気持ちが悪い。

垂れてくる血液が口に入らないように何度もぬぐいつつ、頭全体の見聞を行った。そして全て終わったあと、私の頭には疑問符が沢山浮かんだ。


あれ?何処も怪我してなくない?


05

 私のベッド。その隣にはユイの布団がある。

「どうも床の上以外で寝る、なんてことは許せなくてね。」

 才媛であるところの彼女はそう言って、私にベッドを渡し、自らは床に敷いた布団の上で寝ている。

 天才には天才なりのこだわりがあるのだろか。凡人どころかろくに人並みになれない私にはあまり理解できないことなのだけれど。

 ───無意識なのだろう。この訳の分からない状況で、ユイに助けを求めたくなったから。だからその布団のほうに目をやった。電話でもかければいいじゃないか、なんて言われそうだけれど、ユイは電話を持っていない。私には買い与えているにも関わらず、だ。

「電子機器にはあまり慣れないから。それに、いつも見張られてるなんて気がおかしくなりそうだ。」

 こちらも天才ゆえの苦悩なのだろうか、やはり文明の利器をこれでもかとばかりに使用している私には分からない感覚なのだが。

 布団の方に目をやったのは何か考えた末の結末ではないのだが、そんなことを忘れてしまうような光景がそこには広がっていた。

 凄惨だった。ただ酷かった。ただ惨かった。悪寒のする光景だった。全身の毛穴が広がるような光景だった。見が竦むような光景だった。身の毛のよだつ光景だった。信じられない光景だった。ありえない光景だった。

 だって。だってだってだって彼女は──。

 私は、今度こそ声を失った。喋ることなどできなかった。嘘だと何度も呟くことも、ただひたすらに嘆くこともおんおんと声を出して泣くことも悲しみにくれて叫ぶこともできなかった。なんで、辛うじてその一言が出たかどうか。


そこには、今はアメリカに居るはずの、無血病──一滴も血の流れないはずの同居人が。師が。パトロンが。友人が。親友が。親代わりが。恋人が。そこで、見るも無残なバラバラ死体へと変貌を遂げていた。

ろくに判別もつかないほど千切りにされた腕、脚、胴体───だったと推測される肉片。その上に、眠るようにして生首が飾られている。そう、眠るように、穏やかに。

 流れないはずの血で、真っ赤に彩られて。

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