月の捨て子

如月姫蝶

月の捨て子

 彼女は、公安警察の指示により、IDの更新手続きを行った。バンパイアハンターとしてのIDである。見れば、姓は存在せず、名はメイサ。不機嫌な子供のような顔写真に、全身の3Dデータは七〜八歳児並みときている。それらはしかし、彼女の事実を反映しているのだった。

 そして、IDの有効期限は、更新前と比較して、きっかり三年間延長されていた。

 バンパイアハンターとして一件仕事をこなすたびに、それは、成功報酬として三年ずつ延長されてゆく。有効期限までは、メイサの生存を政府が容認するという、一応の保証なのだ。随分と上から目線なものである。

 メイサは人間とは認められていない。吸血鬼の血を引いているからだ。そして、父方の同族を葬ることでしか延命できないという、人間たちの国のシステムに組み込まれている。もしも、現存する全ての吸血鬼たちが、市販の人工血液の味にすっかり満足して人々に危害を加えなくなったとしたら……ふと、そんなふうに思わずにはいられなかった。


 修羅の国でも、人は夢を見ようとする。人でなくとも、夢は見たかった。夢見た未来なんて決して訪れないのだとしても。


「兄さん、ああ、シオン兄さん……どうして彼女をあやめたの? 兄さんのことを匿うために、プライベートな献血センターまで作ってくれたような人を……どうして手に掛けてしまったの?」

『メイサ、愚かで可愛い僕の妹……せめて毒牙に掛けたと言ってほしいね、僕は吸血鬼なんだから』

 シオンは、妹の悲痛な問い掛けを、特に悪びれもせずにはぐらかしたのだった。


 メイサが何を夢見ようと、現実には、吸血鬼が人間を襲う事件が絶えることはない。

 彼女は本日、その殺人が行われた現場を、公安警察の人間たちと共に訪れた。

 状況だけなら、ごくありふれていた。一組の男女が宿にチェックインして同室に宿泊したものの、朝が来る頃には、男は姿を消しており、女は亡骸と化していた。

 目撃証言を信じるなら、二十代の男と四十代の女の組み合わせだったらしい。

 そしてそこは、富裕層をターゲットとして、古城を改修した宿だった。リアルマネーに例えるなら、高額紙幣の束を対価としなければ、客として足を踏み入れることは叶わない。

 今となっては、著名な画伯が天井に描いた朧月夜は、不吉な赤い雲によって汚されていた。

 被害者の頸動脈から噴出した鮮血が、画伯の朧月夜を、修復不可能なまでに改変してしまったのである。そして、被害者の傷口には、特徴的な歯型が刻まれていた。

「出ました! V-REXです! 被害者の遺体からも室内の微物からも、V-REXのDNAが検出されました!」

 男が駆け寄り、小声ながらも興奮を隠し切れない様子で告げた。

 ただし、彼は、小学生のごとく幼い容姿のメイサではなく、彼女の傍らに立つ、公安警察の捜査官に告げたのだ。

 殺人犯が誰かだなんて、メイサがとっくに直感していた通りだったのである。

 V-REX——ブイレックスとは、吸血鬼つまりバンパイアの王といった意味合いのコードネームである。

 大方、肉食恐竜の王者のごとく位置付けられているT-REX——ティーレックスになぞらえたのだろう。

 ブイレックスは、国内で生存が確認されている、数少ない純血の吸血鬼の中でも最強とされる存在だ。人間が勝手に暗号名なんぞで呼ぶより千年以上も前から、シオンと名乗って悠々と生き抜いている。

 母親こそ異なるが、メイサの長兄でもあるのだった。

 今回の被害者である女性の身元は、既に速やかに特定されていた。彼女は、国際的に成功した実業家だったからである。人工血液が既に実用化されたこのご時世に、しかしながら人工血液は未だ高価であるこのご時世に、それに手が届かない庶民や貧民のために献血センターを新設したような慈善家でもあった。

 もっとも、そうした慈善の裏には、二十代の青年の姿をした恋人を繋ぎ止めようとする意図があったというわけだ。彼女は、側近たちには、シオンのことを「血液の研究者」だと紹介していたらしい。

「近く、バンパイアハンターとして、一働きしてもらうぞ、メイサ」

 公安警察の捜査官は、コンピュータに音声入力するよりも感情の欠落した声で言った。

「ええ、わかっているわ」

 メイサも似たような声で応じた。

 彼女は近々、この殺人事件の「犯人」と対決することになるだろう。

 メイサのような吸血鬼と人間のハーフは、人権を与えられず、かといって、動物愛護の対象ともならない。矮小な吸血鬼としてひっそりと生きるか、人間に隷属してバンパイアを狩るハンターとして生きるか、現実問題として、その二択しかありえないのだ。そしてメイサは、人間たちの中で人間としては成人が近いほどの年月を生きたにもかかわらず、成長が遅いことから出自が発覚したのだが、己の意志で後者を選択したのである。

 メイサの父たる吸血鬼は、今となっては生死不明であるが、月から渡来して以来、人間の女性との間に数多くの子供を生したらしい。メイサは、バンパイアハンターとして出動した回数は、未だちょうど片手の指で足りるほどでしかないのだが、既に、百才以上も年長の姉を——異母姉を斃したこともあるのだった。

 幼い容姿のバンパイアハンターは、改めて、天井の朧月夜に掛かった血の雲を見上げた。

 血痕の大きさや形状からして、シオンは、被害者を立たせた状態で、その頸動脈を咬み千切ったのだろう。それでいて、ほとんど血を飲んではいない。飢餓に耐えかねて襲ったわけではなさそうだ。

 まるで、シャンパンファイトのためだけにシャンパンを開栓するかのように、彼女を死に至らしめてしまったようだった。

 一方で、シオンは、被害者の心臓を、体外へと掴み出して打ち捨てていた。

 吸血鬼に生き血を吸われた人間は、稀に、矮小な吸血鬼へと変化することがある。メイサのように吸血鬼の血を引く子供よりも、能力的にはより一層劣るが、寿命は人間よりも永い存在となりうるのだ。

 しかし、吸血後すぐに被害者の心臓を始末すれば、そうした変化の可能性は潰える。

 もちろん、吸血鬼と人間のハーフが生まれる可能性もまた潰える。

 現状、V-REXの子孫の存在は確認されていないらしい。

 吸血鬼は、姿形は人間そっくりではあるが、膂力りょりょくは人間を遥かに上回る。シオンであれば、素手で、貫手で、被害者の胸に風穴を開けて、心臓を掴み出すことくらい容易たやすいはずだった。

 メイサは、シオンの長身と広い背中、そして、長く美しい指たちを思った。

 途端に、胸が苦しくなった。

 シオンが、人間を玩ぶように殺害した証なんて、もうこれ以上見たくはなかった。


 うるさい、うるさい、うるさいのよ兄さん! あなたのせいで、私の心臓の音が……

 心臓の音がうるさくなるのよ、あなたの罪を見るたびに。ねえ、どうして、あの人は死ねたのに、私は今も生きてるの?


 メイサが、シオンのことを考えるのに疲れ果てると、今度はエリカのことが思い出されるのだった。

 エリカは、死の直前までは、二十代にしか見えない長身の女性だった。IDを偽造して、ファッションモデルとして就労していたのだ。

 それは、華麗なるイベントで、エリカがランウェイに踊り出た瞬間のことだった。彼女は突如として倒れたかと思うと、激しく痙攣したのである。

 騒然となった場内で、関係者や観客の脳裏を、違法薬物のイメージがよぎったかもしれない。モデルの中には時として、痩身目的でそうした薬物を摂取する者もいるからだ。

 しかし、みるみる全身の骨格がよじれて老婆じみてしまう薬物など、さすがに市中に出回ってはいないだろう。

 エリカは、病院に搬送されて、精密検査を受けた。お陰で、吸血鬼と人間の混血であることや、とはいえ老衰で死期が近いことが判明したのである。そのうえ、メイサの異母姉にあたり、百才以上も年長であるらしかった。

 エリカには、人工血液の購入履歴はあっても、人間を襲撃した前歴は確認されなかった。しかし、公安警察により、未解決のテロ事件の犯人だという濡れ衣を着せられたうえで、バンパイアハンターによって処刑されることとなった。

 吸血鬼の血を引く者が、死を目前にして人間の手に落ちると、そうやってまやかしの治安維持に利用されてしまう。そして所詮はバンパイアハンターも、そんなまやかしを演出するための駒でしかないのだった。


 エリカが運び込まれた病院は大規模で、その屋上は、自殺防止が主目的であろう頑丈なフェンスによって、四方だけでなく上空まで包囲されていた。傷病を苦にしたり、高額な治療費を苦にしたりと、人間の苦悩も絶えないらしい。

 お陰で、昔ながらの金網デスマッチの舞台として、そこはお誂え向きだった。

 メイサは、フェンスを背にして立ち、眼前に設置された重厚な箱型の檻が開け放たれるのを待った。

 安全な場所に身を置いている誰かが、それをリモコンで操作するのだ。

「処刑」と銘打ってはいるものの、その様子は、ありとあらゆる電波媒体やインターネットを通じて公開される。むしろ、古代の大帝国で、大観衆に溢れた闘技場で、猛獣と剣闘士が否応なく戦わされたことに似ているのかもしれない。

 しかし、檻から出てきたものは猛獣ではなかった……少なくとも、現時点では。

 背中が曲がってもなお背の高い老婆が、簡素な患者衣一枚という姿で、感情があるのかどうかも読めない表情で、ふらふらと歩み出てきたのだ。

「ここがあなたの最後のランウェイよ、エリカさん!」

 メイサは、両手に一丁ずつ持ったレーザーピストルを、淀みなく連射した。

 まずは、ターゲットの眉間と左胸に、その光線は狙い通りに吸い込まれた。肉が焦げる臭いも立ち昇ったが、エリカが倒れることはなかった。そして、逃げるでもなく、メイサとの距離を縮めてくるのだった。

 やはり、吸血鬼の血を引く者の再生能力は破格だ。脳や心臓を少々レーザーで灼いても、凄まじい再生能力で相殺されてしまうのだ。

 メイサは、フェンス沿いに軽やかに移動しながら、射撃の目標をエリカの下半身へと切り替えた。

 なにせメイサは、未だ小学生並みの小柄な肉体しか持ち合わせていないのだ。エリカとの間に距離があるうちに、できるだけその有利な移動手段を、長い足を弱体化しておきたかった。

 果たして、エリカはうつ伏せに倒れた。しかし次の刹那、その両手両足の筋肉がもりもりと膨張したかと思うと、一転して肉食獣のごとき殺意と高速でもって、メイサへと突進したのである。

 メイサは、すかさず身軽さを利して、フェンスの上部へと逃れたが、その足元からは強烈な衝突音と振動が伝わってきた。

「やっぱりね。抜かりなく生物兵器へと造り変えられていたというわけね」

 人間相手は当然のこと、犬や猫が相手であっても、やってはならないことが法的に定められているものなのだが、吸血鬼の親類縁者には、そんな法など適用されない。

 バンパイアハンターとしての経験は未だ浅いメイサだが、以前にもこうした四足走行のビーストタイプの生物兵器を処刑させられたことがあった。その男は、生粋の人間だったが、ある夜、V-REXとは異なる系統の矮小な吸血鬼の餌食となり、より一層矮小な吸血鬼へと変化してしまったばかりに、公安警察によって身柄を拘束された。未解決の連続殺人事件の犯人に仕立て上げられ処刑されることとなったのだが、もののついでとばかりに、データを欲しがる研究者によって、生物兵器に改造されたのだ。

 メイサは、命令されたこととはいえ、自分の意志でそれに従い、彼の生命を蹂躙した。

「モードチェンジ!」

 メイサは、音声入力によって、得物をピストルから剣へと変化させた。レーザーブレードの双剣使いとなって、高みより身を躍らせたのである。


 まずは、斬首すべし!


 ビーストタイプの生物兵器は、頭部さえ切除すれば、その後の対処が捗るのだ。頭部以外にも付与された鋭敏な嗅覚器官を頼りに、首無しと化してもハンターを追いかけ回してはくるだろうが。

 メイサは、子供同然の喉を振り絞って雄叫びをあげた。

 エリカの首は、ハンターの体重を乗せたレーザーブレードによって、二方向から抉り取られて、ゴロリと地に落ちた。

 メイサは、未来の自分に返り血を浴びせられたように感じた。全身が生煮えにされたかのようだった。

「悪く思ってよね、エリカさん……」

 目元に浴びた返り血をぐいっと腕で拭ったその一瞬、メイサの小さな体は、あっけなく上空へと吹き飛ばされたのである。

 されたのだ。さっきまでエリカの首が生えていた場所から、新たに大蛇が生えてきて、その頭部がメイサの腹にしたたかなアッパーパンチを喰らわせたのだ。

 メイサの手は虚しく宙を掻き、その身は屋上から弧を描いて転落する……ところだった。もしも、そこが金網越しにしか空を見られない場所でなかったなら。

 メイサは、屋上を封鎖するフェンスの天井部分に、片手でぶら下がることになった。そして、見下ろせば、大蛇が三匹に増えているではないか!

 本来の首を失ったエリカの胴体から、みるみる三つの蛇頭が生えて、鎌首をもたげていた。ゆるゆると揺らめく大蛇たちの長さは、メイサの身長の二倍はあるのではないかと思われた。


『メイサ、聞こえるかい? あれは、オロチタイプと呼ばれる生物兵器だよ』

 その声は、突如として、彼女の脳へと囁きかけた。

「シオン兄さん!?」

『オロチタイプは、蛇頭の数だけ脳を生成する。けれど、心臓は本来のそれ一つきりしかないんだ。きみがこのヒントを元に賢明に立ち回ってくれれば、僕はきみを助けてあげられるよ』

 メイサは見て取った。エリカが収容されていた檻の傍らに、陽炎にも似た光のいびつな屈折を。おそらくそこに、誰かが身を潜めているのだろう、光学迷彩により姿を隠した状態で。

 

 オロチは、自分で吹き飛ばしたメイサを一度は見失ったようだったが、蛇頭たちの三本の舌が、六つのまなこが、今や頭上のハンターへと向けられていた。

 メイサはどうやら、オロチのたった一つの心臓を、姿を隠した助っ人の前に差し出すことを要求されたようだ。

 とはいえ、まずはアーティスティックなバタ足に勤しまねばならなかった。三つの蛇頭が、入れ替わり立ち替わりに伸び上がって、メイサの足を噛もうとしたのを躱すためである。

 そしてそれは、躱すばかりでなく斬撃を加えるためでもあった。メイサのシューズの先端には、レーザーブレードをアタッチできるのだ。

 メイサは、やいばの分だけ長くなった両足を、大蛇たちに存分に振る舞ったのだった。

 やがて、逆上がりの要領で頭上のフェンスを蹴り上げて、そこに抜け穴を切り開いたのである。

 メイサは、抜け穴を潜って、フェンスの天井部分の上に出た。

 決して敵前逃亡ではない。透明な屋根裏に立って、オロチを見下ろす。

 オロチは、いくら牙を剥きつつ伸び上がっても、屋根裏の高さには僅かに及ばなかった。

 相手の脳は三つ。それらが心臓より高くなればなるほど、心臓への負荷は強まるはずだ。人型の胴体に収まったままであろう心臓が、耐え切れずに自滅してくれればそれにてジ・エンドとなったろうが……

 オロチは、せっかく会得した四足走行ではなく、二足歩行を取り戻そうとした。フェンスにつかまり立ちすることで、獲物までの残り僅かな距離を詰めようとしたのである。

 それはしかし、光学迷彩を駆使した助っ人相手に、無防備な背中を晒すことを意味していた。

 すかさず、大蛇の眼球を思わせるほどのビーム径のレーザーが、かつてエリカだったオロチの左胸に背側から命中して、その心臓を焼灼した。生命活動が完全に停止するまで焼き尽くしたのである。

 檻の傍らに、光学迷彩を解除して、公安警察の狙撃手のユニフォームを纏った男が姿を現していた。

 彼が使用したライフルは、メイサが支給されたレーザーピストルとは段違いに大型かつ高出力で、エリカに虚しい苦痛を与えずとどめを刺すには相応ふさわしかった。


『よく頑張ったね、メイサ』

「シオン兄さん!」

 メイサは、屋上に着地するや、狙撃手に駆け寄った。

 ハンターが吸血鬼を処刑する際には、一対一というルールが絶対的であり、公安警察の狙撃手が援護するなど考えられない。一対一かつ、ハンターの装備を制限したうえで、処刑は様々なメディアを通じて公開され、賭け事の対象となり、莫大な金が動くのだ。ハンターの敗死もありえるからこそ、賭けは一層盛り上がる。

「違う! この人は兄さんじゃない!」

 モニターしているはずの公安警察に向かって、メイサは絶叫した。

「ん……あれ、ここはどこ」

 狙撃手は、眠りから覚めたように言葉を発したが、そこで永遠に途切れてしまった。

 エリカにとどめを刺したのと同等のレーザービームが、彼の脇腹を貫いたからである。


 処刑を公開しているお陰もあってか、バンパイアは日光浴で死ぬだとか、閉所を好み棺桶で眠る性癖があるなどといった民話的な迷信は、近年では概ね払拭されている。

 公安がメイサに与えた私室は個室で、棺桶よりも幾分広いことは確かだった。

 窓すら無い殺風景な部屋だ。しかし、窓からの眺めの代わりにしろと言わんばかりに、壁に四角いスクリーンが設置されており、そこには今、無駄に色鮮やかな熱帯魚たちが映し出されていた。

 普段のメイサなら、とっくに灯りもそんな映像も消して、ベッドに横たわっている時間帯だった。しかし、今日は——いや、既に昨日かもしれないが——彼女は、「朧月夜の」にて行われた公安の現場検証に付き合わされたのだ。長兄の罪の証と向き合わざるをえなかったのだ。お陰で嫌に気が立っていて、今も熱帯魚たちを好きに泳がせたまま、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。そうこうしているうちに、エリカのことまで思い出してしまい、とても眠れそうもない。

 メイサを助けてエリカにとどめを刺し、その直後に自身もとどめを刺された狙撃手がいた。彼の死に関する公式発表はこうだ。

「彼は、公安警察に所属する狙撃手でありながら、処刑を巡る賭けに介入しようとするに買収されて、かの暴挙に及んだ。そして、それを良しとしない別の反社の報復により殺害されたものである」——馬鹿げた作り話である。

 あの狙撃手は、V-REXつまりシオンであると誤認されて、病院に隣接するビルに陣取っていた公安の同僚によって射殺されたのである。

 メイサは、彼女のお目付け役である捜査官に訴えた。あの狙撃手は、シオンに一時的に憑依されていただけである。純血の吸血鬼ともなると、人間に憑依して意識を乗っ取り、その肉体を操ることだってできるのだと。

 しかし、彼女の訴えが、公式発表に反映されることはなかった。あるわけがなかった。


 不意に、傍らの携帯端末が鳴動したことで、メイサの肩ははビクリと上下した。

『もしもし、僕だよ、メイサ』

 電話に出た彼女は息を呑んだ。とても信じることができなかった。

 その携帯端末は、公安から支給されたものであり、あくまで公安関係者との連絡用だった。それが、メイサが出てみればシオンからで、しかも、毎日顔を合わせている兄妹であるかのように気さくに挨拶されたのだ。

「……兄さん、どうしてこの番号を?」

『ああ、先日の狙撃手が知っていた。彼の記憶を読んだら、きみの電話番号を知っていたから、ちょっと嫉妬したよ』

 シオンは、憑依した相手の記憶を読み出すこともできるらしい。

 ただ、テレパシーではなく人間の文明の利器を利用しているということは、シオン本人や彼に憑依された誰かが、メイサのすぐ近くにいるというわけではなさそうだ。

 だが、そうだとしても……

「兄さん……わかっているわよね? この端末を介した通信は、全て、公安警察の知るところとなるのよ?」

『ああ、それがどうかしたのかい?』

 シオンは、落ち着いた笑い声さえ立てた。わかってはいても、意に介するつもりはないらしい。

 しかし、メイサは、あの血塗られた朧月夜を意に介さずにはいられなかった。

「兄さん、ああ、シオン兄さん……どうして彼女をあやめたの? 兄さんのことを匿うために、プライベートな献血センターまで作ってくれたような人を……どうして手に掛けてしまったの?」

 言葉が堰を切ったように溢れた。そこには、公安の捜査官などには決して見せようとしない感情、激情があった。

『メイサ、愚かで可愛い僕の妹……せめて毒牙に掛けたと言ってほしいね、僕は吸血鬼なんだから』

 シオンは、妹の悲痛な問い掛けを、特に悪びれもせずにはぐらかしたのだった。

『彼女の懐に潜り込むのは簡単だったよ。全く、ベッドテクニックというものは、いつの世にも使える人心掌握術だね。メイサにはまだ早いのかもしれないが……』

「愚かなのは、あなたのほうよ!」

 ベッドテクニックの話なんて聞きたくもない。私室以上に殺風景な心持ちで、もはやメイサも、乾いた笑みを零すしかなかった。

「兄さん、献血や人工血液を糧にすることで、純血の吸血鬼だって生きられる。そうなんでしょう? 私は半分は人間なの。人を殺すことを物を壊すのと同じようには考えられないし、人の生き血を吸うことは、水やミルクを飲むことととは全然違うのよ……」

『ちょっと会えないかな。僕はきみに会いたい』

 シオンは、またはぐらかした。

 メイサがバンパイアハンターとなって以降、シオンと直接対面したことは一度もない。彼のほうからテレパシーでちょっかいを出してくることなら稀にあったが。

「会えないわ。近いうちに、私が、朧月夜のでの殺人犯を処刑することになるでしょうけど、それはあなたじゃないの。こういう時のために身柄を拘束されてストックされている、矮小な吸血鬼たちの誰かが、あなたの代わりに処刑されるのよ!」

『そういうのじゃなくてさ、その官舎の近くにも二十四時間営業のコーヒーショップくらいあるだろう。今からそこで会えない? 僕だって、ポーカーフェイスでブラックコーヒーくらい啜ってみせるよ。あんなものがおいしいだなんて、どれだけ生きても理解できそうもないけどね。きみは、パンケーキを食べればいい。いつかみたいに、ジャムもバターもシロップも全部乗っけて食べればいいさ。大好きなんだろう?』

「それを言うなら、ホイップクリームも、特製イチゴソースもよ……」

 シオンの言葉に記憶を刺激されて、メイサは、眩暈を禁じえなかった。

 昔、メイサには、シオンのことを自分の父親だと思い込んでいた時期があった。当時の彼女は、見た目ばかりか、身も心も今以上に子供じみていたのである。

 メイサの実の父たる純血の吸血鬼は、メイサが生まれる頃には既に、人間である母の前から姿を消していたらしい。

 独りで産み育ててくれた母には、感謝するしかないだろう。メイサの成長が純血の人間よりも遅いことを怪しまれぬよう、頻繁に転居を繰り返しながら育ててくれたのだ。

 そうこうしているうちに、なぜかシオンが母子を探し当てて訪ねてくるようになった。シオンは、何か不思議な生き物を見るようにメイサを観察する一方で、メイサが「パパ」と思い込んで呼んでも、特に正そうとはしなかった。そして、しばしば彼女を連れて、人間用の飲食店で二人の時間を過ごすようになったのである。

 メイサは、甘い物が大好物だった。

 シオンは、そんなメイサの向かいに座り、周囲に怪しまれない程度に、飲み物や軽食を注文して口に運んでいた。

「おいしいかい、メイサ」

「とってもおいしくて幸せだよ、パパ!」

 シオンは、ふと手を伸ばすと、長く美しい指で、メイサのほっぺたにぷにりと触れる。そこについていたクリームを掬い取ると、おずおずと口に含む。

「……ダメだな。やっぱり味はわからない」

 シオンは、俯き加減に嘆息した。

「メイサ、これはおとぎ話だと思って聞いてくれていいよ。大昔から、月の大罪人は、体を吸血鬼に造り変えられたうえで、地球へと堕とされるんだ。定番の流刑だったらしいけど、さすがに月の王家から堕とされたのは、暴君だった父上と、その嫡子だった僕くらいのものだろうね。

 吸血鬼だって、人間と同じ食べ物で、それなりに飢えを凌げるんだ。けれど、時には吸血することも欠かせない。そして、なんにせよ、味というものがちっともわからないんだよ。

 人間がベッドテクニックに溺れる体感なら、多少はわからなくもないんだけどね」

 メイサは、小首を傾げた。耳慣れない言葉はあっさり聞き流して、せっせとナイフとフォークを使う。

「はい、パパ、あーんして?」

 メイサは、パンケーキの小さな一切れに、色とりどりのトッピングを器用に飾り付けたものを、フォークに刺してシオンに差し出したのだ。


 やれやれ、やはり子供には難しい話だったか。


 シオンは、仕方なく口で受け止めたが、メイサの花咲くような笑顔と見つめ合って咀嚼するうちに、徐々に眉を開いた。子供というものは本当に無垢で愚かで……

「まずいな……」

「え……パパ、メイサのあーんがまずいの?」

「いや、違うんだメイサ、そんな顔しないで。どうしよう。僕はいつか、幸せとでも呼ぶべきものの味を、理解してしまうのかもしれない」

 シオンは、幼い妹の頬を、改めてぷにぷにとつついたのだった。


 その頃、メイサの留守宅を、一人の女が訪れていた。

「穏やかな死を迎えたくなりましたか?」

 メイサの母にそう問うた女は、公安の捜査官だった。メイサとその母の所在を突き止めたのは、シオンだけではなかったのだ。

「我々の要求を呑みさえすれば、あなたは富裕層向けのホスピスに入れるのですよ?」

 母がメイサをシオンと二人きりで外出させる理由——それは、既に重病に冒され食事が喉を通らないことを、メイサには悟られまいとしてのことだった。

「我々に娘さんを引き渡しなさい。彼女はバンパイアハンターとして育成されます。すぐに処刑されるようなことはありませんから」

 メイサの母は、顔を背けた。

「あなたは穏やかに死ねる。娘さんはすぐには死なない。考えてもみて。最善とは言い難いでしょうけど、最悪からも程遠いはずよ」

 捜査官の熱弁は、切り良く途絶えた。

 メイサの母は、捜査官の胸から、血塗れの長い指たちが生えるのを見た。

 メイサを伴い帰宅したシオンが、独断専行で彼女を血祭に上げたのだった。

「すぐに逃げましょう。あなたの病状がそこまで進行しているとは、僕も気付けていなかった。ホスピスに入りたいなら、僕が手配して、メイサと過ごせるように取り計らいましょう。伊達に長年、人間社会に潜伏してきたわけじゃないんだ。僕にもそれなりに人脈があります。

 あるいは、僕の毒牙で吸血鬼の仲間入りをして、延命することに賭けますか?」

 メイサの母は、病身での延命を望まなかった。

 そして、公安は母子の自宅を包囲していた。殺害された女は、交渉役として一人で前面に出ていただけで、実は仲間たちを引き連れていたのだ。

 投降を申し出たのはメイサだった。彼女は、愛らしく柔らかい頬まで強張らせて、母の身の安全と引き換えになら、バンパイアハンターにでもなんでもなってやると宣言したのだ。

 シオンは、失意のうちに独り逃走した。メイサと母が共に過ごしうる、残り少ない時間まで奪いたくはなかった。


『メイサ、会いたいよ。僕はきみに本当に会いたいんだ。

 どうして彼女をあやめたのか……きみの質問にも、ちゃんと会って応えたい』

 メイサの脳裏に、血染めの朧月夜と、長く美しい指たちが、またもやフラッシュバックした。

「……私だって兄さんに会いたい。でも、こんな時間帯に私用の外出なんて認められっこないわ」

 メイサは、公安のルールに忠実だった。公安は、彼女との最初の約束だけは守ってくれたから、彼女は残りの人生を売り渡したのだ。

 公安によってホスピスに収容された母は、ものの三日で容体が急変して亡くなってしまったけれど……

 そして、実のところ、シオンが殺人について身勝手な言い訳をする気なら、そんなものは聞きたくないとも思ってしまうのだった。


 色鮮やかな熱帯魚たちが、突如として空を飛んだ。

 それらを映し出したスクリーンが、長い足で蹴飛ばされたのだ。空調用のダクトを強引に潜り抜けてやって来た大男が、全ての遮蔽物を蹴破って室内に降り立ったことの弊害だった。

「シオン兄さん!?」

「やあ、メイサ、暫くぶりだね。この建物のセキュリティは切ってあるから、安心して。

 いやはや、通話できみの位置を特定したまでは良かったんだけど、我ながら環境負荷の高い道のりになってしまった」

「そのようね」

 メイサはあっさりと同意した。長兄と再会した驚きや歓びよりも、瞬時に瓦礫の山と化した私室を見回すことのほうが先になってしまった。

「言っちゃなんだけど、手狭な部屋だねえ」

「ついさっきまでは、もう少し広々として、ちゃんと片付いていたわ」

 大柄なシオンは、他に身の置き所がないとばかりに、ベッドに腰を下ろした。小柄な妹を、ひょいと膝に抱き上げながら。

 シオンにバックハグされる格好となったが、メイサの前にはちょうど、ひび割れた鏡が立て掛けられたようになっていたため、彼女には彼が憂いを含んだ真摯な表情をしていることが見て取れた。

「まずは、ちゃんと話さなきゃね。僕と彼女は、そもそも重大かつ秘密の、とあるプロジェクトの同志だったんだ。彼女は、資金調達や、海外との往来の便宜を図ってくれていた。

 そして実は、先日射殺された狙撃手、彼も同志のはずだった。実動部隊に加わるはずだったけど、実はスパイだと判明したから、死んでもらったんだ」

「え?」


 狙撃手が実動部隊として必要とされるプロジェクト? そして、スパイには死?


「ぐふうっ……舌を咬むところだったじゃないか、メイサ。バンパイアハンターとしての経験値のせいかな、頭突きにキレが増したね」

「きゃっ、ごめんなさい! そんなつもりじゃ……」

 メイサは、シオンの発言に驚き、立ち上がっただけだ。しかし、大人と子供ほどの体格差があるため、運悪くシオンの下顎にアッパーな頭突きが決まってしまったのである。

 思えば、メイサは、シオンを父親だと思い込んでいた当時にも、うっかり彼の舌を危機的状況に追い込んでしまったことがあった。その時は確か、シオンの膝に抱かれてテレビを見ていたら、そこに映し出されたアイドルたちと一緒に無性に踊りたくなって……その弾みだった。

 ちゃんとシオンのことをよしよしして、反省もしたはずだったのだが……

 シオンは、再発防止のためにと、今度は対面式でメイサを抱きかかえた。

「プロジェクトの決行がいよいよ近付いたあの夜、彼女は、僕に言ったんだ。

 私のことを愛してる? 愛してくれるのでなければ、このプロジェクトの全容を告発してやる——なんてね。

 彼女が僕を愛しているらしいことはわかっていた。僕はあの時、プロジェクトを守るためにも、嘘を吐くべきだったのかもしれない。でも、それだけはできなかったんだ。

 彼女は死んだ。僕が殺したんだよ」

「羨ましい」

メイサは、兄の腕に爪を立てて、その顔を見上げた。

「私は、兄さんのこの手で殺された人たちが羨ましいの。

 最初にそう思ったのは、あの、公安の女の人の時。血塗れになった兄さんの指が、なんて綺麗なんだろうって、ゾクリとしたわ。バンパイアハンターになったのは、吸血鬼を処刑する役目を負っていれば、いつか兄さんに殺してもらえるかもしれないとも思ったからなの。

 私の心臓の音がうるさいの。いっそ破裂してしまえばいいと思うほどうるさくなるのよ。兄さんがこの手で誰かを殺したと知るたびにね……」

 シオンは、いくらか目を見張った。そしてまたいつかのように、妹のことを不思議な生き物であるかのように観察した。

 やがて、彼の長く美しい指が、するすると宙を泳ぎ、妹の頬をぷにぷにとつついたのだった。

「どうしよう。僕は、魔王を倒してお姫様を救い出す、おとぎ話の勇者のような心持ちでいたのに、実のところお姫様は、僕なんかのこの手に囚われていたっていうの?」

 シオンは、メイサを床に立たせて、その眼前に跪いた。彼の登場時に発生した瓦礫のせいで、なかなかポーズは決まらなかったけれども。

「メイサ、僕のお姫様、どうか、僕と一緒に、こんな窮屈で不透明な金魚鉢を捨てて、旅に出てください」


「本当に、外に出られるだなんて……」

 メイサは、街のそよ風が頬を撫でるたびに、まるで吹き飛ばされるのを恐れるように、傍らを歩むシオンの腕にしがみ付いた。

 シオンの言った通り、あたかも金魚鉢で飼われるような生活と訣別したのに、なかなか現実感が伴わないのだ。

「安心して、メイサ。プロジェクトは成功した。そして、僕が切望した報酬こそが、きみの自由と安全なんだから」

「もうバンパイアハンターじゃなくなっただなんて! 転職を考えなきゃいけないわ!」

「そうだね。僕の経験上、人間の自殺志願者をと喜ばれるよ。彼らはこの社会にうようよしているからね。よりアグレッシブかつ古典的に、殺し屋稼業というのもありだろうけど……」

 メイサが軽やかにスキップを始めたところへ、シオンは大真面目にアドバイスしたのだ。彼女は露骨にむくれて兄を見上げずにはいられなかった。

「いや、まあ、今時は人工血液があるからね。古典に忠実でなくてもいいかもしれない」

「それにしても、信じられないわ。首相が暗殺されたなんて」

 メイサは立ち止まって、改めて街を見回した。美しいまやかしのようなイルミネーションに照らされて、もう真夜中だが、カップルと思しき人々が行き交う。

 彼らの笑顔は甘やかだし、そもそも、警備が強化されたり外出が制限されたりといった、有事の物々しさが感じられないのだ。

「確かに僕たちは暗殺に成功した。けれど、まだ公表されていないんだ。奴を殺した途端に擬態が解けて、父上の姿に戻ってしまったものだからね。それらしい遺体を偽造するのに手間取っているみたいだ」

 事もなげにシオンは言った、「父上」と。

 実は、近年生死不明とされていたシオンやメイサの父親は、隠居した富豪の老人を殺害して成り代わり、悠々自適であったらしい。

 公安によって最強の吸血鬼と認定されたシオンですら、人間の新鮮な血液や体液を入手したところで、相手に憑依するのが精一杯だ。ところが彼らの父親は、吸血により獲得した遺伝情報を元に、相手に成り代われるほどそっくりな姿形に擬態できたのだ。

 シオンから見ても、戦闘能力ばかりか様々な能力が桁違いの吸血鬼だった。遥かな昔、月の暴君だった当時の血が騒いだのか、一国の首相を殺害して成り代わるなんて暴挙に彼が及んだからこそ、シオンと人間たちが結託して、暗殺プロジェクトを実行することが可能となったのだ。

 メイサにとっては、顔も知らぬ生物学的な父親に過ぎない。

 しかし、シオンにとっては、遠い昔、彼の実母を惨殺した仇でもあったのだという。


「メイサ、暫くはのんびり暮らすのもいいね。必要な人脈は僕が開拓しよう。なあに、僕のベッドテクニックをもってすれば……」

 メイサは、またもやむくれて、兄を見上げた。

 シオンは、不思議そうに妹を見下ろした。

「ねえ、なんなの、その甘咬み。すごく可愛らしいんだけど」

 メイサは、すっかりむくれたままで、兄の長く美しい指先をガジガジと咬んだのだった。

「……パンケーキが食べたい」

 メイサには、兄に言ってやりたいことが山ほどあった。しかし、まずはそのうち一つだけを口にしたのである。

「そうだね。それが無ければ始まらないね」

 シオンは、妹の肩を抱いた。そして、一人と半分の吸血鬼たちは、人間の街へと溶けていった。

 

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月の捨て子 如月姫蝶 @k-kiss

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