机上のラブレター

雪菜冷

机上のラブレター

 時刻は七時五〇分。これは転校先の小学校の登校開始時間だ。本当はもっと早く行きたいのだが、これより前は鍵が開いていないのだから仕方がない。門が開くや否や、弓弦は駆け足で教室へと向かった。大抵の級友は八時過ぎに教室へ来る。つまり彼の持ち時間は十分ほど。急がなければならない。

 勢いよく扉を開けた先、入り口に程近い前列に彼の席はある。遠目から見ても一目瞭然。何故なら、毎日びっしりと落書きをされているからだ。弓弦は小さくため息をつくと、速やかにランドセルを下ろして雑巾を取りにいく。机の中央部分から消しにかかった。流石に油性ペンで書くほど考えなしではないようで、ちゃんと水で擦れば落ちる。鉛筆の場合は小さな消しゴムで擦るので大変だが、幸い今日はほぼ水性ペンだった。

 終わりかけたところで、数人の女子生徒が登校する。彼女達は弓弦の姿を見るとクスクスと忍び笑いを立てた。一箇所に集まって、離れた場所からじっと見てくる。彼は居心地悪く手をモジモジさせた。


「キモ」


 誰か一人の言葉に、甲高い笑い声が湧き起こる。キリキリと胃が痛んだ。落書きの犯人が誰かは分かっている。しかし現場をおさえたわけでもない上、担任に言えば事が大きくなるだけだ。皆の前で代々的に話し合いなど行われれば見せ物もいいところだし、何より母親に連絡がいくかもしれない。女手一つで自分を育ててくれる彼女を心配させるのは嫌だ。結局、事勿れ主義に陥るしかなかった。



 ある日、いつものように机を拭こうと雑巾を掲げた時、おかしなことに気付いた。落書きの一部に丸がついている。


『ま』『け』『る』『な』


(負けるな?)


 この四文字だとそう読める。弓弦は顎に手を当てて考えた。一体誰がこんなことをしたのか。少なくとも落書き犯ではないだろう。適当に丸をつけたにしては意味のある言葉だ。


「見てよ。今日はあんなに残ってる」

「ぼーっとしちゃって。ショック受けてるとか?」

「ウケる」


 いつの間にか女子達が入ってきて騒ぎ始めていた。ハッと時計を確認すれば、既に八時一分前。ぽつぽつと他の級友も姿を現し始めている。慌てて高速で手を動かす。なぜだかこの日はいつもより人の視線や言葉が気に掛からなかった。



 次の日も、落書きに幾つかの印がついていた。そのまた次の日も。


『お』『う』『え』『ん』

『が』『ん』『ば』『れ』


 ここまでくれば、ただの偶然ではないだろう。誰かが、おそらく同一人物が、弓弦にメッセージを残している。弓弦は考えた。本当に誰なのだろうか。この学校にやってきてはや三ヶ月。嫌がらせが始まってからはおよそ二ヶ月半。


『立川ってさ、女子より顔かわいいよな』


 ある男子の無頓着な発言により全ては始まった。あの時の一部の女子達のじっとりとした視線は、未だ忘れていない。クラスのボスとして君臨する生徒に、物申す者はいない。結局転校して早々にクラスからはじかれてしまった。だから、このメッセージを残す人物にも全く心当たりがない。


(この人とお話してみたいな)


 弓弦は首を捻った。一番確実なのはこの机にメッセージを残すことだろう。しかしそれだと落書き犯にも見られるし、最悪消される可能性もある。何気なく視線を前方にやれば、ちょうど点字について話しているところだった。深い緑色の黒板に、白く塗りつぶされた丸が並ぶ。


(そうだ!)


 弓弦は急に背筋を伸ばしてプリントを凝視した。小さな丸がいくつか並んでいるくらいなら、目立たないのではないだろうか。勿論、伝わって欲しい相手にも届かないかもしれない。それでも、今日習って、今日書くのなら──。弓弦は机の左隅に鉛筆の芯をあて、震える手で丁寧に点を書き込んでいった。



 ドク、ドク、ドク。教室に着く前から心臓がやかましい。まだ夏でもないのに掌が汗ばんでいる。昨日の点字は気付いてもらえただろうか。その結果が今、目前に迫っている。扉の前で一つ深呼吸。意を決して勢いよく戸を引いた。相変わらず本来の木目模様が見えづらくなるほどの落書き。一歩、二歩と、ゆっくり机に近づいていく。遂に真前まで来ると、弓弦はすぐに『それ』を見つけた。


『点字使いこなしてる。すごいね』


 初めての直筆メッセージだった。ドキドキドキ。先程以上の大きさで心臓が脈打っている。顔は紅潮して、熱でも出ているのかと思うほど体が熱い。


(きれいな字)


 それが最初に出た感想だった。机の上に残された短い一文を、何度も何度も読み返す。言葉使いから、何となく女子かなと思った。級友の顔をひとり一人思い浮かべていく内に、彼はまたも時計を見ることを忘れていた。

 再び勢いよく開いた扉の音で、弓弦はハッと顔を上げた。すべきことを思い出し、慌てて雑巾を取りに行く。入り口付近でボス達とすれ違う際、くすくすと忍び笑いが聞こえたが、それは弓弦の心まで達することはなかった。蛇口を捻り、慣れた手つきで雑巾を絞る。弓弦の顔は微笑んでいた。今日はどんな言葉を残そうか。ワクワクした面持ちで一心不乱に机を擦る。女子達は怪訝な顔で彼を見つめていたが、その視線にも彼は気付かなかった。



 その日から、彼らのやり取りは少しずつ進んだ。


『算数好き』

『私は苦手』

『国語は?』

『好き。字を書くのが好きだから』


 たわいのない内容。だからこそ、弓弦にはキラキラと輝くような体験であった。誰もいない教室で、一人『あの子』の言葉を読む自分。他人には秘密であるというその高揚感。弓弦はすっかり夢中になった。学校へ向かう足取りは今までとは違った意味で急足になり、以前より朝日が眩しく感じられる。日中は返事を考える間に飛ぶように過ぎ、書き終わって帰宅する時にはスキップどころか小躍りしたい気分であった。


(『あの子』ともっと仲良くなりたい)


 弓弦の気持ちは日増しに大きくなった。机上でのやり取り以外にも、何か彼女と接する方法はないだろうか。弓弦は考えた。考えて考すぎて、十二時の鐘までなってしまった。


(やっぱり直接声をかけることかな)


 彼は至極当然の結論に達した。しかし、彼は未だに『あの子』が女子だということしか知らない。だから弓弦はさらに考えた。どの子かわからないなら、全員に聞こえる声で伝えてみよう、と。


「おはよー!」


 翌朝、教室はかつてなく異様な空気に包まれた。時刻は八時十五分、もうほとんどの生徒が登校完了している時間だ。部屋が沢山のおしゃべりに満たされる中、ポツリと佇む机。いつもなら他の生徒のものと同様にきれいな状態になっているのに、今日は汚れたままだ。弓弦の姿は見当たらない。遂に欠席か、と何人かが囁き始めた頃、扉の開閉音に負けない元気いっぱいの挨拶が響いたのだ。

 一斉におしゃべりが止まった。皆硬直して弓弦の方を見ている。彼は極上の笑みを浮かべていた。誰からの反応がないことなど大した問題ではないように、顔色一つ変えずにフックにランドセルをかける。じっと机を見る弓弦に、沢山の視線が突き刺さった。誰が見ても分かる、悪意ある落書きの数々。弓弦の次の行動を、皆固唾を飲んで見守っている。すると、再び弓弦の顔は綻んだ。軽やかな足取りで教室を出て、鼻歌でも歌いそうな様子で机を磨く。


「頭おかしいんじゃない?」


 ボスグループの女子達が吐き捨てるように呟き始めた。ひそひそと、次第に室内が音を取り戻していく。一人、雑巾を握りしめ机を黙々と拭く少年。その背中をそっと見つめる少女がいることに、弓弦はまだ気付いていなかった。



 弓弦は内心ドキドキしていた。昨日の朝、意を決して全員に声高らかに挨拶をしたが、きちんと『あの子』には届いただろうか。勿論その場では誰からの返事もなかったし、期待はしていなかった。望んでいるのは、今日これから。いつものように扉の前に立ち、大きく息を息を吸って深呼吸。

 ガラリ。

 扉は開けたが何も見えない。当然だ。弓弦は無意識に目を閉じていたから。それに気付いてゆっくりと目を開けると、目の前には沢山の視線。大多数のこちらの様子を伺うような顔色に、今朝はまだ挨拶をしていないことに気付いた。これはいけない。三日坊主どころか一日坊主になってしまう。


「おはよう!」


 ニコリと爽やかに笑えば、やはり静まり返る室内。どうでもいい。弓弦はすばやく机に視線を走らせた。いつもと同じ、左上部に美しい筆跡。


『おはよう。ステキなあいさつだったね』


「やったぁ!」


 弓弦は思わず両手を天井に突き上げた。級友の怪訝な顔つきはますます深まるばかりだ。しかしそれも弓弦の目には入らない。ただ、耳はしっかりその音を捉えていた。


 ──プッ。


 弓弦は思わず真顔に戻って教室を見渡した。宇宙人でも見るような表情に、蔑むような表情……特に笑っている人物はいない。だが、確実に先ほど誰か噴き出した。それも、嘲笑するような嫌な感じではなく、面白くて思わず……といった雰囲気。弓弦は確信した。絶対に、今笑った誰かが『あの子』であると。弓弦は頬をりんごのように赤くさせながら目をキラキラとさせた。予鈴の音で慌てて雑巾を取りに行く。その後ろ姿を、何人かの級友が目で追っているなんて思いもせずに。



 その後も弓弦のクラス全員おはよう作戦は続いた。意中の人に届いていると分かったのだ。例え周囲には珍獣を見るような目をされようとも、彼のやる気には何の影響もない。

 でも違った。それは違ったのだ。あの日、弓弦は思い知った。

 それは挨拶をし続けて二週間が経った頃だった。いつものように、登校時間ぎりぎりに扉を開け「おはよう!」と弾むような笑顔をむける。


 ──ガタッ!


 この日に視線を集めたのは、クラスで一番の秀才と言われる小西だった。あまりに勢いよく立ちすぎて、椅子がひっくり返っている。弓弦までもが、息をするのも忘れて彼を見つめる。

 机と睨めっこしていた小西はようやく顔を上げた。真っ直ぐに、決意に満ちた眼差しで、はっきりとその言葉を述べる。


「おはよう」


 開いた窓から勢いよく風が吹き込み、カーテンと弓弦の髪を巻き上げた。顔全体に、朝日が降り注ぐ。少食で貧血気味の白い肌があたたかみを帯び、目の外膜に宿る水気がきらりと光った。

 一瞬、言葉に詰まった。ハッハッ……と短い呼吸が繰り返され、舌が乾く。一度口をきちんと閉じて口内を湿らせると、震える唇がようやく『お』の形に整えられ、声が後からついてきた。


「おはよう……」


 とても小さく弱々しい声だった。それでも、誰かと久しぶりに目と目を合わせて行った挨拶は、きちんと相手に届いたようだ。小西はゆっくりと椅子を起こし、少し顔を赤らめながら席に着いた。教室内は依然として静まり返っている。自身の鼓動だけが、やけに大きく感じられた。



 それからの変化は早かった。小西は変わらず挨拶を返してくれるし、次第に一人、もう一人と返事をしてくれる人が増えていく。挨拶が楽しい。弓弦はますます元気よく『おはよう』を言うようになった。

 いつの間にか移動教室がある時は一緒に行こうと誘われるようになり、体育でペアになって準備運動をする時も一人余らなくなった。休み時間になれば、近くの席の人とゲームや漫画の話をしている。接してみれば、皆いい人達だ。笑顔で過ごす時間が増え、『あの子』とのやり取り以外にも楽しみができた。

 ただ、そんな弓弦の様子をボス達は快く思わないらしい。相変わらず、机の落書きは続いていた。

 そして遂に、弓弦はその日を迎えた。今朝は母親の具合が悪く、普段より多く家事をしたためいつも以上にぎりぎりになった。息を切らせて教室まで辿り着き、扉の取っ手に手をかける。


「もうやめろよ」


 小西の声だった。手に込めかけた力が行き場をなくし、体全体が石になったように硬直する。耳だけがいつも以上に研ぎ澄まされ、中の会話をひとつ一つ拾い上げようとしていた。


「何指図してんだよ。お前にカンケーねーし」

「あるよ」


 例の女子グループのリーダーの声。小西が何について言及しているのか自ずと分かる。瞬きを忘れ、呼吸は止まり、全神経が聴覚に集中する。頭皮から滲み出ていた汗が頬を伝い、ぽたりと床に落ちた。


「友達だから」


 小さく吸い込んだ息は、しばし吐き出されずに口内へ止まった。目が一杯に見開かれ、次第に視界が滲む。次に床に落ちたのは、汗ではなく涙だった。ポタ、ポタ……と白い床に水滴が弾ける。弓弦はしばらくその場から動けなかった。なんとか涙を拭い、本鈴で担任と共に教室に入った時には、彼の机はきれいに磨かれ何も残っていなかった。ボス達の落書きも、『あの子』からのメッセージも。全てが、唐突に終わりを迎えたのだ。


 あれから、弓弦は一度も机に何か書かれているのを見たことはない。ボスグループは少しばかり鳴りを潜め、弓弦は何人かの友達ができた。楽しい学校生活。ただ時折、頭の中を『あの子』の文字がかすめていく。今、彼女は何を思っているだろうか。弓弦がいじめから解放されて、喜んでいるだろうか。分からない。もう一度、彼女と言葉を交わしたい。他ならぬ、あの美しい文字を通じて。弓弦はため息をついた。


「それじゃあこの問題を……」


 担任が室内を見渡したのを察して、慌てて下を向く。考え事をしていたから、ろくに話を聞いていなかった。


「神無月さん」

「はい」


 安堵のため息をつくと同時に、控えめな返事が後方から聞こえた。神無月桜は静かに立ち上がると、ゆっくりと黒板までやってきて、指定された問題を解いていく。緊張感から解き放たれ、弓弦は顔を上げた。肩より少し短めに揃えられた髪に、膝より少し上までくるワンピース。物静かで大人しい級友だが、どこか華を感じさせる子だった。小西曰く、実は男子に人気があるらしい。カッ、カッ、カッ……。彼女の板書は進む。不意に弓弦は気付いた。美しくバランスの取れた文字。まるで書写のお手本のような筆跡。これは間違いなく『あの子』の──。弓弦の心の中で、歯車が回り出す。止まっていた時間を取り戻すように、力強く、速度を上げて。



 夕焼けに染まる教室で、一人の少女が佇んでいる。とある生徒の机を、優しく撫でながら。彼女は指で何かを書く仕草をした。少し前まで、実際に鉛筆で書いていたように。


『げ』『ん』『き』『で』『す』『か』


 彼女は一つため息をつくと、手のひらで机を何度か擦った。まるで今書いた透明のメッセージを消すように。


 ──ガラリ。


 教室後方の扉が開いた。彼女は振り返る。そこには、机の持ち主である『彼』が立っている。緊張した面持ちで、唇を真一文字に結んでいる。

彼は一つ大きな深呼吸をすると、意を決して口を開いた。


「神無月さん」


 少々声が裏返っている。彼は一冊のノートを両手で持ち上げて見せた。


「よかったら、このノートで僕とお話ししませんか?」


 暮れる太陽に染まる二人。彼女は夕日よりほんの少し頬を赤らめながら、こくりと頷いた。

 この恋はまだ、始まったばかり──。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

机上のラブレター 雪菜冷 @setuna_rei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ