共食い

 金井はひとえに焦っていた。バーテンダーの背中を視覚に捉えていても、まるで追い付く気配がないからだ。


(どうする? 二手に分かれて深追いするより、確実に一人を捕らえたほうが良かったんじゃないのか)


 あの場で思慮深くいれば事を仕損じる可能性があったものの、適当な選択を選ぶことは至難の業だ。差別の難しい汗の滴りが、焦燥感を募らせる。


 大小の異なる民家の屋根を次から次へと伝って走る中、背中が次第に小さくなっていくのを看過できなかった。金井は、悔恨を奥へ仕舞い込むように、息を大きく吸った。そして、口惜しさすら感じさせない踵の返し方で来た道を戻っていく。


 熱が差した車のボンネットに横たわる猫や、街灯に寄り掛かって今にも吐瀉物を吐き出しそうなサラリーマン、自転車の前照灯も点けず道路を駆け抜ける子どもの影法師を眼下に、建設途中の商業施設まで甲斐甲斐しく戻った。


「どういうことだ……この状況」


 眼前の光景を上手く咀嚼できず、何度も瞬きを繰り返す手立てのなさは、アルファ隊に属するが故の油断か。酸素を取り込もうと必死に上下する肩の様子から、藍原と山岸が幾度となく取っ組み合った背景を容易に想像できた。


「山岸」


 金井の呼び掛けにできた、ほんの僅かな隙だ。視線が横に逸れた瞬間を藍原は見逃さなかった。


「?!」


 逃げるという行動に没我した人間の本能は凄まじい。捕まえようとする側の気持ちなど度外視した疾走に手を伸ばしたところで、掴むのは空である。山岸は、藍原を追いかける体力が残されていないことを悟り、金井へ恨みがましい視線を向ける。


「金井、追え!」


 だが、山岸の訴えに金井は全く応じる気配がない。こめかみに青筋が走り、金井の胸ぐらに掴み掛からんとする山岸の歩行は、ある一つの提案により窘められた。


「今晩の収穫はこれでいい」


 金井は、肉塊となって動かなくなった神田を指差して、確実な手柄とする。


「イロウを呼ぶぞ」


 慣例なのだろう。淀みない手順により、イロウと呼ばれる者が召喚された。身体的特徴をなるべく隠す意図からか、フードを目深に被るイロウの姿に、男女の差異から年齢、大まかな情報を得るにも声色と言葉遣いでしか判断はつかない。ただ、男であることは直ぐにわかった。


「あーあ、下手くそな奴」


 全長三メートルは有にある神田を見上げながら見下ろす。本来なら相反し交わることがない事象をイロウの蔑視でもってそれを成立させる。そして、樹木の幹と大差がない神田の足元に立ち、顎をさすって値踏みの体裁を見せた。


「さすがに大きすぎるか?」


 イロウの態度を悩ましげだと受け取った金井による心配だったが、言下に杞憂に終わる。


「過ぎるも何も、九州で何匹食ってきたと思う?」


 全くもって愚問であったことを金井は納得した。

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