ある男のはなし

藤枝伊織

第1話


「彼女はね、狭いところが好きなんだ。そりゃもう。僕の家に来てもいつも落ち着かなさそうにおどおどししてしまうんだ。だから僕は彼女の家に行くことが多い。そう、多かった。彼女の家は、ほらすぐそこなんだ。見えるだろう。そこの駅。そうそこの駅だよ。そこのロッカールームがあるだろう。その中の特大の場所に彼女は住んでいたんだ。いや、嘘じゃないさ。そういう娘なんだよ。体を屈めてね、そう、ちょうどこんな具合にいつも入っているんだよ。時々ご飯のために彼女はそこを出るけど、用がなければずうっとロッカーの中にいるよ。そういう娘だよ。僕はね、彼女とロッカーに入るのが好きなんだ。世界で一番、誰よりも近くに彼女がいるんだよ。彼女と狭いロッカーの中で愛し合うんだ。車の中でセックスをするよりも燃えるさ。ロッカーの外には駅を利用する一般の人たちがいるんだ。それなのに僕たちは狭いロッカーの中でファックしているんだ。最高にクレイジーだろ。酸素が薄くなって、僕たちはトリップするんだ。トリップの経験はあるかい? すべてが虹色に見えるんだ。そのうえ、そこら中に蝶が飛んでいるんだぜ。モルフォ蝶だ。美しいんだ。はは。僕は幸せだ。彼女の中に入ると彼女は小さく悲鳴を上げるんだ。恥ずかし気に口を押えて。ロッカーは狭いからね。僕はいつも後ろから彼女を抱きしめるんだよ。彼女は終わった後ぐったりと僕に身をゆだねるんだ。彼女は体力がないんだ。溶けたように体中の力を失った彼女ともう一度やるんだ。そうやって彼女をさんざん抱いた後、外に人がいないことを確認して僕はロッカーから出て服を着るんだよ。さすがにロッカーの中で服を脱ぐのは難しいからね。一度やろうとしたけれど、肘がぶつかってしまってね。服を脱いでからロッカーに入るようにしたんだ。だから終わった後は、ぼうっとした頭で周囲を確認しなくちゃいけない。大変なんだ。まあ、服は隣のロッカーに入れているんだ。小さいやつだよ。僕は彼女が生きていることだけを確認だけして、挨拶も特にせずに帰るんだ。彼女はそういうのが好きなんだ。大切にされすぎると自分がわからなくなるって言うんだ。かわいそうだよな。そう、かわいそうなんだ。でもね、彼女の望みがそうだから僕はそれを叶えるしかないんだ。僕なりに彼女を大切にしている証拠さ。かわいそうだよな。彼女は、かわいそうなんだよ。彼女はね、彼女は……、その後ロッカーから出ようとして、挟まってしまったんだ。トリップしたまま帰ってこられなかったんだね。ロッカーに閉じ込められたというだけなら僕が助けてあげられた。でも彼女は挟まってしまったんだ。彼女は半分しか服を着ていない状態で、まあ脱がせたのは僕だけど、彼女は挟まってしまった。彼女のロッカーは駅にあるんだ。彼女は駅員に見つかってしまって、連れていかれた。僕の電話はひっきりなしに鳴り続けているさ。ほら、今も鳴っているだろう。でもこれに出ることはできないよ。彼女は少し突き放した方が好きだからね。電話に出てあげたい。でも、できないよ。会いに行ければいいけどね。彼女に僕から連絡しても出ないんだ。彼女の居場所を僕は知らない。僕の家には知らない男が毎日のように訪ねてくる。知らない男はうちのドアを破壊しようとしてね。さすがに身の危険を感じたよ。僕も彼女のようにロッカーに住もうとしたけれど、それも難しかった。僕には向いていなんだね。お金がそろそろ無くなってきちゃってどうしようかな。昨日までは離れたところにちょっと行っていたんだけど、彼女に会いたくて今日になって帰ってきたところなんだ僕。今日こそ彼女を探し当てられるかな。会えるかな。またあのモルフォ蝶が見たいよ。彼女がいたロッカーを見ただけでもあの時を思い出せるよ。彼女はどうしているんだろうね。今頃僕が恋しくて泣いてるんじゃないかな。喉の奥で声をかみ殺して、口を押えながら、僕から顔をそむけるようにして泣くんだ。健気だよ。僕に悟られまいとしているんだ。はは。僕を恋しがっている。ほらまた電話が鳴るよ。彼女だね。僕にはわかるよ。彼女さ。きっと泣きながら僕を呼ぶんだ。いや、名前は知らないけどね。僕は名前を呼ばれるのが好きじゃないから。彼女の名前も僕は呼ばない。僕は全部知ってるけどね。彼女を僕は愛しているから、全部知ってないとね。じゃなきゃ僕は彼女にロッカーの家を用意しないよ。彼女は小さいころからクローゼットに隠れることがよくあったそうだよ。近所の人が言ってたのかな。情報をどこで仕入れたっけな。とにかく彼女は自分のことは言ってくれなかったからさ。まあ、わかるさ。僕もよく大切なものは薄暗いところに隠したものさ。それとおんなじだろ。僕は彼女を宝箱に入れるんだ」


 そして男は一息にそう言ったあと、俺のスコッチを煽り、店を出ていった。男が出て行ったあと、店はやけに静かになった。

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ある男のはなし 藤枝伊織 @fujieda106

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