第3話・熟年離婚

「うちのお隣さん、ついに奥さんが出てったらしいのよ」


 フルーツコーナーに並べるパイナップルを切り分けながら、パート主婦の花井香苗が嬉々として話し始める。バックヤードにある厨房で作業台を向かい合って、それぞれが担当する青果のカット作業をしていた。幸恵の他の二人も勤めて三年以上のベテランパートだ。慣れた手付きで手際よく食材をカットし、値札シールを順に貼り付けていく。


「あら、それって前にも言ってたお宅? しょっちゅう喧嘩してるって言ってた――」

「そう、その家。旦那さんが昼間っから飲んだくれててさ、毎日怒鳴り合いだったのよ。お仕事されてる時はそうでも無かったんだけどねぇ」


 幸恵の隣でカボチャの四分の一カットをパックしていた山本智子が、若干前のめり状態で続きを促す。ワイドショー顔負けの話題に、目を輝かせて食いついていた。よっぽど興味がそそられたのか、完全に作業の手は止まってしまっている。


「熟年離婚ってやつよね、今流行りの。仕事を辞めた後はもう介護しか残ってないもんねぇ。子供もいなかったし、さっさと見切って出て行った奥さんは賢いと思うわ」

「持ち家だから、これから裁判とかいろいろ大変そうよね、財産分与とかあるじゃない?」

「でも、貰えるものは貰っておかないとねー」

「そうよね。苦労させられた分、しっかりいただかないと」


 幸恵を含めた三人が深く頷き合っていると、売り場から空のワゴンを押した学生バイトの田中亮太が厨房へと戻ってくる。パックし終えたばかりの追加商品をワゴンに積みながら、田中は苦笑しつつ言った。


「花井さんの声、外まで丸聞こえっすよ……」

「あらぁ、ごめんなさいねぇ」

「鮮魚の人達、完全にドン引きっすよ」

「やだー、恥ずかしいわぁ」



 週に三日だったパートを四日に増やした。たった一日のことなのに身体に疲れが溜まっていくのを感じる。否、この疲れは仕事のせいなんかじゃない。安らげる場所を奪われてしまったせいだ。


 ――このまま真っ直ぐ帰っても、ねぇ……。


 勤務後、職場でもあるスーパーで買い物カートを押しながら、幸恵は溜息をついた。冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、目に付く食材をカゴに放り込んでいく。


 ――牛乳がちょっとしか残って無かったかしら? あ、アイスコーヒーは余分に買っておいた方がいいわね。


 ペットボトルに入った無糖コーヒーを二本手に取ると、まとめてカゴに入れる。幸恵自身はインスタントで作るカフェオレ派だが、夫はブラック派でアイスの方を好んで飲む。家に居る時間が長くなった分、和彦用のコーヒー消費量が格段に増えた。


 居間にある座椅子に凭れかかって新聞やテレビを見ていたり、二階の書斎に何時間も籠っていたり、退職後の夫の過ごし方はこれまでの休日と大差ない。今までだって週に二日はそうしていたはずなのに、この生活が延々と続くかと思うと煩わしさを覚えずにいられない。


 夫が家にいるだけで、落ち着かない。同じ空間にいるのに、何も話すことがないのが苦痛でしかない。かと言って、無理矢理に話題を振っても「あぁ」の一言しか返ってこないのは目に見えていた。だから、幸恵の方からも必要以上に話し掛けることも減っていた。


 還暦を過ぎてしまった和彦とは違って、幸恵はまだ四十代だ。残りの長い人生をこんな面白みのないまま過ごすのかと思うとウンザリする。


「ハァ……」


 溜息が止まらない。かと言って、一歩を踏み出す勇気はなかった。



「ただいま」

「……あぁ、おかえり」


 荷物が多いからと裏口から帰って来た妻に、和彦は少しばかり驚いている様子だった。台所の戸棚を開いていたところを見ると、小腹が空いてお菓子でも探していたのだろう。ダイニングテーブルの上にはグラスに注がれたアイスコーヒーが用意されている。


 シンク横に置いてあるカゴの中に、洗い終えた弁当箱が並べてあるのが幸恵の視界に入る。昼食を食べた後、夫はきちんと自分で洗っておいてくれていた。仕事をしている時も、たまに弁当を作ってあげれば、職場の給湯室でさっと洗ってから持って帰って来てくれる、そんな人だった。


 ――不満に思うのは、贅沢なことなのかしら……。


 退屈だから、詰まらないから。そんな理由で夫と別れることを夢見ている自分に、世間は呆れてしまうだろう。娘達だって、納得してくれはしないだろう。

 けれど、今の状態は生殺しでしかない。何の楽しみもなく、ただ生きているだけ。別に夫のことを嫌いになった訳でもないのが、逆に辛い。


 まだ夫が戸棚を物色している横で、買って来た物をエコバッグから出して冷蔵庫へと収納していく。あいにく今日は、彼が好きそうな菓子類は何も買ってきていなかった。

 夫婦で何の会話も無いまま、予備のホイルを引き出しに片付けている時、裏口のドアの向こうから聞き慣れた声が聞こえて来た。


「ナァー」


 甘えたような愛らしい鳴き声に、幸恵は急いで勝手口のドアを開きに走る。お天気の良い日にしか現れない三毛猫が、久しぶりに遊びに来てくれたのだ。


「ミーコ、いらっしゃい!」

「ナァー」


 三毛猫は長く白い尻尾をぴんと伸ばして、幸恵の足に擦り寄りながら家の中へと入り込む。

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