第2話・定年退職

「いってらっしゃい」

「……あぁ」


 朝食の後片付けしながら、肩越しに見送りの言葉を放つ。玄関先まで甲斐甲斐しく出て笑顔で手を振ってあげるなんて、新婚の一時だけ。主婦の朝はやることが多くて忙しいのだ。

 洗面所からは洗濯機の終了音が聞こえてくる。火にかけていたヤカンも蒸気が上がってピーピーと煩く鳴っている。あっちもこっちもと一人でバタバタしながら、幸恵は毎朝のルーティーンをこなしていく。


 途中で、今日は夫にとって最後の出勤日だったと気付き、少しばかり罪悪感が沸き上がる。長いサラリーマン生活の最後くらい、労いの言葉をかけてあげても良かったのかも、と。


 台所仕事が済み、洗濯物も干し終われば、掃除道具を抱えて二階へと上がっていく。昨年まで娘が使っていた小部屋のドアを開きながら、思わず溜息が漏れ出た。


 昨晩、急に夫が言い出した。


「定年後は、美久の部屋を俺の書斎にしようと思うんだが――」


 空いている部屋の有効活用といえば聞こえはいい。要は日中に夫婦が顔を合わせなくて済むよう、夫は自分が籠る場所が欲しいのだ。そして、その準備を妻へと遠巻きに押し付けてくる。


「まあ、机と本棚は置いてってるから、そのまま使えばいいんじゃないの?」


 反対する理由は無いし、こちらにとっても都合はいい。喋らない人と一日中同じ空間にいるのは耐えがたいものがある。同じ家に居ても顔を合わせなくて済むのなら、ストレスは少ない。


 ずっと締め切っていた窓を開くと、部屋中に溜まっていた埃が舞い上がった。娘が子供の頃から使っていた5畳の部屋には机と棚、シングルサイズのベッド。クローゼットの中には不要品が入れられた段ボールが2箱積まれている。

 以前はごちゃごちゃした狭い部屋だと思っていたのに、娘が出た今はなんて寂しい空間になったのだろう。今更ながら、子供達の巣立ちを感じ、虚しさを覚える。


「掃除くらい、自分ですればいいのに。どうせ暇になるんだから……」


 空っぽの机と棚を雑巾で拭きながら、ぽつりと呟く。最近は夫の言動全てが腹立たしく、イライラするようになった。自分よりも一回り先に年老いていく夫を他所の若々しい旦那さんと比べては、引け目を感じることもある。


 ――パートの日、増やしてもらおうかしら……。


 別に金銭的な問題ではない。堅実な夫のおかげで定年後も生活していけるくらいの蓄えはちゃんと用意できている。ただ、ずっと二人きりなのを耐えきれる自信がなかった。会話が無いのに一緒にいなければいけない、それは地獄でしかない。


 ――若い頃は、もう少しマシだったと思うんだけど。


 歳を追うごとに寡黙になっていった夫。それでも子供達が小さかった頃はそれなりに会話が続いていたはずだ。子供の成長と共に夫婦の会話が減っていったが、代わりに娘達が話し相手になってくれていた。それが今は……。


「ハァ。今日はミーコ、来ないのかしら」


 二階の窓から外を覗き見る。空はどんよりと曇り、パラパラと小雨が降り出していた。幸恵は干したばかりの洗濯物を思い出し、慌ててベランダへと向かう。こんな天気の日に、三毛猫が遊びに来てくれることはほとんどない。



「来週からパートの日を一日増やしてもらうことにしたわ」

「……そうか」


 無事に最後の勤務を終えて帰ってきた夫は、少しアルコールの匂いを漂わせていた。同僚と飲み歩くような人ではないから、立ち飲み屋かどこかで一人酒でも楽しんで来たのだろうか。本屋の店名が印刷された大きな紙袋を抱えていたところを見ると、しばらくはゆっくりと本を読んで過ごすつもりでいるのだろう。


 リビングへ2リットルの水をペットボトルごと持ち込んで、無言のままテレビを眺めている夫。座椅子の背凭れ越しに見える髪は、もうすっかり白色の方が多くなっている。

 妻の話には興味なさげに短い返事を返しただけで、詳しい理由すら聞こうともしない。自由にさせて貰ってると言えば聞こえはいいが、無関心という方がしっくりくる。別に束縛されたい訳じゃないが、構われなさ過ぎるのも切ない。


 暴力を振るう訳でもないし、金遣いが荒い訳でもない。酒は嗜む程度だし、煙草もキャンブルもしない。家のことだって、幸恵が体調の悪い時には代わりにやってくれることもある。大きな欠点は何も思いつかない夫だった。


 けれど、この人とずっと一緒に居られるかというと、そうでもなかった。退屈で面白みが無いのは、残りの人生を共に過ごす相手としては大きなマイナスポイントでしかない。


 熟年離婚。


 昼間の情報番組でよく聞く言葉が、幸恵の頭の中を反芻する。財産分与とパートの収入、それだけで生活が成り立つのかと考えたことがない訳じゃない。贅沢さえしなければ、何とかなりそうな感じではあった。


 前日の天気を引きずっているかのように、翌日もまたどんよりとした重い空が広がっていた。朝から真っ黒な雲に覆われて、吹き込んでくる風は湿り気を含んでいる。居間の片隅に室内用の物干しを広げると、幸恵は二人分の洗濯物を手際よく吊るしていく。


 アイスコーヒーを入れたグラスを手に、夫はテレビのスポーツニュースを眺めている。座卓の上には今朝の朝刊と読みかけらしき本も置かれているから、しばらくはリビングで過ごすつもりなのだろう。


「エアコンは除湿にしてあるので切らないでね。あと、冷蔵庫にお弁当が作ってあるので、お昼はそれを食べて下さい」

「……あぁ」

「それから――いいえ、何でもないわ、いってきます」


 今日から隠居生活となった和彦を置いて、幸恵はスーパーのパートへと向かう。青果コーナーの裏方で、野菜や果物のカットやパック詰めの仕事だ。普段から職場へはお弁当を持参していたのだが、今日は同じ物を二人分作ってきた。用意していなければ、自分で何か作って食べるだろうとは思うけれど、何事もついでだ。


 空は見るからに雨模様。こんな日に三毛猫が遊びに来ることはないだろうと、常連客のことはあえて伝えずに家を出ていく。

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