奇妙な旅人(2)

 獣たちが一斉に振り向いた。

 いつの間に現れたのだろうか。

 人馬の姿が一つ。悠然と馬を歩かせて街道を近づいてくる。馬の息が荒れているところを見ると、先ほどまで駆けていたのだろう。

――男の人?

 逃げ惑っていた少女、マリーの瞳には馬上の人物が若い男、いや、少年のように見えた。

 黒い髪は男性にしては長めだが、結ぶにはいささか短い。

 遠目にも、鼻筋の通った端正な顔立ちだということがわかる。

 聞こえてきた声も、声変わり前の少年の物のようにマリーには聞こえた。

 獣たちが低いうなり声をあげた。

 獲物をいたぶるのを楽しんでいた今までとは違う。敵対者に対して警戒する態度だ。

「よっ、と」

 掛け声をかけると、暗灰色の外套をなびかせながら"彼"は馬から飛び降りる。鹿毛の馬の首筋をなで、小声で何かを話しかけると、馬は人語を解するかのように来た道を引き返して離れていった。

「ワンちゃんたち、お仕置きが必要なようだね」

 そう言って腰のものを抜き放った。反りの浅い片刃の片手剣である。

 黒い獣は、完全に振り返ると"彼"ににじり寄った。

 ほかの二頭は、高い声で盛んに吠えているが、その尻尾は地を向いて垂れている。

――怖がってるんだ。この恐ろしい怪物が。

 はたして、こんな巨大な怪物を恐怖させる人間がいるものだろうか? マリーがそう思ったのも当然だろう。ましてやその人物は、マリーとそう歳が違わないのだ。

 黒い獣は、ゆっくりと"彼"との距離を詰める。

 一方の"彼"はといえば、剣の峰を肩に担いで悠々と近づいてきた。

 両者の距離が十歩を切ったとき、巨大な肉体には似合わない俊敏な動きで、黒い獣の体が跳躍した。

 弾丸のように一足飛びに距離を詰めて行く。

 "彼"の青い瞳がキラリと光ったのが陽光の下でもハッキリと分かった。獣の攻撃に合わて身を低く沈めたかと思えば、鳥が羽ばたくかのように飛翔した。

 剣光一閃。

 飛び上がりざまに白刃がキラリとひらめくのが見えるや否や、獣の首から血が噴水のように噴き出し、ドッと倒れこんだ。

 宙に飛び上がった"彼"は、ふわりと重力を感じさせずに着地する。風を受けて広がった外套がはためき、翼を広げて鳥が降り立ったかの様に見えた。

「それが伏せ、だ。覚えたかい?」

 "彼"は刃を振って血を払うと、少し離れたところで唸り声をあげている二頭の獣の間を無造作に通り抜けてマリーに近づく。

「さて、お嬢さん。そんなところにへたり込んでるとお尻が風邪をひくよ」

 差し伸べられた左手に、銀の腕輪が揺れているのが見えた。

 マリーは泥だらけの左手を服の裾で拭った。服も汚れてしまっているので気休めではあったが、"彼"が差し伸べた真っ白い手を、汚れたままの手で取るのは躊躇われた。

 少しは奇麗になった手をおそるおそる伸ばして白い手を取った瞬間に、マリーは全身に電流が流れたように感じた。

――この人、昔、どこかで……? いや、会ったことのあるはずがない。

 そう思案しながら、差し伸べられた手に助けられてマリーはゆっくりと立ち上がった。

「あ、あの、あなたは一体……」

「サキ様ー! 一人で先に行かれては困りまするー!」

 マリーの質問は、かなたから聞こえてきた胴間声にかき消された。

 口ひげを生やした初老の鎧姿の男が、具足をガチャガチャと鳴らしながら街道を駆けてくるのが見えた。

 サキと呼ばれたマリーの目の前の人物が、防具らしきものは外套の下に胸甲だけを身に着けているのに対して、駆け寄ってくる男は重装備だ。白髪頭に兜こそ被っていないが、首から下は踵まで銀光りする鎧で身を覆っている。

 腰に下げた剣も目を引くが、それ以上にその右腕が異様だった。

 肩から指先までが異常に大きい。

 通常の腕の四,五倍ほどは太さがあり、長さは指先が地に着くほどもある。

 男はその腕を振りながら走ってくる。通常であれば体の重心がずれて歩くことすら儘ならないだろうが、器用に均衡を保っていた。

「ドグ、片方任せる」

 サキは顎で斑の獣を指し示すが、ようやく追いついた初老の男は立ち止まると首を振った。

「サキ様、両方それがしにお任せを」

 目配せをしながらそういうと、彼は声を一段と張り上げた。

「老いたりと言えどもこのリュードッグ、かような小物が一匹だろうが二匹だろうが、後れを取ることはありませぬ!」

 そういって、今度はカッカと哄笑する。

「そうか。まあ、腰をやらないように気をつけて」

「サキ様がそれがしの心配をしてくださるなんて、明日は雪ですかな」

 軽口を叩きながら、老人はその巨大な右腕を軽く前に差し出すと、腰を落として構えをとる。

「この季節に雪が降ってたまるか」

 サキはフンと鼻を鳴らして言った。

 それから、改めて思い出したようにサキはマリーの顔を覗き込んだ。

 黎明の東天のように深い色をたたえたサキの青い瞳に、マリーの灰色の瞳が映った。

 サキは繋がれたままだった左手を離すと、マリーの顔に向けて無造作にその白い左手を差し出してくる。

 マリーはその仕草に驚いて体を縮こませたが、はたしてその手は彼女の目元をそっと撫でた。指で涙を拭ってくれたらしい。

「泣いてたら、せっかくの美人が台無しだよ」

「あ……」

――ありがとう。

 その言葉が出せなくて、マリーの口から発せられたのは別の言葉だった。

「あ、あの……あの方は、だ、大丈夫でしょうか?」

 そう言って、マリーは初老の男を指し示した。

「大丈夫。あれは用心棒だよ。自分より弱い奴を用心棒に連れて歩いたりはしないでしょ?」

 サキはそう言って小さく笑った。二頭の獣と対峙する老兵を心配する素振りも見せない。その微笑みに、マリーは心のうちに安堵が広がるのを感じた。

「はっはっは、その通り! お嬢さん、心配ご無用ですぞ。このリュードッグ、十六年前のハーケンでの戦役では、並み居る山のごとき怪物どもの間に躍り込み、こう、千切っては投げ千切っては投げ……」

 構えを解いてマリー達の方を振り返り、何かと格闘する仕草をしながら熱弁し出す老兵。

 それを好機と見たのか、斑模様の獣が飛び掛かってくる。先ほどの黒い獣にも劣らない俊敏さだ。

 獣が繰り出した鋭い爪の一撃を、老人は背を向けたまま左足を送って体を滑らせると、事も無げに避ける。

「人が話をしている、途中じゃろうが!」

 振り返りながら右の裏拳を繰り出す。

 まだら模様の獣は額を剛腕にかち割られ、甲高い鳴き声を一つ上げると泡を吹いて倒れた。

「まったく、躾のなってないイヌコロですな」

 息を吐きつつ残身を解く。

 残った灰色の獣は完全に戦意を失ったらしい。

 甲高い声で威嚇するように鳴いたあと、文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。

「逃がすな!」

「承知」

 老兵は巨大な右腕に左手を添えると逃げる相手の背に向けて突き出す。

「馬鹿、止せ! そんなものあたりゃしない」

 リュードッグの独特の構えを見て慌てて止めようとするサキ。だが、老兵はソレをやめるつもりはないらしい。

「心配ご無用。今日こそ当たるとそれがしの勘が告げておりまする」

 サキは何か言いかけて諦めると、ただため息を一つついた。その沈黙を了解と解釈した老兵は、にやりと笑って大音声上げた。

「唸れ! 剛腕! 爆炎噴進拳んんん!!!!」

 彼がそう叫ぶと、右腕の肘のあたりが爆音とともに閃光を放ち、腕の先が火を噴きながら飛んでいく。

 右腕は次第に速度を増す。

 目指す先には逃げ去ろうとする獣の姿。

 ついにそれに追いつく。

 そして追い越した。

 どこか遠くへ去っていく右腕。

「ば、馬鹿な……それがしの切り札を避けるとは……」

 逃げる獣は一切その攻撃を避ける素振りを見せてはいない。

「ドグがその技を撃って当たったのを見たことないんだけど。あと、その変な名前も何とかならないの?」

 サキは右手の剣を器用に宙でくるりと回して逆手に握ると、左足を大きく踏み出した。

 全身を大きく使って槍投げの要領で剣を投擲する。

 打ち出された剣は、刃唸りをたてて飛んでいき、獣の後ろ足に深々と突き刺さった。

「お見事!」

 世辞を言いながら、老兵はバタバタと走り出す。右腕が軽いとかえって走りづらいらしい。足を引きずってよろめきながら逃げようとする獣を、同じようによろめきながら追いかけていく。

「あ、あの……あの方は、だ、大丈夫でしょうか?」

 話しかけるマリーに首を傾げながらサキは答えた。

「うーん、多分?」

 今度は少しは心配らしい。

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