第6話 白瀧3
先輩が借りていたというアパートは近隣の建物に比べて随分古めかしい佇まいだった。
目的地に着いた時、六十代ぐらいの女性が出迎えてくれた。女性は短髪に豹柄の服を着ており、僕の抱くイメージとかなりのギャップがある。大家さんってもっと、こう、優しそうな人じゃないのか?
「あんたが桜沢さんかい?」
「はい。オーナーの丸橋さんですね」
丸橋さんと呼ばれた女性は桜沢さんの足から上まで舐め回すように見た後、「あんたがねぇ」とか、「小娘に見えるけどねぇ」とか呟いた。桜沢さんは微動だにせず涼しい顔している。こういった対応は慣れているという様子だ。
それにしてもこの建物、一体築何年なんだろう? 壁には所々ヒビのような模様が着いており、明らかに補修した跡が着いている。ホラー映画に出てきそうな廊下だし、ここで一人暮らしすることを想像したらゾッとした。
「なんだい兄ちゃんキョロキョロして。このアパートがそんなに珍しいかい?」
突然、丸橋さんが僕の方を向いて話しかけてきた。
「す、すみません。ここだけ周りと比べてふ、空気感が違うなと思って……」
本音が出そうになり、咄嗟に表現を変える。
「古いって言うのかい? 失礼な奴だね。ウチが最初期からあるんだよ! 最近になってビルやらマンションやらばかすか建てやがって。おかげで部屋が埋まらなくて困ったもんだよ……」
言い回しを変えた意味は全くなかった。丸橋さんの腕が動き、反射的に目を閉じた。しかし、いくら待っても衝撃は来ず、恐る恐る目を開くと丸橋さんはタバコに火をつけていた。
「馬鹿だね。殴るわけないじゃないか。自分の敷地で事件なんざ起こせば資産価値が下がるだろ」
「すみません……」
殴られはしなかったけど尋常じゃない殺気だった。このアパートに住んでも絶対にトラブルは起こしたくないな。部屋が埋まらないのは大家さんが恐すぎるからじゃないのか。
「しかし、〝丁重にもてなしてくれ〟なんて専務から言われたが、訪ねて来たのがクソガキを連れた姉ちゃんとはねぇ。泣きたい気分だよ」
タバコを潜らせながら悪態をつく姿は僕を震え上がらせるには十分だった。助けを求めようと桜沢さんを見るが、いつの間にか彼女は遠く離れて電話していた。結局、僕は彼女の電話が終わるまで延々と丸橋さんの愚痴を聞く羽目になってしまった。
戻ってきた彼女は丸橋さんに何かを耳打ちした。丸橋さんは怪訝な顔をする。
「まぁいいさ。あんたら内島さんのことを調べているんだろ? 私も気になっていたんだ」
何を言われたのか、丸橋さんの方から話を切り出してきた。
「何か気になるようなことでも?」
「二年ほど前だったかね。急に解約されちゃったんだよ。契約した時にはできるだけ長く住みたいって言ってたのにさ。それも不思議なもので、普通は家具やら持っていくじゃない? それも全部捨てちまって。勿体無いと思ってね」
「彼の父親はその時にいらっしゃいましたか?」
「いいや。親父さんを見たのは内見の時の一度きりだったからね。どうにもよそよそしかったし、解約云々は全部息子さんの判断だったんじゃない?」
「アキラせ、内島さんは普段どんな様子でした?」
学校を辞めてからの先輩の様子は是非聞きたかった。先輩に何があったのか。少しでもヒントになるかもしれない。
「どうだろう。越してきたばかりの頃は暗かったんだけど、そこから徐々に明るくなってきてねぇ。挨拶もしてくれるし、良い子だったと思うよ」
暗かったのはお母さんのことがあったからだろう。でも、話を聞く限りだと立ち直り始めていたようだ。そんな中でなぜ解約したんだろう。
「解約を伝えに来た時の様子を詳しく教えて頂けますか?」
「夜九時頃だったかな。突然訪ねてきてさ。何事かと思ったら解約したいとさ。違約金もその場で全て払っていったね。えらく深刻な顔をしていてさ。他の住人だったらどうせろくでもない理由だと怒鳴り散らして考え直させるんだけど、あの子は歳の割にしっかりしていたからね。下らない理由じゃ無いと思ったのさ」
桜沢さんを見ると、彼女は何かを考えるように独り言を呟いていた。
「部屋を出た後の行き先について何か言っていましたか?」
「知り合いの家にお世話になるとか言っていたね。場所まではわからないよ」
「他に何か印象に残ったことはありませんか?」
丸橋さんは考え込むように顔をしかめるとまたタバコを取り出し火をつける。数秒考えた後、彼女は何か思い出した様子でパッと表情を変えた。
「そういえば、あの子の去り際が妙に寂しく見えてね。言ってやったんだよ。あんた死ぬんじゃないよってね。だってそうじゃないか。突然引っ越すと言い出すわ、荷物は全部処分しちまうわでさ。この子心中するんじゃないかと突然思っちまったのよ。そしたらさ。〝自分は死にませんよ〟って言うんだよ。その時の顔がなんか変だったね」
「どんな顔をしていたのですか?」
「なんだろう。覚悟を決めた……みたいな? 死なないって言ってんのに死にに行くみたいな顔をして言うから凄く違和感があったよ。でも、余計に変なこと言うようだけど、心中する人間があんな顔するのかとも思うねぇ」
その後いくつか質問したが、それ以上の情報は得られなかった。
アパートの敷地を出ようとした頃、不意に丸橋さんの携帯に着信があった。電話に出た彼女は驚いた顔をしたが、次第に笑みがこぼれていった。
「桜沢さん。あんた凄いね! また何かあったらいつでもおいで。そこの兄ちゃんもよく見たらハンサムじゃないか。行き先に困ったらいつでも部屋貸してやるからね!」
「か、考えておきます……」
一体桜沢さんは何を言ったんだ? 丸橋さんの態度が急変したことに僕は恐ろしさを感じた。
桜沢さんと路地を歩く。アパート以外の建物は如何にも高級そうなマンションが建っており、時折家族連れとすれ違った。
「行き先の手掛かりなしかぁ。アキラ先輩の職場を調べてみますか?」
「いえ、契約情報の収集時に合わせて聞きましたが、アキラさんは入居当時コンビニでアルバイトをしていたようです。人の入れ替わりも激しいですし、有益な情報は得られないでしょう」
彼女の情報を頼りにアパートまで来てみたけど、進展があったとは言えない。この先、どうやって調査していけばいいんだろうか。
しばらく歩いて大通りに出ると、桜沢さんは交差点の隅に立ち止まった。
「タクシーでも止めるんですか?」
「迎えを呼んでおきました」
程なくして、黒い車が目の前に止まる。窓が開くと強面の中年男性が運転席に座っていた。
「お待たせしました。所長」
「別に待っていません。時間通りですよ。白瀧くんも乗りなさい」
そう言うと桜沢さんは後部座席へと乗り込んだ。この場合助手席と後部座席、どちらに乗ればいいんだろうか。
「早く乗れ」
強面の運転手に促され、慌てて桜沢さんの隣に座る。今まで車と言えば知り合いや家族と乗るものだったから、よく知らない人達と密室にいることに何とも言えない居心地の悪さを感じた。
「佐久間さん。先ほどの件ありがとうございました」
佐久間と呼ばれた運転手はバックミラー越しにニカっと笑う。
「いえ、すぐに集まりましたよ。三人」
「それは良かった」
「もしかして、丸橋さんのことですか」
二人の会話の内容が丸橋さんへのお礼のことだとすぐにわかった。丸橋さんの態度があれほど変わったのだから何か彼女が喜ぶことをしたのは明白だ。
「何をしたんですか? 教えて下さいよ」
「あのアパートに入居する人を見繕いました」
入居者……確かに彼女はしきりに入居者が少ないと嘆いていたな。
「丸橋さんには何て言ったんですか? 最初明らかに怪しんでいる顔をしていましたよ」
「明日にでも三人、入居者が来ますよと伝えました。彼女、空室にお困りのようでしたから」
それにしても、そんなにすぐに入居者が見つかるなら丸橋さんもあんなに気にすることもないと思うけど。
「腑に落ちないという顔をしていますね」
桜沢さんは僕の顔を見て目を細めた。
「だって三人もですよね? 都合よく見つかるとは思えないですよ」
「彼女に紹介したのは通常の方法では部屋を借りられない。そんな人達です」
「所長」
佐久間さんが戸惑った様子で彼女に声をかけた。
「彼なら大丈夫です。契約を交わしていますから。ですよね? 白瀧くん」
桜沢さんの大きな瞳に見つめられる。契約内容を思い出せと言われた気がした。
「情報事務所との行動の中で見聞きしたことは他言してはいけない」
携帯のメモ欄に書いたことを思い起こす。これを守らなければ即座に契約解消されるという内容だった。それに加えて、彼女には僕の自宅まで知られている。
契約が終わった後も万が一彼女たちのことを吹聴すれば、きっと何らかの処置が下されると思う。そんな目に合うくらいなら死ぬまで秘密を抱いていく方がマシだ。
佐久間さんは怪訝そうな顔で僕と桜沢さんの顔を見たが、再び運転に意識を向けた。
「一部の界隈でいるのですよ。秘密裏に戸籍を取得する人間が。そういった人間は仲介業者を経てこの社会に溶け込んでいます。その最初の段階として住所が必要になる。そこで私達が丸橋さんのアパートを紹介して差し上げた……ということです。当然、支払い能力があるかは見極めますが。丸橋さんへ迷惑をかけるような入居者を紹介したとなれば、私達の信用に関わりますから」
それって犯罪に手を貸しているということになるんじゃないか。この人達について行って大丈夫だろうか。話を聞いて急に恐ろしくなってきた。
「大丈夫ですよ。私達はあくまでそれを知っているだけ。あくまで善良な市民に部屋を紹介しただけ。彼らも、彼らを斡旋している人間も、自分たちの事情を知られているなんて微塵も思っていませんよ。たとえ警察が介入してもそれを証明できない限り私達をどうすることもできませんし、証明のしようがありません」
彼女は安心させるように言った。何も口に出していないつもりだったが、それほど顔に出ていただろうか?
「知っていることを悟らせない。この仕事をする上での第一歩です」
彼女がそう言うと佐久間さんがふっと笑った。そして、ミラー越しにチラチラとこちらを見てくる。
「お前、所長にだいぶと気に入られているな。この人、普段こんなに饒舌じゃねぇぞ」
確かに桜沢さんは情報屋の内情をよく話してくれる。そういう人だと思っていたけど普段はもっと無口な人なのかな。
「契約ねぇ……いつも散々俺達に守秘義務遵守だの言っているくせに、自分がお喋りだなんて笑っちまうよな」
佐久間さんが笑いを堪えながら言う。
軽口を叩かれた彼女はどんな顔をしているんだろう。そう思って彼女の方に目をやった。彼女の目が一瞬ギラリと光った気がする。
「あら、そんなことを言っていいんですか? かわいいあなたの彼女さんに、あのこと話してしまうかもしれませんよ? 私、おしゃべりですから」
「ちょ、ちょっと。それは人としてやっちゃあいけないことじゃないっスか!」
狼狽した佐久間さんの様子を見て、桜沢さんが一瞬だけくすりと笑った気がした。この数時間行動を共にしていたが初めて見る顔だ。この二人の間には特別な信頼関係があるように感じた。
「申し訳ないですけれど、白瀧くんには事務所まで同行して貰います。今回の状況について整理しておきたいですし、新たな情報が入っているかもしれませんので」
桜沢さんはそう言うとドアに寄りかかる。車のガラス越しに桜沢さんの表情を窺う。その顔はまた戻っていた。
表情の無い、人形のような顔に。
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