②憂い

 授業初日、最悪の気分だ。寝不足の身体には冷たい雨が降り注ぐ。新生活で神経質になっているせいか、昨晩はほとんど眠ることができなかった。さらには、新入生ガイダンスの数日間で友人が全くできなかったせいで、授業へのモチベーションはゼロだ。

 必修の授業の教室は、朝九時前だというのに騒がしい。新学期特有の腹の探り合いがあちこちで行われているせいで、こちらまで落ち着かなくなる。溜息をひとつ漏らしてから授業の準備を始めると、隣に人の座る気配がした。周りにはまだ空いている席が沢山あるのだから、わざわざ隣に座らなくてもいいのに、と思いながらのろのろとペンケースを出していると、低く控え目な声で話しかけられた。

「あの、一年生ですよね?」

 声の主を見ると、その声に似つかわしくないチャラそうな男が座っていた。茶髪で、耳にはごつごつとしたピアスがぶら下がり、着ている柄シャツの模様は祖母のスカーフみたいだ。

「そうですけど……」

 私の警戒心を感じ取ったようで、男は申し訳なさそうに続けた。

「こんな見た目だけど小心者でさ、学部に全然友達出来ないんだよね。良かったら、授業が始まるまでの五分だけでも話し相手になってくんない?」

 見た目とのギャップに拍子抜けしつつ、まあいいですよ、と力なく返答する。男はほっとしたように呼吸をひとつすると、じゃあ自己紹介から、と姿勢を正して話し始めた。

「古川タカミチって言います。タカは親孝行の孝で、ミチは道路の道ね。出身は埼玉。ちょっと東京よりの埼玉だからそこまで遠くないよ。それで、高校は男子校。部活は卓球部の幽霊部員でした」

 一気に自分のプロフィールを言い切ると、こちらにもそれを期待するような眼差しを向けた。気だるい脳を回転させて、浮かんだ言葉を唇に乗せる。

「佐藤です。出身は東京の男子校で、えぇと……帰宅部でした。よろしく」

 古川はSNSのアカウントを追加するよう私に迫った。アイコンの画像は、どこかの洒落た壁をバックにモデルのようなポーズをする古川だった。一般人が背伸びをしてそんな写真を撮るなんて滑稽だ、と心の中で毒づく。こんなことを考えてしまうのも、雨と寝不足のせいだ。

 飛んでくる質問に適当な回答をしているうちに、授業開始のチャイムが鳴る。助かった。授業に集中しているふりをして、無視をした。



 数日風邪で寝込み、昼からやっと体調が回復した。体調を崩したのは、雨に濡れたことと新生活の疲れのせいだ。いくつかの授業は初回から出損ねた。逃した授業内容を尋ねられるような友人はいないので、ひたすら明日からが憂鬱だ。大学生になって約二週間、憂鬱でなかったのは空き教室で彼に出会ったときくらいだろう。実は、昨日彼からメッセージが来ていた。

『今日の夕方この間の教室にいます。暇だったらおいで』

 彼から送信されて丸一日経った今朝、このメッセージに気が付いた。急いで謝罪の連絡をしたが、未だ返信はない。怒っているのだろうか。呆れているのかもしれない。嫌われたら、見放されたら、どうしよう。焦りは時間とともに病み上がりの心を蝕み、私を底なし沼へ引きずり込む。

 毛布を頭からかぶり、必死に祈る。許してください。見捨てないでください。どうしてそこまで恐れているのか自分にもわからない。彼のことを両親にでも重ねているのだろうか。目にはじんわりと涙が浮かぶ。堰を切ったようにあふれ出し、ひとり暗い部屋で嗚咽した。そして、そのまま気絶するように再び眠りについた。

 次に目覚めると、時計は九時を指していた。窓から差す光が眩しい。今日は水曜日だから授業は二限から。そろそろ準備をしなくてはいけない。長い睡眠時間のおかげで意識は明瞭なのに、シャワーを浴びていなかった身体はべたついているし、スマートフォンは電池が切れているしで、気分は最悪だ。

 スマートフォンを電源に繋いでから、キッチンへと向かう。水を一気に飲むともやもやとした不快感も少しはマシになった。一日ぶりに自室から出た私を、リビングにいた祖母は心配そうに見る。高校時代の私は風邪などひかずに皆勤し、それなりにまともな学生だった。そんな孫が大学に入学して早速、体調を崩して部屋に籠っているとなれば心配するのも納得だ。

「大丈夫なの? 今日は大学いけるのね?」

「うん。完全復活。もうすっかり治ったからさ」

 安堵する祖母を横目に浴室へ向かい、シャワーを浴びる。寝込んだせいか、以前よりやつれた気がする。身長は低くないが筋肉はなく、脂肪もないので肋骨がくっきり浮き出ており、自分の身体ながら不格好で気持ちが悪い。

 そういえば、彼はあまり身長が高くなかった。自分より十センチほど低かっただろうか。彼のことを思い出すと、いてもたってもいられなくなって、焦って身支度を済ませると充電されたスマートフォンのもとへ飛んで行った。

 新着メッセージが二件。彼からだ。浅い呼吸でなんとか正気を保つ。震える指で、メッセージを開く。

『大丈夫だよ。既読ついてなかったから、多分来られないんだろうなとは思ってたし』

『今日暇ならおいで。あの教室で待ってるよ』

 文字列が目に入った瞬間、ふっと全身の力が抜ける。自室の床にへたりと座り込んだ。また誘われた。社交辞令だとしても嬉しい。教室に行けば彼に合える。湧き上がる喜びと安堵で、今にも飛び跳ねてしまいそうだ。スマートフォンをぎゅっと握りしめて幸福を噛み締める。

 早く大学に行こう。きちんと授業に出席して清々しい気持ちで、彼に会おう。家を飛び出し、最寄り駅まで走った。

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