あなたとコーヒーを

川上 踏

①出会い

「あっ……」

 懐かしさを感じる芳しい風に誘われて静かな教室を覗くと、ひとりの男がいた。目が合うと、にこりと笑いかけられる。まさか人がいるとは思わなかった。何を言えばいいのかわからなくて焦る。

「あの……えっと……」

「一杯飲みますか? もう冷めちゃったけど」

 彼は紙コップをこちらに差し出し、手招きをする。物腰柔らかで穏やかそうな人だ。随分と落ち着いて見えるから、先輩だろうか。

 断るのも悪い気がして、私は少し警戒しながら教室のなかに入る。教室の長机の上にはコーヒーを淹れるための器具が用意してあった。ケトルに温度計、スケールまで並べられてまるで実験のようだ。廊下まで届いたあの香りはコーヒーだったのか。

「コーヒー、淹れてるんですか?」

「そう、好き?」

「あ……実はブラック飲めなくて」

「そっか」

 飲めないんだから断ればよかった、と向かいの席に座ってから後悔した。もう長いこと『コーヒー』と名の付くものは口にしていない。

 そんな私をよそに彼はリュックサックから牛乳パックと砂糖を出した。紙コップのコーヒーにそれらを加えるとゆっくり攪拌する。黒い液体が白く染まってゆく。

「ミルクと砂糖を入れれば大丈夫かな? 良ければ試しに飲んでみてよ」

「ありがとうございます」

 ぬるい紙コップは、春といってもまだ寒さを感じていた私の身体をじんわりと温めた。震える唇をすぼめて、ちいさく一口含んでみる。マイルドで甘くて、優しい。

「おいしい……」

 呟くと、彼は嬉しそうに目を見開いた。

「よかったぁ……もう一杯どう? これから淹れるんだけど」

「じゃあ、お願いします」

「ちょっと待っててね。カフェオレでいいよね」

「あ、はい」

 彼はケトルからお湯をゆっくり注ぐ。コーヒーの粉を通過したお湯はセピア色になってぽたぽたと滴り、ビーカーに溜まっていく。あの懐かしい香りがふわりと広がる。彼は目を瞑ると、うっとりと恍惚の表情を浮かべた。

「……いい香りですね」

 でしょ、と彼は歯を見せて笑う。

「俺、さっき廊下でこの香りを嗅いで、なんだかすごく懐かしい気持ちになって……それでつい覗いてしまって」

「そういうことか。まさかこんな空き教室に人が来るとは思わなかったなぁ。迷子かな? 新入生?」

「そんなところです。法学部一年の佐藤って言います」

「俺は文学部二年生の黒川です。よろしくね」

「あの、なんで教室でコーヒーを淹れてるんですか?」

「うーん、趣味かなぁ? 本当はサークルがあるんだけど、他のメンバーが理系で別のキャンパスだから今は俺だけなんだよね」

 そんな会話をしているうちに、いつの間にかカフェオレが完成していた。紙コップに残っていた冷たい液体をぎゅっと飲み干す。

「はい、あったかいのできたよ。今度のはカフェオレに合う豆で淹れてみたから、さっきとはちょっと味が違うと思う」

「へぇ、ありがとうございます」

 湯気の立つ紙コップを手に取り、ゆっくり飲んでみる。

「味はどう?」

 問われたが、正直さっきとの違いはわからない。もう一口飲んでから紙コップのなかを見つめて悩んでいると、彼は小さく笑った。自分の味覚を笑われているようで恥ずかしくて、顔が上げられない。

「――あ、ごめんね。そうだよね、さっきと温度も違うし比べるのは難しいよね。意地悪なことしちゃった」

 目線を上げると彼はぎこちなく笑顔をつくり、謝った。端正な顔立ちのなかで、眉だけがしょんぼりと下がっている。

「あ、良いんです。こちらこそごめんなさい、せっかくおいしく作ってもらったのに」

「まぁ、おいしかったらそれで十分だよね。小さな違いに気を取られずに、純粋においしいって思うことも大事だから」

 彼の顔に明るさが戻った。こんなにも彼を楽しそうにさせるコーヒーのことがなんだか気になる。それは嫉妬なのかもしれない。彼とはさっき知り合ったばかりだったが、私に小さな嫉妬心を抱かせるくらいには魅力的な人だった。顔立ちは整い、表情は豊か、そのうえ優しくておいしいコーヒーを淹れることもできる。一緒にいると、不思議な心地よさがあった。

「あの、また来てもいいですか?」

 突然の私の申し出に彼は驚き、目を丸くした。

「え、本当? 気に入ってくれて良かったぁ。じゃあまた今度教室でコーヒー淹れるときは連絡するよ」

 そう言うと彼は私と連絡先を交換した。アカウントの名前は『黒川廉』で、なんだかアイドルみたいなフルネームだ。

 一緒に教室を片付けてから、私たちは大学最寄りの駅まで帰った。電車は逆方面だったからホームでお別れだ。

「あの、今日はありがとうございました」

「うん、またね。佐藤くん」

 先に電車が来た彼は、ひらひらと手を振りながら車内へと入っていった。電車のドアが閉まって動きだしても、彼ははにかみながらこちらに手を振っていた。

「可愛い人だったなぁ……」

 駅のホームでひとり、無意識で呟いた。



 帰宅すると、夕飯の準備を終えた祖母が私を待っていた。手本のような和食が二人前セットされたテーブルはなんとも見事だ。

「ただいま。もう夕飯?」

「そうだよ、早く荷物置いてきなさい」

「あ、そうだ。うちにコーヒー淹れる道具ってある?」

「え? なんでコーヒー? 物置を探せばあんたのおかあさんのがあるんじゃない?」

「そっか、わかった。あとで探す」

 祖母は不思議そうに受け答えた。それもそうだ。今までコーヒーに微塵も興味がなかった孫が、亡くなった娘の趣味をいきなり始めようとしているのだから。

 私の両親は、私が幼い頃に亡くなった。事故にあったそうだ。物心がつく前だった私は、両親のことをほとんど覚えていない。でも今日あのときに感じた懐かしさは、きっと僅かに残存している記憶のせいだ。ぼんやりと思い出されるのは、昼下がりの明るい部屋でコーヒーを淹れる母の姿。両親がコーヒー好きだったこともあり、あの頃はコーヒーがとてつもなく素敵なものに見えた。

 両親が亡くなったことを理解して、自分なりに消化してきた頃に、私はコーヒーを初めて飲んだ。駅前の喫茶店に祖父母と行ったとき、私はオレンジジュースを頼んだ。しかし出てきたオレンジジュースよりも、祖父の注文したカップの底も見えないくらい黒い液体の方が私の興味を惹いた。この香りを私は知っている。そう思ったときには、私の手は祖父の前にあるカップに自然と伸びていた。

 私は、一口飲んで悶絶した。あまりに苦くて、酸っぱくて、とても喉を通るのもではなかった。そこからコーヒーはずっと苦手で、ブラックはおろかカフェオレやコーヒー風味のお菓子でさえ避けてきた。あんなにもまずいものは絶対に口にしてはいけない、そう本能的に悟っていた。そのはずだった。今日までは。コーヒーの香りに不思議と魅了されて、カフェオレを飲んで、初対面の人と打ち解けて―――そんな体験は過去の私では絶対にできなかったことだ。

「くろかわ……れん先輩か……」

 自室で部屋着のスウェットに着替えながら今日を振り返る。また会いたい。またコーヒーを飲みたい。そんな気持ちを部屋に残して、夕食のためにダイニングへと向かった。

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