第38話   仕返し?

これってもしかしたら、毛虫の仕返しなのかも知れない、と思ったことがある。

痒みをともなった赤いポツポツとした湿疹が、首筋から肩や背中にかけて広がってできた時、ふとそう思った。

前の年にも同じような湿疹に悩まされたが、その時にはシメサバが原因だと考えて、市販の薬を買って治した。


 しかしその時とは様子が少し違って見えたので、急いで皮膚科を受診した。そろそろ毛虫の被害の出る頃だったので、実際に毛虫を見かけた訳ではなかったが、先生はそれ用の薬をだしてくれた。絵の具のチューブのようなのを2本眺めて、私の広大な大地のような広い背中や首や太い手足に塗るのに、これっぱかりの量で足りるのだろうか、と妙に心配したのをいまだに覚えている。


 次の年になると今度は、実際に毛虫の姿も見かけたので、きっと洗濯物に着いたのが原因だろうなと想像も出来た。当時我家はマンションの1階にあって、フェンスのすぐ前には椿の生垣があった。毛虫の付きやすい木である。


 その椿の木の葉っぱの裏には、チャドクガがびっしりと整列してくっついていた。所どころの葉っぱは表向きには何も分からなかったが、裏を見ると虫嫌いの人だったら失神しそうな程無数にいて、心臓は激しくドキドキしたし寒気や吐き気までしてきて往生した。


 更にその翌年には、斜め前にある杏の木にも虫がついた。これも毛虫の付きやすい木である。長い間剪定されずに伸びきった枝が、風に吹かれて干してある洗濯物の近くでゆらゆらと揺れている。ベランダは前一面がチャドクガのいっぱい付いた椿の木に責められているし、天井からは毛虫付きの枝をひらひら揺らされるしで、まるで何か悪いことをしてお仕置きをされているかのような、責め苦の状況だった。

 

 それでも葉っぱに付いているうちはまだ良かったが、ある朝ベランダに出てみて仰天した。すっかり成長した虫たちは朝日の中、ベランダの手すりや床を楽しそうに??ウヨウヨと揚々と散歩している。夫は早朝から仕事に出て留守だし、子供達は怯えること間違いないしと考えて、ここは勇気を振り絞って割りばしで一匹ずつ摘まんで退治することにした。その日の夜には、気持ち悪さと恐さで嫌がる子供達を前に、母の勇敢な戦いぶりを割りばしを使って得意気に演じてみせる私だった。


 その翌日、そんなお調子者へ罰が当たったのか、一網打尽であった筈のベランダには、前日の何倍もの毛虫がやって来ていて、それは節分の翌日の庭にまき散らされた豆の残骸のような状況だった。手すりや床には勿論のこと、竿や物干しピンチやハンガーなどにもブラブラとぶら下がって、まるで私にオラオラオラ!と威嚇しているかのようだった。 


 恐くて逃げ出したかったが、何だか変に怒りが湧いて来て、昨日よりグンと力を入れて退治に励んだ。気持ち悪くてたまらなかったけれど、物は考えようと無理に「落穂拾い」をイメージして頑張った。ミレーの名画の落穂を毛虫と一緒にするなんて気がひけたが、お蔭で50匹過ぎる頃には本当に落穂拾いの農夫になった気がしてきた。

こんな努力を3年頑張った結果、これからは生垣の薬剤散布を例年よりうんと早く行ってもらうように管理会社にお願いして、この情けない初夏の風物詩はなくなった。


 義母の介護や毛虫との戦いなど、思い出の沢山あったマンションも建て替えの為現在の場所に越して来た。以前は隣の建物に遮られて朝日が短時間しか当たらなかったが、今は南向きの陽ざしいっぱいのベランダで花を育て、風に揺られている洗濯物を眺めるのが何よりの幸せと感じて暮らしている。


 毛虫に悩んだマンションに住む前、我が家は3階建てのちょっとした庭のある戸建ての家だった。何本かの木が植えられていた中に、小さな実のなる乙女リンゴや椿や蜜柑の木もあった。椿には毛虫がつき蜜柑にはモスラを思わせるようなアゲハの幼虫もいた。


 金魚を眺めたり花を育てたりして楽しんだ庭には、よく鳥がやって来てリンゴの実をつつかれたが、虫を食べてくれるお礼と心得た。苦手なカエルも毛虫を食べてくれると聞いて、追い出さずに遊び相手にした。彼は鼻先に園芸用支柱の棒を置き、右とか左と念じその方向にひょいと動かすと飛び上がってついて来る。まるで魔法使いになったような気分で、左右に操って得意になっていたのに、後にカエルは動くものに反応するだけのことだと聞いてガッカリした。


 薬剤散布をしているにも関わらず、ある日一匹の可愛らしい毛虫に出会ってしまった。初めて見るムクムクと太った茶色の、まるでチャウチャウ犬を思わせる姿が愛らしく、何だか殺す気になれなくて、バケツに入れて眺めていた。「ケムンパちゃん」と名前も付けた。ムクムク、コロコロと動いてバケツの壁を這い上がってくるのを、チョンと突いて底に落とし、また上がって来るのを落とす、を繰り返した。


 そうして呑気に遊んでいた時、すぐ傍に突然スズメの子がポトンと落ちて来た。親スズメが鳴き騒いで低い枝に止まって呼んでいるようだ。何度も降りて来ては飛んで木の枝で待ち、チュンチュン鳴いては傍に降りて、また飛んで枝に止まるを繰り返した。


 やっと子スズメが飛んで枝に止まると、親スズメの姿が消えてしまった。急いでバケツの毛虫を箸で摘まんで来て、子スズメの口元に差し出すとパクパクと食べた。すぐに親スズメの気配がしたので、私は家の中から様子を見ることにした。鳴き声がうるさいので、毛虫を貰ったのを怒られてるのかな、それとも良かったねえと言ってるのかな、と楽しい想像をしていると、急にカラスの声と羽の音がして、覗いているガラス窓の前をサッと横切った。


 けたたましい?鳴き声と一緒に、枝から飛び上がる親子の後をカラスが追いかけたので、慌てて2階へ上がり窓から探すと、2羽のカラスが大きく旋回して去って行き、親子の姿も見えなくなってしまった。


 そんな昔の家の庭での楽しかった出来事を、毛虫に悩まされた時にふと思い出した。もしかしてこれって、あの時の毛虫に仕返しをされているのか、と思ったのだ。可愛いと名前まで付けておきながら、バケツの壁を這い上がるのを何度も突き落として弄んだ末に、生きたまま鳥の餌にした罰だ!と責められているのではないかと思えた。


 数日前に分かったことだが、このケムンパちゃんの名前はくまけむしといって、毒針もないので触っても大丈夫だそうだ。可愛らしさから子供が掌に載せて遊んでいる写真もあった。どうりで妙に可愛くてバケツに入れて眺めていたいと思えた訳だ。


 そうやって毛虫と戦ったローバだったが、今ではチャバネゴキブリと戦っている。日頃は偉そうにしていても虫には弱虫の孫だから、急いで助けに駆けつけてやるローバだ。そんな時はちょっとばかり誉められるし、私がいてくれて助かるとも言うが、だから長生きしてね、なんて殊勝なことは言ってくれない。でも「お母さんが死んだら一番泣くのはあの子だね」の娘の言葉で、密かに気を良くしている勇者ローバなのであります。  

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