第32話  選挙

 さあ選挙だ、と街が少し騒ぎ出した頃、少しも気持ちが湧きたたなかったが、全く無関心ではいられないので投票に行った。選挙カーで「只今〇〇さん本人が・・・」と叫ぶ声が、家の前を何度も通り過ぎて行ったが、終わってしまえば今はもう静かだ。○○さんは娘の友人Tさんの御主人だ。さぞTさんも忙しく動き回ったことだろう。


 特別な推しの政党も無いので、〇〇さんの人柄を信じて投票したが、Tさんからは選挙のずっと前から折に触れ、投票のお願いをされ続けている。その懸命さに少しばかり気の毒なような気もするが、考えてみれば「落ちてしまえばただの人」と言われる位なのだから、真剣になるのは当然なのだろう。


 

 選挙には立候補した仲間達との楽しい思い出がある。今から30年近く前、町内の仲間達で落研(落語研究会)を作り、夫がのせられて師匠に収まった。単なる遊びの会も次第に広く知られだすと、色んな人が参加を希望するようになり、その中には政治家を志す人が3人いた。


 彼らの加入目的は、落語から話術を学びたいという理由だけでなく、落語会で名を知ってもらいたいということもあったようだ。KさんとMさんは区議と都議に、Nさんは衆議院議員になった。


 落研では、自分の職業に因んで芸名を付けることになっていて、例えば一番ぴったりな名前として、写真屋のWさんの「写真家げん蔵」がある。床屋のKさんは髪の助がたっての希望だったので、亭号(屋号)を落語「浮世床」からとって「浮世亭髪の助」に。蕎麦処「満留賀」の女将さんは「鶴鶴亭鶴子」で、OA機器の営業マンのTさんは「押し売り亭旺栄」、旋盤加工職人のSさんは「奇怪亭小千万」等々である。


 各々が工夫を凝らして希望の名になったが、「千万」を希望した「小千万」さんは、千だの万だのでは名がちと大きすぎると師匠からケチがつき、頭に小の字が付け加えられた。苗字に榎という字があるEさんは、仕事で使う放電加工機の名から「えの家宝伝」と付けたが、師匠は宝の前には忘れずに「あ」を付けて「あ宝伝」あほうでん、と呼ぼうと言い皆は大賛成した。


 町内の噺家さん達に加わったこの3人の内の一人松〇Mさんは、都合で奥さんが正会員となったので、皆は可愛い奥さんの為にと張り切って「松の家こまち」と決めた。Kさんには師匠が政治家には選挙が付きものだからと、「一歩」と命名した。選挙カーから聞こえる「Kです、頑張っております、あと一歩でございます」「あと一歩、あと一歩・・」のあの「一歩」で、選挙が近づいたら「酒の家(師匠の亭号)あと一歩」となるという。


 そしてもう一人には、勿体ぶった師匠とのこんな会話があった。

「Nさんには、そうだ、とっておきの粋ない~い名前をやろうじゃぁないか」

「えっ、どんなですか」と嬉しそうなNさんに、書いて見せたのが「楽扇」の文字。

「がくせん?ですか?」

「違うよ、これは、らくせんって読むんだよ」

「ひえ~っ、そんな恐ろしい、縁起でもない」と、彼の声がちょいとうわずった。


 大喜びしながらも、流石にそれは可愛そうと皆が囁いていた時、

「一歩さんと同じように、選挙中はがくせんと読むんだよ、ならいいだろう?」と洒落がきつい。


 そうやって散々2人をからかって皆で大喜びしたが、彼らも洒落とわかったから、「一歩」や「楽扇」を有りがたく名乗ることとなった。暫くして、その名前が町内寄席のめくり(高座の横にある演者の名前を書いた立て札の紙)で披露される時がやってきた。


 「らくせん」とからかわれて気の毒だった彼の為に、私は寄席の前日にその「楽扇」のめくりに、ちょいとした細工を施した。四角く切った紙に数字の十という字を寄席文字で書き、「酒の家楽扇」の楽の文字の上に貼り付けた。そして近くにあった贈答品から、付いていた真っ赤なバラの造花を取って準備完了だ。


 寄席の当日となった。仲間達のオーバーな宣伝と、強引な誘いのお蔭で満員になった会場の一角には、Nさんの後援会の女性達が大勢集まっていた。出番になって彼が登場すると、大きな拍手と声援が湧き起こった。


 賑やかな出囃子♪♪ に、ニコニコ笑いながら楽扇さんが登場し、

「え~皆さま本日はようこそお越しくださいました。このたびNIこと酒の家楽扇は・・・」

 と話し始めると、会場がざわつきだした。あちこちから「名前が違うんじゃない」の声が聞こえている。

「えっ、違う? って何が? 見てみろよってか・・??」

言われて彼がめくりを見れば、楽扇ではなく十扇となっている。焦った彼は最前列の端にいる私に向かって

「なに? これ酒の家じゅっせん? えっ、えっ、じゅっせんじゃないの?」

 と情けない顔で問いかける。すると直ぐに私は身を屈めハイハイして彼の傍まで行き、会場のお客に向けて「とうせんでございます~ぅ」と叫んだ。


 すると彼は破顔という形容にぴったりの、お面が破れたような顔で

「え~、お師匠様の奥様の粋な計らいにて、ワタクシは当選だということになりましてございます~ そして~」

「おや、そのうえ縁起の良いことに、これは当選のバラではございませんか・・・なんと有りがたいことで」

 沸き起こった盛大な拍手に後援会婦人部の皆様は大喜びし、会場中はバラ色に染まった。


 

 と、よくもまあそんなアホらしいことに、大の大人が集まって賑やかに遊んでいたものだ。あの頃はみんな若くて景気もいい時代だったし、選挙にも活気があったなぁ、などと懐かしい昔を思い出した。


 落語にはさげ(オチ)があるように、この話にもそれらしきものがある。トップ当選を果たしたNさんが、将来大臣になるかも知れないと喜んだ我ら仲間達の夢は大きく膨らんだ。しかしこのNさんは残念なことにスキャンダルが元で、議員ではなくなり、2年足らずで夢は萎んでしまった。やはり「らくせん」という名前が災いしたのだろうか。ならば師匠が支障を来たしてしまったということになろう。


 こうなるとやはり名前はよく考えて決めたいものだと思う。そう言えばどなたかがコメントの中で私の@88chamaは、「ばばちゃま」と呼べるが?と言われたことがあった。あ~なるほどぉと感心した75才である。今ではローバという名がすっかり気に入っているので、ずっとこの名で何かを書いていきたいと、心から願うローバなのであります。



 





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