残業に死す

秋保千代子

お役目インポッシブル

「締切を落としただけなのに」

 責めるなんてひどい、と女は泣いた。

 だが、三人もまた真剣だった。


 アオキは蒼褪めている。

「締切って意味があるんだよ…… そこまでに原稿やらなきゃ同人誌が出来上がらないって意味だよ……!」

 カンダは呻く。

「売上のデータをエクセルにまとめておくだけだったじゃないか! それができないならできないって言えよ! データがまとまってなかったら請求上げられないんだから!」

 そしてタナカが絶叫した。

「請求書は明日出さなきゃいけないんですよー!」


 女は、最初から無かった涙を拭いて、言った。


「請求がなければ、支払わなければ良いじゃない」


 それ、買い手のセリフで、売り手のセリフじゃないから。


 この会話が繰り広げられたのは午後4時、16時46分。終業時刻ぴったり59分前だった。私鉄のターミナル駅の改札から走って30秒という最高の立地にある商業ビルの一角。某商社営業部での出来事だ。


 報告を受けた、齢七十、頭髪以外は若い頃から全く変わらない社長は言った。


「この請求を助けて…… 伝説の『営業騎士ナイト』たちよ」


 ヤバババーン! ヤバババーン!


 何かが聞こえる。これは運命が扉を叩く音だ。


 ヤバババン、ヤバババン、ヤバババーン!

 ヤバババン、ヤバババン、ヤバババーン!

 ヤバババーン! ヤバババーン! ヤババ、バ、バ、バーー--ン!!!!


 運命よ、そこのけそこのけ社畜が通る。


 だって請求しないわけいかないじゃん。売上上がらなきゃ、来月の給与が危ないからね。とはいえ、売り上げの8割を占める最大手取引先の、先月の取引結果のこれまた8割が、紙媒体でしか記録されていないってどういうことなの。

 あと59――いや、54分でデータまとまるのか? お役目インポッシブルにもほどがあるだろう?



 17時00分。椅子に座り、パソコンを起動する。

「ひとぉおおおおおつ! 士道に背くまじきこと」

 タナカがまた叫ぶ。アオキもカンダも臨戦態勢だ。

「書類作成、開始する」

 ロッカーの奥に仕舞いこまれていた書類、ウン百枚。そこに記された数字をエクセルへ入力していく。

 なんでこんなことをやっているかっていうと、この会社、いまだに売上管理・自動集計システムが導入されていないんだよ。クソが。


 当然ながら、定時では終わらなかった。

 なお、社長は細かいことは分かんないんだよねと言って、18時01分に上がっていった。そういうところも若い頃から変わらないらしい。


 時計とキーボードの音が途切れない中、カンダは溜め息をついた。

「あー、腹減ったなー。今日は定時の予定だったから、おやつは買ってなかったんだよなー」

「じゃあ、僕の顔をお食べよ」

「いやだ」

 アオキの頭を押しのけながら、カンダは作業を続ける。タナカも一心不乱と言ったところ。


 そんな中へ。

「おー、頑張ってるな」

 と言って顔を出したのは、営業部長だった。その手には、赤とも茶色ともつかない色の箱が握られていた。


「それは?」

「差し入れだ。ジンギスカンキャラメル」

「お断りします」

「美味しいだろ、ジンギスカン」

「ジンギスカンは美味しいけど、ジンギスカンキャラメルは不味いです」

「いや大丈夫だよ。北海道ビールキャラメルのほうが不味いから。ほーら遠慮するな、受け取れ! 食え!」


 営業部長の腕が伸びてくる。海賊王に部長はなる。

 口に突っ込まれたキャラメルによって、脳には糖分が、鼻腔にはネギの香りが届いた。くぁwせdrftgyふじこlp。


 デスクに突っ伏した三人を尻目に、19時23分、営業部長も帰っていった。おまえら請求する気あるのかよ。


 ミネラルウォーターという救いをもたらしてくれたのは総務課長だった。

「今日はノー残業デーだったんですけどねえ」

 と言ってタイムカードを押すしぐさをする。

「事情は聞いていますから、残業代は請求してくださいね。残業隠しはのちのち面倒なんで」

 文句を聞きながら、三人はミネラルウォーター500mlを一気飲みした。


 ぷはっと息を吐いた三人に微笑んで、総務課長は言った。

「他にご入用の品はありますか」

 だから、三人声を揃えた。

「一番良い装備を頼む」

「装備とな」


 キラン。総務課長の眼が光った。


「備品貸与品の整備こそが我が使命。申してみよ」

「パソコンを三つ貰おう。入力用。スペア。そしてスペアが無くなった時のスペアだ」

「え、それだけ?」

「それだけ、じゃねえよ! おれらのパソコン、まだ7なんだよ! 今時サクサク動くわけねえだろ!? 終わんねえが加速するんだよ!」

「11とは言わない! せめて10を!」

「ご慈悲を!」

「しょうがないなぁ。10を出してあげるよ」


 そう言って、総務課長は倉庫から新品のWindows10を3台持ってきてくれた。あるなら早く入れ替えておいてくれよ。


 最低限の設定をするだけして、総務課長も帰っていった。

 この時点で21時38分。定時から何分経ったかなんて考えたくないよ。パトラッシュ、僕はもう疲れたよ。


 死んだ魚の眼で三人は新品のWindows10の画面と向き合っていた。今のここは、残業の動く城。


「今鳴ったベルはどこのベルだ」

「3階のエレベーター?」

「今のは?」

「1階から車が出ていった音じゃね?」

「営業車で帰るの誰だよ!」


 なんてやり取りの間に、プツン、と音がした。


「今の音は?」


 呟くと同時に、照明が落ちた。


「マジか! 書類が見えねえ!」

「パソコンも動かねえ……!」


 倉庫から出されるなりフル稼働させられていたWindows10、供給が途絶えたら息絶えるのは当然だった。

 スペアも、スペアが無くなった時のスペアも動かない。だってみんな、ずっと倉庫にあったから、バッテリーゼロなんだもの。ゼロが許されるのはカロリーゼロだけだよ。


「ゆ、ゆるさねえ…… 誰なんだ、電源落とした奴は……」

「犯人はこの中にいる!」

「建物の中だよな! 建物の外にいた奴が電源落とせるわけないよな!」


 叫び、彼らはフロアを飛び出した。


「全集中――捕獲の呼吸」


 走った先で、照明とは違う明るい声が聞こえた。

「あ、お疲れ様でーす!」

 経理の新人だ。

 彼はニコニコと近寄ってきた。三人は目を丸くした。


「何やってんだ、おまえ」

「お恥ずかしながら、ネット経由の振込手続きが終わらなくて…… あ、もう終わりましたよ。」


 だから、と新人は頭を下げた。


「すいません。僕がラストかと思って、全館の電源、全部切っちゃいました」

「全館? 全部?」

「はい。照明もエアコンも、充電式掃除機の充電コードも全部です!」

「バカだろ!?」


 悲鳴を上げて、新人を睨んだ。

 その新人が両手で大事に抱えているのは、経理御用達の大容量・高速のパソコンだった。おそらくOSは11。

 目配せをする。三人の心は決まった。


 つまるところ、目の前の新人から、そのパソコンを。

 殺してでもうばいとる。


「な なにをする きさまらー!」


 そこからは怒濤の展開だった。

 全館の通電を再開し、照明もエアコンもガンガンにつけた。経費? 知るかそんなん。

 動かしているのは、ねんがんのWindows11。さすが切れ味が違う。

 営業のオンボロとは違う、銀行のサイトにアクセスすることを指向した最新型パソコンによって、計算はさくさく進み、データがまとまっていく。


「青い海が呼んでる。白い紙も歌ってる」

 ひーらりひらひら、ひーらひら。

 プリンタの排紙口から躍り出てくる書類をキャッチして、穴を開けて、パイプファイルに閉じていく。


「いける…… いけるぞ」


 最後の一枚がふわり、宙へ吐き出されてきた。

 請求書、とタイトルが打たれた一枚。そこにキュキュッと社印を押した。

 完了だ。


 出来上がったパイプファイルをデスクの端すれすれに置いて――というか、三分の一くらいデスクからはみ出していたけれど、お構いなしに。三人は床に座り込んだ。


「み、水……!」

「まだだ、まだ終わらんよ! 家に帰るまでが労働だ!」

「イクゾー!」


 駅へ向かってBダッシュ。

 急いでいても確認してね。戸締りですよ、セコム入ってますか? オフィスには財産が多いからね、気をつけようね。


 そうやって誰もいなくなったオフィスで。

 がたん、と音を立てて、ファイルが床に落ちた。弾みで金具が開く。綴じられていたはずの書類はエアコンの風にあおられて、フロア中へ広がっていく。照明だけがそれを見つめていた。



 一方その頃。



 私鉄のターミナル駅で。

 カンダが6番線の支線の座席に腰を下ろした。1番線でアオキが下り電車に滑り込んだ。そして、走るタナカの視線の先で、ぷしゅっと音をたてて、上り電車の扉が、4番線のホームドアが閉まった。


 終電や 兵どもが 夢の跡


 わざとだよ、と可愛く首をかしげる余裕は残されていなかった。

 燃えた燃えたよ真っ白に。

 タナカはその場に座り込んだ。


 そして伝説へ...



(了)

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残業に死す 秋保千代子 @chiyoko_aki

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