<第一章試し読み>ロクジュウニの眼

青葉える

<第一章試し読み>ロクジュウニの眼

 ぜえーっ、ぜえーっ。

 唾液が絡んだ荒い息遣いが真っ暗な部屋に響く。ドアノブにつるした電気コードを首にかけた男は、今まさに、酸素が失われていく耐えがたい苦しみに足をばたつかせている。死にかけていくとはこんなにも苦しいものだったのかと思いながらも、男はそれに抗わなかった。今までの生活でも死んでいたようなものであったし、自分が犯した罪を償うには本当に死ぬしかなかった。

 男の眼球が眼窩から這い出るように押し出される。口から唾液とも胃液ともつかないものがこぼれ出た。内臓が酸素を求めて肥大する感覚がする。体が爆発して、気管も脳も体内にあるもの全てが飛び散りそうだった。男はそんな苦しみの中で、ただ純粋な謝罪を繰り返していた。

「ごめんなさい。生きてしまってごめんなさい。もっと早く消えれば良かった」

 そして男は意識を失い、この世の全てから切り離された。


 ――はずだった。


 彼は真っ暗な部屋の中央に立っていた。強烈な憎悪と怒りは、男が首を吊る以前より黒く深く広がった。膨らみ続けた激情はある高校のあるクラスを覆い、そこから巨大な眼が覗いた。その眼は憎悪と怒りをぼたぼたと零し落とし、一人の生徒を凝視する。

 許さない。

 お前ら全員許さない。

 特にお前だ。お前は全てを崩壊させた。

 罪に気付け、そして絶望しろ。

 絶望して、死ね。 





一.全員殺す

 午前五時のリビングに立つのは、部活の引退試合の日以来だ。あの朝とは違って、今は裸足のままだと冷える。靴下を履いてから窓を開けると、快晴の匂いがする風がカーテンを揺らした。それを胸いっぱいに吸い込む。絶好の「のびワイ」日和だ。

 お母さんとお父さんを起こしてはいけないので小さな音量でテレビをつけると、県内で起きた連続暴行事件に関するローカルニュースが流れていた。最初の被害者がうちの高校の卒業生だったのを思い出して顔をしかめる。せっかくの清々しい気分が灰色の靄に隠されそうになったのを、パンが焼ける音が防いでくれた。だめだめ、今日と明日は全部忘れるのだ、受験も酷い事件も……彼のことも。

私が通う県立駒場高校では毎年、三年生を対象に一泊二日で「卒業前クラス別宿泊体験学習会」が開催される。学習会といいつつ、実態はクラス別に受験前のストレスを発散するためのレクリエーションイベントだ。担任教師は同行するものの生徒の行動には口出ししない。生徒が受験前にのびのびワイワイできる最後の機会なので、「のびワイ」という通称で呼ばれている。稀に受験勉強を理由に欠席する生徒もいるようだけど、三年一組は一人残らず参加予定だ。

「一人残らず」。その言い方で合っているよね。

 うん、合っている。 

 そう自分に言い聞かせながら身だしなみの最終確認をし、ドアを開けた。遠足と同じく、家を出たときから家に帰るまでがのびワイだ。秋の心地良い空気に飛び込むように、マンションの階段を駆け下りる。爽快な気分で踊り場から踏み出そうとして目に飛び込んできたのは、べったりと広がる赤く黒ずんだ染みだった。

「ぎゃっ!」

 避けようとして右足を踏み外し、私はつんのめって階段の最上段から転げ落ちた。手の平、額、腹、膝の順番で地面に衝突する。全身の痛みにしばらく呻いてから、ゆっくりと体を起こした。擦りむいた手が痺れる。よろめきながら立ち上がり、階段に付いていた染みをよく見ると、それは何かから移ったと思われる錆だった。ここに住んで長いけど、こんなものは見たことがない。危うく大怪我になるような災難が、よりによってのびワイの朝に降りかかってくるなんて。――まさか、彼の呪い?

 前兆なくそんな考えが頭を過ぎり、私は午前六時のマンションで立ち尽くす。さっきまで気持ちの良かった風が、急に鳥肌の立つ冷たさに感じる。そんなわけない。呪いなんてないし、たとえ本当にあったとしてもきっと私にはかからない。

 彼は自殺して、死んだ。それだけ。


 集合場所の校門前には、六台の大型バスが停車していた。私たち一組は一日目、S県の遊園地に行き、人里離れた小さな旅館で一泊し、二日目は収穫作業を体験したのち牧場で遊ぶという計画になっている。C県に行く六組の友達と、「夢の国から帰ってこられなくならないでね」「そっちこそお化け屋敷で死なないでね」とじゃれあってからバスに向かった。受験勉強も追い込みに入るこの季節、唯一の息抜きであるのびワイを控えて三年生はここ数週間浮き足立っていた。一組も、まるでクラスメイトの死も呪いもなかったみたいにはしゃいでいた。彼は元々存在しないも同然だったから、本当に何もなかったのだと思えてしまっても仕方ないかもしれない。

「かーおるっ」

 一組のバスの前で手を振っているのは由里子だ。彼女とは一年生の頃から仲が良く、他愛のない話から将来についての相談まで心置きなく出来る。卒業してもずっと友達でいたい。

「一番後ろの列は男子に取られちゃってたけど、近くに座れるようにはなってるよ。UNOもトランプもある」

「ありがとう。酔い止め飲んどこう」

「薫なら吐いても良いネタになるよ」

「嬉しくないぞ!」

 こんな会話が出来るのもあと少し。のびワイが終わればいよいよみんな違う方向に進んでいく。だから余計な思考は持たずに、二日間を三十二人で目一杯楽しむのだ。

「いってえ!」

 バスの通路を進んでいたら、後列から大声が飛んできた。首を伸ばして見ると、ムードメーカーの祥が顔を歪めている。赤い血がだらりと指を伝っており、床にはUNOのカードが散らばっていた。

「なんだよこれ、紙でこんなに切れたことねえよ。まじで呪い」

 祥が口を噤んだのと、車内が酸素を失ったように静まり返ったのは同時だった。

 三年一組では今年の六月から七月にかけて、怪我を負った人や病気にかかった人が続出した。ねんざや骨折、靱帯損傷、盲腸、急性胃腸炎……由里子の腕にも、体育の授業でフェンスに引っかけて出来た長い傷跡が残っている。そんな一組の状況を横目に見て、二組の生徒が「彼の呪いなんじゃないか」と噂し始めた。当の一組は気にしていない風で、毎日教室には笑顔が絶えなかったし、みんな仲良しだった。一組の男子が二組の男子に「そんなのあるわけねえだろ」と吐き捨てているのを聞いたこともある。幸い私の身には怪我も病気も起きなかったから呪いに怯える日も彼について思いを巡らす日もなく、私は楽しい高校生活を送っていた。そうしているうちに二学期からは目立った怪我や病気はなくなり、気づけば噂も収束していた。

 だから、一組の生徒が「呪い」と、その影響を明らかに信じている語調で口にしたのは今日が初めてだった。見渡せばみんな顔面蒼白で、目が泳いでいる。呪いなんて気にしていなかったんじゃないの? あるわけないと笑ってたよね? それなのにこの沈黙は何なの? 

「おはよう。ん、どうかした?」

 凍った空気を変えたのは、バスに乗りこんできた殿崎くんだった。その整った顔立ちとスタイルはそこにいるだけで場の空気を溶かす。由里子は後ろから突然、高校入学からずっと片想いをしている相手の声が聞こえたものだから、固まっている。

「由里子さん、おはよう」

 殿崎くんは丁寧に視線を落として微笑む。由里子は「おはようっ」と慌てて顔を上げた。私は胸がじんわりと温かくなるのを感じる。この二人には時折こうやって微笑み合う、周りが立ち入れない僅かな時間がある。付き合ってほしいと殿崎くんに押し寄せている女子は学校中にいるけれど、私はこの二人の、自然に笑い合える関係がいつか実を結ぶような気がしている。

 気がつけば車内はいつも通りの賑やかさを取り戻しており、夏奈、恵理、知秋が「薫、こっち」と後ろから二列目の席から呼んでくれた。恵理は補助席を出していて、最後列の中央に座る高橋から「じゃーま」とちょっかいを出されている。私は席につくついでに「蹴ーるな」と高橋の手をはたきつつも、この席順を嬉しく思った。恵理は高橋が好きなのだ。

 バスが発進し、ふくよかなバスガイドさんがマイクを握った。

「駒場高校三年一組の皆さん、こんにちは!」

 私たちは遠足に心躍らせる小学生みたいに「こーんにーちはー」と返事をする。

「短い時間ですが皆さん三十三人と楽しいときを過ごしたいと思いま」

「三十二人です」

 元気を取り戻しかけていた車内の空気が再び凍った。その一言を放ったのは、担任の赤木先生だった。

「えっ?」

 戸惑って聞き返すバスガイドさんに、先生は「三十二人です!」と重ねて主張する。他責の念をたっぷり込めて。

「でも、先生入れて三十三人ですよね?」

「あっ……」

 余計なこと言いやがってという空気が流れる。「ふざっけんなよあいつ」と後方で隆幸が毒づいた。駒場高校は二年生から三年生はクラス替えと担任の変更がなく、二年生の四月の赤木先生は元気で溌剌とした人だった。今はその影もなく顔も腕も皺だらけで、白と黒がまばらになっている髪からは水分が抜けきっている。

 先生の勘違いにより、さっきの騒ぎの場にいなかった人も含め一組全員が、三十三人目になるはずだった名前を思い出してしまった。 

 彼の名前は松下静雄。三年の春休みに首を吊って死んだ、元クラスメイトだ。


 たぶん、私たちは酷いことをした。

 松下静雄は二年生の四月から目立つ存在だった。授業中ずっと体を揺すっていたり、休み時間は独り言を言っていたかと思えば会話を遮るようにクラスメイトに話しかけたりしていた。髪はぼさぼさで、細い目はどこを見ているかわからず、唇は唾液でぬらぬらしていた。最初は曖昧に相手をしていたクラスメイトも、次第に「うるさい」「きもい」と明確に彼を拒絶するようになった。そして六月、痺れを切らした二年一組の心は一つになった。松下静雄の存在を消そう、と。

 それから、相手にしないという動作すら見せない完璧な無視が始まった。松下静雄から話しかけられても次の授業について訊かれても、誰も応えなかった。クラスのメッセージグループからも外し、委員会決めや文化祭の係決めでは候補にも入れなかった。私も、最初は慣れなかったけれど、一人だけ口をきくわけにもいかないし、元より松下静雄を気味悪く思っていたので、いつの間にか視界から彼の存在を消せるようになっていた。赤木先生はその事態が明るみに出るとキャリアに傷が付くとでも思っていたのか見て見ぬ振りをしていたし、彼女自身も松下静雄を疎ましく思っていたようだった。平和は異分子の排除によって保たれると一組の誰もが信じて疑っていなかった。そうして夏休みが明けた頃には、松下静雄の存在は二年一組から完全に消されていた。一組は問題なく仲の良い、平和なクラスになった。

 しかし三学期になってその平和は破られた。正しく言えば、私の平和が。

 忘れもしない二学期の終業式。一人で帰路についていた私を「小山内さん」と聞き慣れない声が呼び止めた。振り返るとそこには、肩で息をする、毛羽だったダッフルコート姿の松下静雄がいた。離れていても唇が相変わらず唾液に濡れているのが見てとれた。

「ひっ」

 この場面を誰かに見られたら松下静雄と繋がっていると思われて、私まで存在を消されるのではないかという焦燥で全身が粟立った。後ずさり、きびすを返そうとしたら、彼はとんでもないことを言った。

「好きです、小山内さん」

 何を言われたのか、理解が出来なかった。直立不動になり、口をあんぐり開けているうちに、彼はもう一回「好きです」と言った。

 スキデス、オサナイサン――好きです、小山内さん。

そこでやっと言葉の意味に気づき、巨大な驚愕と拒絶の衝動に襲われた。松下静雄は口を結んでこちらを真っ直ぐに見ており、冗談ではないのは嫌でもわかってしまった。好き? 私を? 何で? 止めてよ。来ないで近づかないで関わらないで。あんた、そもそもいないのだから、近づきも関わりもできないでしょう。

 告白を好意的に受け取るわけはなかった。でも、とにかくこの場を穏便に済ませ、何もなかったことにするには「ありがとう」と言うしかなかった。彼の厚ぼったい瞼から覗く細い眼を見てしまい、鳥肌が立つ。私を狙い澄ますようなじっとりとした眼。私の内臓を掘り起こさんばかりの粘着質な眼。

「じゃあ」

 その眼に耐えられなくなって、私は身を翻して走り去った。さすがにこの対応でイエスと受け取る人はいないはず、ふられたのだとわかってくれと強く念じながら全速力で走った。冬休みはずっと、三学期になって教室で話しかけられたらどうしようという不安で押し潰されそうだった。三学期になっても一組の松下静雄への無視は当たり前のように続いていた。そんな中私は、松下静雄の視線をじりじりと感じ、近づいてきたら即座に逃げられるよう神経を張り詰めさせる日々を過ごした。見られているのを誰かに気づかれたら「松下静雄に好かれるような人間」という烙印を押されるのだと思うと、全身が粘膜で覆われるような感覚が続き、足が重くて歩幅が狭くなった。毎日気が休まらず苛立ち、それを周囲に知られないよう抑え込むのにまたストレスを募らせた。

 終業式の夜、ひとまずの解放感と、三年生になってもこれが続くのかという疲弊がない交ぜになりながらベッドに寝転んでいると、スマホが知らない番号からの着信を知らせた。取り寄せを依頼した本屋からかと思い、警戒もせず画面をタップした。そして一秒後にはそうしたことを後悔していた。

「も、しもし、小山内さん」

 電話の主は、松下静雄だったのだ。緊張からか興奮からか鼻息が荒かった。生温かい息がかかった気がして、どうしようもない拒絶からスマホを耳から遠ざけた。なぜ私の電話番号を知っているのかという恐怖で何も言えないでいると、松下静雄はやはり鼻息荒く言った。

「小山内さん、明後日の十八時、駒場駅前のミスドに来てくれませんか」

「なに、やだよ、何があるの」

 私は生まれて初めて嫌悪を丸出しにした。存在を消された人間と無理やり向き合わされているのだから、誰でもこんな反応になるはずだと思っていた。

「渡したいものがあるんです」

「なにっ」

「それは会ってから……明後日の十八時は大丈夫ですか」

「ミスドなんてだめに決まってるでしょ!」

 行く気もなかったけれど、万が一会わなければいけなくなったとしても、誰かに見られるかもしれない場所は絶対に避けたかった。

「じゃあ、どこならいいでしょうか」

 その食いつくような調子からして、直接会って金輪際近づかないでと言わないと連絡が来続けるのではないかと思った。三学期に味わった苛立ちと不安を今後一年間経験するか、それとも一時の嫌悪を我慢して二度と私に眼を向けないでと念押しするか、どちらかを選ばなければいけないとしたら。

 最悪だ。苦虫を噛み潰したような心情になりながら、私は諦めのため息をついた。

「……商店街過ぎたとこの不動産屋。そこの裏なら」

 指定したのは出来るだけ人通りが少なく、奥まっていて目撃もされない場所。走れば開けた商店街に出られるから、襲いかかられたとしても逃げやすい。

「わかりました。十八時にお願いします……待っています」

 しかし「待っています」と言われたのと同時に「やっぱり行きたくない」という猛烈な拒否反応が湧き上がり、断ろうと息を吸った。だけどその間に電話は切られてしまっていた。私はどっと疲れてベッドに倒れ込んだ。一組は人を消すことが出来るクラスだ。松下静雄と一緒にいるところを見られたらほぼ確実に消される。大丈夫、クラスメイトに見られる偶然なんてあるわけない、私の高校生活は終わらない。そう必死に言い聞かせても、濁水が口にごぼごぼと入ってくる感覚で気分が沈んだ。そのとき、握ったスマホが震え、由里子からのメッセージの着信を伝えた。

〈明後日、夜ご飯行かない? こないだ話してたカレー屋さんの予約が取れそうなの!〉

 考える前に親指が動いていた。

〈行く!〉

 そして私は松下静雄との約束を破った。当日は由里子とのお喋りが楽しく、約束を破ったことすら忘れていた。その後も、罪悪感より寧ろ、三年生になったら下駄箱に謝罪の手紙を入れる決意をした自分への誇りの方が大きかった。

 春休みが明け、二年一組は三年一組となった。始業式に出席していなかった赤木先生が教室に姿を見せたとき、そのやつれ方と青白さにみんなぎょっとした。そんな私たちを血走った目で睨み付け、彼女はぐったりと告げた。

「松下くんが亡くなったそうです」

 沈黙。

「あんたたちがあんなことしたから」

 思考の停止。

「あんたたちが首を吊らせたのよ」

 誰かが息を飲んだ。先生は目を剥き、教卓に両手を打ち付けた。

「死んだと聞かされてから松下くんのお家とは連絡が取れていません! 家も空っぽ! このまま静かな保証なんてない。訴訟や会見を開かれたらあんたたちも終わりだから!」

 このまま静かであれば問題はないという本音が漏れ出たヒステリックな叫びだった。赤木先生は本気で、松下静雄の自殺は生徒のせいだと思っているようだった。クラスメイトを亡くした生徒のケアなんてまるで頭に無いらしく、「心がないんだわ」と捨て台詞を残して教室を出て行った。

 魂が抜き取られたみたいに、全身の力が抜けていった。松下静雄が死んだ。首を吊って死んだ。私たちが存在を消したから? 私が……約束を破ったから?

 いや、誰も暴力を奮ったわけではないし、私も何かしたわけじゃない。きっと違う、私たちが原因じゃない。

 教室は、それこそ死んだような沈黙に覆われた。互いに表情を探りもせず、私たちはひたすらに「自分のせいじゃない」と自らに言い聞かせていた。ぽつりぽつりと椅子を引く音がして、その日は会話なく終了した。

 しかし翌日登校してみると、教室は明るい話題と笑顔が溢れた、二年生のときと全く変わらない雰囲気に戻っていた。全員、「自分のせいじゃない」という意思を固めたのだろうと思い、私も安心出来た。みんながそう思えるのなら、彼に好かれていた私がそう思っても問題ないだろうと思えたのだ。六月頃には例の「呪い」が勃発したけれど、それもみんなで乗り越え、松下静雄の自殺そのものが夢だったのではないかと思うほど平和な時間が戻っていた。かろうじて現実だと知らしめていたのは、日に日に白髪と顔の皺が増え、常に苛立ちが立ちこめていた赤木先生の姿だった。


 元々、松下静雄の存在は無かった。だからいなくなっても何も変わらなかった。そして松下静雄の呪いなんて誰も信じていないはずだった。

 なのに、なぜ今になってこんなにも彼はくっきりと存在しているのか。

「こ、高速入った。レク始めよ!」

 ばっちり化粧をした真衣の一声をきっかけに、全員参加のレクリエーションが始まった。カラオケでは懐メロを合唱したり、熱烈なリクエストに折れた殿崎くんが歌ったバラードに酔いしれたりした。伝言ゲームでは普段はおとなしい金田が罰ゲームで一発芸をやったり、絵しりとりではクリさんが描いた絵がとても上手で、天井に備え付けられているテレビの画面に貼っておいたりと、先ほどまでの張り詰めた空気を掻き消すようにレクリエーションは盛り上がった。

 休憩で入ったサービスエリアでは、カフェの季節限定ドリンクを買った。私たちのバスは他の観光バスに埋もれるように停まっていて、ナンバーを覚えていなかったら迷って置いていかれてたねと由里子と笑い合った。車内に戻ると、後部座席に座る男子の一人、藤原が「その飲み物なに?」と話しかけてきた。

「マロンクリームラテ」

「へえ、甘そうな響き」

 ちょっとあげる、と言おうか迷う。藤原も「ちょっとくれ」と言うか迷っているように見える。逡巡しているうちに夏奈に「薫のやつ一口ちょうだい」と言われたので、私はそちらにドリンクを差し出す。藤原は既に川井とテレビドラマの話をしていた。

 藤原とは去年の秋に隣の席になってから時折喋る仲になって、今年の夏にまた隣の席になったときにはふざけてハイタッチした。その時期、彼は寝不足だったようで授業中によく居眠りをしていた。悪い夢を見ていたのか険しい寝顔をしている日が多く、可哀想だったけれど、あまり教室で見ないその表情を見られるのは隣の席の私だけだと思うと少し得をした気分になった。印象的だった朝もある。登校するとすぐ、藤原から「小山内、ドリブルもパスも上手いな。小回りきいて、身のこなしが綺麗で。シュートの狙いもどんぴしゃだったじゃん」と褒められたのだ。その前日は雨で、藤原が属していたサッカー部が体育館で筋トレをしていたのは知っていたけれど、まさか汗だくで走り回っている私の姿を見られていたとは思わなかった。恥ずかしくて「筋トレさぼって女バス見てたの?」と茶化すと、藤原は笑って「女バスじゃなくて小山内を見てただけ」と言ってのけたのだった。あの朝があった翌々日に席替えがなければ、由里子や恵理と同じように、私も恋をしていたかもしれない。

 バスの席についたら、クリさんが背伸びをしてテレビに貼られた絵を剥がそうとしているのが見えた。知秋が気づいて「もったいなーい」と言うと、クリさんは「恥ずかしいから」と顔を赤くした。いくら上手くても貼り出すのは仰々しすぎたか。手伝おうかと思ったけど、既にクリさんは絵を剥がし終わっていた。高橋がまた「恵理、何かあったら俺たち逃げらんねえじゃん」と笑いながら補助席を蹴っていたので、私は「前の座席を蹴ってはいけません」と映画館の館内放送を真似て言った。恵理は「何かってなに」と笑っていた。

 しかしその「何か」は、バスが発車して十分後に本当に起きた。

 それは一瞬の出来事だった。聞いたこともない破裂音が耳をつんざいた。夏奈が広げたトランプが浮き、恵理がフタを開けていたドリンクが宙にとぽんと投げ出された。あ、と思っているうちに体が浮いて、直後また座席に叩きつけられた。激しい縦揺れにシートベルトが腹部に食い込む。バスは蛇行し、悲鳴とどよめきの洪水が起こる。バスガイドさんの「落ち着いて下さい、停車します!」というアナウンスがあっても混乱は収まらない。私は必死に前の座席の肩を掴む。人生で初めて、死ぬ、と思った。死とは今朝階段から落ちたときの何倍痛いんだろう。私の存在が一切消えるとはどういう状態なんだろう。怖い。

 ふと思ってしまった――もしかしてこれが松下静雄の呪いなのではないか。やっぱり一組が無視したから自殺を選んだの? 恨んでいるの? 今まで私は呪わなかったのにこんな風にして殺すの? もしかして、この瞬間にぐちゃぐちゃに殺すために取っておいたの? 助けて、死にたくない。

 そう思った直後、バスはやっと路側帯に停車した。助かったという実感が車内にじわじわと広がっていく。

 原因はタイヤのバーストという現象だったらしい。前日の確認作業では全く問題なかったのに、と運転手さんはひたすら頭を下げていた。次のサービスエリアまでは距離があったので、私たちは路側帯で代替のバスを待つことになった。三十二人の生徒たちには、大惨事を免れた安堵もありながら、死に直面したという強烈な体験による疲弊が漂っていた。誰一人として口を開かず、高速で過ぎ去っていく車をどんよりと眺めている。行き交う車の排気ガスと共に、「松下静雄」と「呪い」という二つの単語が体内に充満していく。

ばれてはいけない。私が彼に好かれていて、しかも約束を破ったことがばれたら、みんなを殺しかけたこの呪いも私のせいになる。私は特別な人間ではない。ただみんなと同じように松下静雄を無視していた一人なのだ。

 ピロン。

 バッグに入れていたスマホが鳴る。それだけだと全くおかしくないのだけど、不思議だったのは、みんなの携帯電話も連続して鳴り始めたことだった。最初に「は?」と言ったのは川井だった。そこから連鎖的に「え」「うわっ」とどよめきが起こる。私も急いでスマホを取り出した。

「え?」

 画面に表示されていたのは、メッセージアプリで「三十三人目」という名前の人が新しい友達に登録されたという通知と、その「三十三人目」からメッセージが来たという通知だった。スマホを持つ右手が力み、辿々しい動きでメッセージを開封する。

〈償って自覚して絶望して死ね〉

「三十三人目」の正体に気づき、息を飲み、目を瞑った。何だよこれ、やだあ、と悲愴な声がそこかしこから上がっている。

「あんたたちうるさいっ!」

 赤木先生のヒステリックな怒号が飛ぶ。充血した目をぎょろぎょろと動かし、歯を剥き出しにした先生も、片手にスマホを持っている。「お前がうるせえよ」と誰かの舌打ちが聞こえ、またざわめきが戻った。私の左隣では由里子が口を押さえながら「忘れてないよ、忘れたわけじゃないんだよ」と泣きそうになっており、その向こうでは夏奈が「一生って。止めてよ」と呟いている。右隣では隆幸が「怯えてねえよ」と顔を歪めていた。そこで私は気がついた。

「由里子、嫌じゃなければ、メッセージ見せてもらってもいい?」

「うん」

 由里子のスマホに表示されていたのは、「三十三人目」からの〈忘れるな一生怯えて一生償え〉というメッセージだった。まさかと思い、半歩後ろに下がって川井のスマホの画面を覗き見る。そこには由里子と同じ文面があった。

 私だけ、内容が違う。

 のびのびワイワイなんてフレーズ、どこか遠くにいってしまった。


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