第25話

Chap.25


 「今の…本当なの?」

 メラニーの姿が木々の向こうに小さくなって消えていくのを目で追いながら、春花は誰にともなくつぶやいた。誰も答えないので、目の前にいるユマを見る。ユマはいつもに似合わず怯えたような顔をしていたけれど、息を詰めるようにして春花の視線を受け止めて頷いた。

「…うん。本当」

「死んじゃった人達がいる世界っていうのがあるの?」

「うん」

「死んじゃった人達に会って話せるってこと?」

「うん、そう」

「…ここの人たちは行かれるけど、私たちは行かれないの?」

「そう」

「近くなの?」

「…一番近い入り口が、ここから歩いて十分くらいかな」

「そこに…ハルもいるの?」

「うん…そのはず」

「……」

 ハルが、歩いて十分のところにいる…。

 歩いて十分。家から小学校までの距離だ。

 そう思った途端、記憶の彼方から驚くほどはっきりと声が聞こえた。

 ——ルカ、支度できた?行くよー!

 ——ちょっと待ってー!

 ——早く!遅刻しちゃうよ。

 ——今行くからちょっと待っててー!

 ほぼ毎日そんな調子だった。ごくごくたまに春花が「ちょっと待って」と言わずに「はーい」と玄関にやってくることがあり、そうすると天変地異の前触れだとからかわれた。大抵は俊も一緒に待っていて、「今行く」と言いながら「待ってて」と言って待たせるなんて理屈に合わないとぶうぶう言われた。

 ハル…。

 なんだか、何をどう考えていいのかよくわからない。

 記憶の声の余韻をぼうっと追っていたら、そこにメラニーの声が重なった。

 ——私はいつでも会いたい時にあんたの大事なお兄さんに会えるけど、あんたは絶対に会えないの!

 ——いい気味だわ!うんと悲しんで泣けばいい!

「俺たちに何も言わなかったのは、規則だから?」

 すぐ後ろで俊の声がした。リオが答える。

「そう。この世界の全ての住人が知っている最も重要な規則の一つだ。『死者たちの世界』のことを決して客人に知らせてはならない、って」

「俺たちの心にさざ波が立って、想像や創造に影響するといけないから?」

 皮肉な調子で言った俊にリオが真摯な口調で答える。

「行かれないのに知らせても、悲しい思いをさせるだけだからだよ」

「なんで俺たちは行かれないの?」

「それは…僕にはわからない。隠してるわけじゃない。本当に知らないんだ。もう今更何を隠そうとも思わないよ。知ってることは全部きちんと話す。春花、」  

 リオに呼ばれて、春花はリオの方を振り向いた。

 リオの隣に立っている俊と目が合った。

 次の瞬間、何がどうなってそうなったのかはわからないけれど、気がついたら俊の腕の中で泣いていた。

「春花…」

 リオがいたわるように言う。

「メラニーの言ってたことは本当じゃない。彼女は春樹には会えない。『死者たちの世界』に行って会えるのは、自分に関係のある相手だけだ」

「…あのクソ女」

 俊が唸るように言う。俊の腕の中にいるからか、その声が耳からだけでなく骨を伝わって響いてくるような感じがする。

「同感だよ」

「同感っ」

 リオとユマの声が同時に言って、俊がちょっとだけ笑ったのがわかった。

「…そうか、じゃあ『失くしたものたちの世界』みたいな感じなんだ」

「そうだね、あちこちに入り口があるところも似てる」

 そこへ、 

「みんな?そこにいるの?」

 向こうのほうからエルザの声がした。ユマが走っていく音がして、しばらくしてまた戻ってきた。

「…肌寒くなってきたから、家の中に入ろう?ママがホットサイダー作ったからいらっしゃいって」

「…ルカ、大丈夫か。歩ける?」

 俊が腕を少しゆるめたので、春花は急いで身体を起こし、ジーンズのポケットから白地に真っ赤なヒナゲシの模様の入ったハンカチを取り出し、顔を拭きながら、鼻声で

「大丈夫」

 と答えた。だいどーぶ、と聞こえた。イケメン男子二人の前ではちょっと鼻はかめない。

「行こ」

 ユマが春花の手をぎゅっと握って、早足で歩き出す。ちょっと来たところで、ポケットからティッシュを出して手渡してくれた。

「はい。鼻かんで」

「…ありがとう」

 女子にモテる女子は、やっぱりこういうところも普通の女子と違うのだなと感じ入る。ありがたく鼻をかませてもらいながら、ユマみたいになりたいなと改めて思った春花は、

「怒ってる?『死者たちの世界』のこと黙ってたこと」

 神妙な顔で訊かれて、首を横に振った。

「ううん。規則なんだし、それに…リオが言ったみたいに、知ったところで行かれないんだから、…悲しいだけだし」

 ちょっとため息をついて心の中を探ってみる。

 悲しい、という言葉が今の自分の気持ちにぴったりするかどうかはよくわからなかった。あんなふうに意地悪く攻撃されたショックで、まだ頭も心もビリビリと痙攣しているような、麻痺しているような感じがする。さっきあんなふうに泣けてしまったのも、『死者たちの世界』云々より、ただただ意地の悪いことを言われた反応だったのじゃないかと思う。喧嘩をした子供がうわーんとその場で泣くように。

 …俊ちゃんに抱きついて泣いてしまった。

 今更ながら顔が熱くなる。

 どうやってああなったんだろう。全然覚えてない。

 戸惑い顔の俊にがっしりしがみついて、びーびー泣く自分の姿が浮かぶ。

 …なんてみっともない。

 俊ちゃんと、初めてのハグだったのにな…。

 そう思った途端に俊の身体の感触を思い出して全身カチカチ山になっていたら、ユマが心配そうにこちらを見た。

「大丈夫?」

「う、うん。なんだかちょっと、ショックで…」

 色々な意味で。

 ユマが腹立たしげに鼻を鳴らしてつぶやいた。

「あいつ、引っ叩いてやればよかった」

「…ユマは、行ったことあるの?その世界」

「ううん。十二歳になるまでは行かれないことになってるんだ」

「そうなの?」

「うん。…やっぱり、ある程度精神が成長してないと色々よくないから、ってことみたい」

「…そうなんだ」

 色々よくないってどういうことだろう。実際の世界と死者の世界が混同しちゃうとか、そういうことかな…などと考えているうちに、庭まで戻ってきた。柔らかい光の灯ったテーブルの前に一人で座っていたアリが、急いで立ち上がってこちらへやってくる。

「春花…大丈夫?」

「はい」

 そっと肩に添えてくれた大きな手の温かさに、なぜか身体がほっとする。

「ちょっと身体が冷えてるみたいだ。すぐ家に入った方がいい。母が熱い飲み物を用意してるから」

「行こ。ママのホットサイダー、おいしいんだよ」

 ユマに続いてフランス窓を入りかけた時、低い声で交わす俊とアリの会話が聞こえた。

「俺のせいで…」

「俊、そんなふうに考えちゃだめだ。君はメラニーがどんな子が知らなかったんだから仕方がないだろう?」

「でもあいつ、前にもルカに酷いこと言ったことがあったんです…。ルカはあいつのこと嫌がってたのに…」 

 自分に聞かせるつもりではないことが感じられたので、春花はフランス窓を背後でそっと閉めた。


 「まったく、あのクソ女」

 キッチンに入ったユマが開口一番憎々しげに言ったので、ホットサイダーを注ぎ分けながらエルザが眉をひそめた。

「言葉遣い!」

「おクソ女?」

「ユマ!」

「だって、ホントのことだよ。あいつにぴったりの呼び名」 

 エルザは険しい顔でため息をついたけれど、それ以上何も言わずに作業を中断して春花をハグした。

「こんなことになるなんて…ごめんなさいね。あの子を止めるべきだったわ。ちょっと挨拶だけしたいって言ったから、行かせてしまった…。本当に本当にごめんなさい」

 エルザの声が震えていて、春花は慌てた。

「そんな、エルザのせいじゃないです」

「ママのせいじゃないよ」

 ユマも言って、後ろからエルザをハグする。

 エルザは指先で涙を拭いながら、辛そうに眉を寄せた。

「ありがとう。でも私の姪が春花に…潤の娘にこんなひどいことをするなんて…」

「姪って言ったって、ママと血がつながってるわけじゃないじゃない。他人だと思えばいいよ、あんな奴」

「そういうわけにはいかないわ。座って」

 小さく苦笑してそう言うと、エルザは大ぶりのガラスのマグカップを春花とユマの前に置いた。深い琥珀色をしたホットサイダー。オレンジの輪切りとシナモンスティックが入っている。湯気と共に豊かな果物とスパイスの香りが立ち上って、春花は深く息を吸い込んだ。

「いい匂い…!おいしそう」

「熱いから気をつけて」

 エルザも自分のカップを持ってきて座った。沈黙。なんとなく、三人共に何を話したらいいのかわからないような雰囲気だ。

「あれ、そういえば伯父さんは?」

 サイダーをふうふう吹きながらユマが沈黙を破った。

「花火の途中で大使館に戻ったわ」

「そっか。…他の男の連中は何してるのかな」

 エルザが顔をしかめた。

「そんな呼び方やめなさい」

「殿方たちは一体何をなさっていらっしゃるのかしら」

 春花がくすくす笑っていると、廊下に足音がした。

「あら〜、いらっしゃいましたわ〜」

 ユマが甲高い作り声で言っているうちに、「男の連中」がキッチンに入ってきた。エルザが立ち上がりかけるのをアリが制する。

「僕がするから」

 アリが調理台の方へ行ったので、アリの後ろに立っていた俊と目が合った。明るい部屋の中だからなのか、気持ちが落ち着いた後だからなのか、ハグの後の五倍くらいドキドキして顔が赤くなる。俊もうっすらと赤くなりながら、何やらギクシャクと隣の椅子に座ったと思ったら、

「ルカ、ほんとにごめん」

 頭を下げた。

「俺のせいでルカがあんなこと言われて…。悪いのは俺なのに、ルカがあんな目にあって…。ごめん」

 春花は慌てて首を振った。

「そんなことないよ。俊ちゃんは悪くない」

 はっと思いついて、にこりとしてみせる。

「ほら、私だって、この前メラニーのこと我儘で意地悪な勘違い女って呼んだじゃない?だから仕返しされてこれでおあいこってことだよ」

「そんなこと言ったの?!」

 サイダーをカップに注ぎ分けていたアリが、振り向いて大げさに目を見開く。

「そうそう、そうだった」

 リオがくすくす笑った。

「そりゃすごい。まだ生きてるなんて奇跡だ」

「あーその時のあのクソ女の顔見たかったなあ」

「ユマ!」

「はいはい。あのおクソ女の顔…」

「汚い言葉を使うのはやめなさい!」

「…すみません、僕が最初に言っちゃったんです」

「えっ、あら、いいのよ、そんな」

「俊だとよくって、私はだめなの?フェアじゃないよね」

「あなたは女の子でしょ」

「男女差別はんたーい!」

 キッチンに溢れる笑い声に包まれながら、琥珀色に輝く熱々のサイダーをそっと一口飲んだら、豊かなフルーティーさとスパイシーさと温かさがふわりと口の中で広がって、じんわりと身体中に浸透していった。みんながいてくれるありがたさを春花はしみじみと感じた。 

 ねえ、ハル…。

 ハルも一緒にいるよね。ここにいるよね。

 今までとは違う、なぜか妙に薄ら寒い、空っぽな感触が返ってきたような気がして、春花は急いでもう一口ホットサイダーを飲んだ。

  

 エルザが二階に上がった後、五人はクッキーと紅茶をお供に居間のあっち側とこっち側に分かれてお喋りを続けていた。リオとアリは真剣な顔をしてメッセンジャーの試験について話している。春花とユマと俊は、こっちの学校の話だのあっちの学校の話だの、バレーボールの話だのボートの話だのをしていたが、やがて俊が少しためらうように言った。

「…ルカ、『死者たちの世界』の話するの、嫌?」

「ううん」

 春花は急いで言った。

「私ももっと知りたいなって思ってた」

 二人してユマを見る。ユマはちょっと困った顔をした。

「私もあんまりよく知らないんだ。行ったことないし」

 俊が目を丸くする。

「そうなの?」

「十二歳にならないと行かれないって決まってるの」

「へえー。なんで?」

「精神的な問題。理解できないとか、依存するようになっちゃうとか、色々」

「ああ…、まあそうだろうな…」

 俊が考え深げに頷く。

「それってさ、その…本当に死んじゃった人と会えるの?」

「うん、そうだよ」

「つまり、なんていうか…、霊媒師とかそういうのを通してじゃなくて?」

 ユマがきょとんとする。

「霊媒師って何?」

「死んじゃった人の霊を呼んできて、その霊と普通の人間が会話できるように通訳する人」

 ユマが疑わしそうな顔をした。

「霊?本当に通訳できるの?」

「俺は信じてない。イカサマだと思ってる。でも信じてる人も結構いてさ、そういうのにお金払ったりして、死んじゃった家族とか恋人とかと会話できてるって思い込もうとするわけだ」

 ユマが眉をしかめる。

「ひどいんじゃないの、それ。大事な人ともう会えない人たちの気持ちを、お金儲けのために利用してるってことじゃない」

「まったくだよ」

「…でも信じてる人たちにとっては、ありがたいことなんだろうね、きっと」

 春花が呟いて、ユマと俊が一拍置いてからため息をついた。

「…そうだね」

「…だろうな」

「私もそういうのは信じてない。でも…、たとえば、もしそういうインチキやってる人が来て、ハルが私と話したいって言ってる、なんて言ったら…」

 春花は考え考え言った。

「…怪しいなって思っても、でもやっぱり聞いてみずにはいられないと思うし、それらしいこと言われたら、信じちゃうかもしれない」

 ユマを見る。

「こっちじゃ、霊媒師なんてものは存在しないんだね」

「うん。初めて聞いた」

「…そうだよね。誰かが死んじゃうイコールその人と会えなくなるっていうわけじゃないんだものね。それって…」

 魂の底からため息が出る。

「…めちゃくちゃ羨ましい」

 死んでしまってもいつでも会えるなら…、それじゃこの世界の『死』ってなんなんだろう。

 春花の気持ちを読んだように、俊がつぶやいた。

「ここでは『死』って悲しむようないことじゃないのかもしれないな」

「いや、悲しいことだよ、やっぱりね」

 アリが会話に加わった。

「だって、会えるのは『死んでしまった』その人だから。『生きている』その人じゃない。もう一緒の世界にはいられないその人であり、一緒の時間の中にいないその人であり…。会うたびにそれを実感するのが辛いからあまり会いたくない、って言う人たちも結構いるんだよ」

 春花はアリの言ったことを頭の中で反芻してみた。一所懸命想像してみる。もう一緒の世界にいられないハル。死んでしまった、生きていないハル…。よくわからない。

「一緒の時間の中にいない…ってつまり、その人はもう年を取らないっていうことですよね」

 俊が訊く。

「うーん、まあ、そうだね」

 じゃあ、私が大人になっても、ハルはずっと十四歳のままなんだ…。でも、それがなんだっていうんだろう。何が辛いっていうんだろう。そんなことが辛いからあまり会いたくないなんて…。全然理解できない。

 私だったら、会いたい。

「伯父の…息子と妻が亡くなったのは知ってる?」

 アリが低い声でためらいがちに言った。俊が頷く。

「十年くらい前ですよね」

「そう。パトリックは僕と同い年でね。まだ十歳だったのに、病気で亡くなった。ついこの前まで元気で一緒に遊んでたのが、ちょっと具合が悪くなって入院したと思ったら、あっという間に…。僕はそんな深刻な病気だって知らされていなかったから、すぐに元気になってまた一緒に遊べると思ってた」

 アリは俯いて深いため息をついてから続けた。

「伯母はそのひと月くらい後に亡くなった。ショックと悲しみのあまり、衰弱して亡くなったんだ」

 春花の胸の奥がぎゅうっとなった。

 一ヶ月。どんなに辛いか知っている。

 でも…私はこうして生きてる。アリの伯母さんは息子さんに会えたはずなのに、どうして?

 春花の無言の問いかけに答えるように、アリが静かに言った。

「伯母は毎日毎日『死者たちの世界』を訪れてパトリックに会っていたそうだよ。でも、いや、もしかして『だから』と言うべきかもしれないけど、悲しみのあまり死んでしまった。人の心は…色々だ。死んでしまった人に会えることで慰められる人もいるし、…そうじゃない人もいるんだ」

 


  

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