現在④

「わたしには上のほうから銃声がしたように聞こえたのだが、みんなはどうかね?」辻本が平静な口調で尋ねた。

 蒼介が顎を引く。「俺もそう思います」

「ええ、そうね」凛香子も首肯する。「ほとんど真上と言ってもいいと思うわ」

「わ、わたしもっ、そっちから聞こえたっ」顔を青くした甘露が、舌をもつれさせながら言った。

 同じく不安そうな顔の有栖が無言でうなずいた。 

「──本当に銃声だったのかな」会話の流れに逆らうように疑問を呈したのは上杉だ。「現実的じゃない」彼は、辻本さん、と呼びかけ、「この島にいるのはサークルの参加者と小熊さんだけなんだよね?」

「ああ、それは間違いない」

 上杉は辻本の肯定を受けて一度うなずき、「それならさっきの音は桐渓さんが原因ってことになる。彼が銃を持ち込む理由は想定しづらいし、今このタイミングで発砲する理由はもっとわからない。銃声と考えるといろいろと整合性が取れなくなるよ」だから違うんじゃない? と軽い調子で結んだ。

 たしかに上杉の言うことはもっともだと思う。とはいえ、常識に拘泥こうでいして最悪の可能性──例えば第三者による襲撃など──を想定しないのはよろしくない。

 だから蒼介は、「……岳大君に話を聞くのが先か」と言って立ち上がった辻本に待ったを掛けた。

 仮に第三者の襲撃があったのだとしたら撃たれたのは桐渓ということになる。その場合、銃を持った殺人犯が近くに潜んでいるかもしれない。桐渓を捜すにしてもせめて複数人で向かうべきだろう。

 この、蒼介の説明に大きな動揺を見せたのは甘露と有栖だった。

「冗談だよね? 刑事の蒼介さんが言うと笑えないよ」第三者による殺人なんてのはタチの悪い冗談だと決めつけているような口ぶりだが、震える声と硬い表情からは不安で仕方がないという甘露の心が窺えた。

「ぼ、僕は行かないからっ」よほど恐ろしいのか、有栖はわめくように拒絶の言葉を口にした。

「オレもパス。ここで待ってるよ」上杉も残るようだ。

 有栖がほっとした表情を見せる。殺人犯がいるかもしれない場所になど行きたくないとは言ったが、一人きりになるのも嫌だったのだろう。

「ふむ、では夢生君とハル君には食堂で待っていてもらおう」辻本は言う。「ほかに行きたくない人はいるかね?」

 有栖と上杉以外のサークルの参加者全員が探るように顔を見交わす。が、誰も何も言わない。みんな桐渓を捜しに行く気になっているのだろうか。

 そんな中、

「……あのぅ」小熊がおずおずと右手を挙げた。「わたしはどうすればいいでしょうか」

 あくまで職務中ということなのだろう、自分がどうしたいかではなく雇用主の意向に従うつもりのようだ。

「そうだな」辻本は顎をひとこすりし、指示を口にした。「歩君はここに残ってくれたまえ」

「わかりました」

 念のため入り口と窓には鍵を掛けておくように、との辻本の言葉に、小熊は不安そうに眉を曇らせながらうなずいた。

 蒼介たちが食堂を出ると、小熊が入り口の扉に施錠したのだろう、間を空けずして金属のぶつかる音が聞こえた。

 蒼介、雫由、辻本、凛香子、甘露の五人が、銃声らしき音の発生源と思われる場所、すなわち二階と三階に向かう。

 雫由が、「わたしも一緒に行く」と言い出した時には、彼女に甘い蒼介もすぐには首を縦に振らなかった。しかし、結局は蒼介が折れ、雫由も同行することとなった。

 不安は不安だが、仮に館に第三者が侵入しているとすると、極端なことを言ってしまえば食堂にいたって危険はないとは言えない。むしろ人数を考えればこちらのほうが安全かもしれない。それに目の届く所にいてくれたほうがよくよく考えると安心できる──蒼介はそんなふうに自分を納得させた。

 桐渓の部屋のある三階に着いた。先ほどとは違って日が完全に沈んでいるため人工的な光だけが廊下を照らしている。

 廊下を進み、桐渓の部屋の前まで来た。ドアは閉じられ、中から音はしない。

 コンコンコンと軽めにノック。

「……」

 しかし、返答はない。

「桐渓さん、いませんかー」と声を上げてみるも無音が返ってくるだけ。

 ドアのレバーハンドルを押し下げてみる。抵抗なく動いた。鍵は掛かっていないのかもしれない。仮にそうだとすると施錠もせずに外出しているということだ。いよいよもって怪しい。

 全身に緊張が広がるが、努めて平静を装い、ドアを押す。しかし──、

「……開かない」蒼介はつぶやいた。もう一度押してみるが、結果は同じ。

 振り返って辻本を見ると、

「キャビンフックだけが掛かっているのかもしれない」

 彼はそう言ってから確かめるようにレバーハンドルを上下させた。「このドアは鍵を使って施錠するとレバーハンドルが固定されるのだが、これはそうなっていない」

 ということはやはり辻本の言うとおりキャビンフック──簡易的なフック状の金具──による施錠のみがなされているのだろう。

 通常、キャビンフックは外からは掛けられない。素直に解釈するならば桐渓は部屋の中にいるということになる。

 蒼介はもう一度、今度は先ほどよりも強くドアを叩き、「桐渓さーん、大丈夫ですかー?」と声を張った。

 が、反応はない。胸騒ぎが激しくなる。

 凛香子がぽつりと洩らす。「密室と言うにはお粗末がすぎるわね……」

「どういうこと?」甘露が聞いた。

「これくらいなら氷を使えば簡単に密室らしきものは作れるという意味よ」でも、と挟み、「わたしはこのレベルのものを密室とは認めたくないわ」もっと不可能性を演出しないと読者は釣れないもの、とミステリー作家らしい言葉を続けた。

「──つまり、凛香子君は岳大君が何者かに殺害されている可能性が高いと考えているということかね?」辻本の質問。

「そこまで強くそうだと思っているわけではないわ。あくまで仮定の話よ。わたしだって密室殺人なんてものがそうそう現実で起きるわけがないとは思ってる。トリックとも呼べないような陳腐なトリックだとしてもわざわざそんな手間を掛けるメリットのあるケースは極めて少ない」凛香子はここで、そうでしょう? とでも言うように蒼介を見た。うなずくと、やっぱりそうよね、と彼女はつぶやき、続ける。「ただ、何て言えばいいのか──そうね、職業病のようなものかしら。ついミステリー的なものの見方をしてしまうのよ」

「──でもその可能性もゼロじゃないんでしょ?!」甘露が詰問するように尋ねた。

「それはそうだけれど……」

 凛香子の言葉を聞いた甘露は、辻本に目を移し、「このドア、何とかして開けられないですか?」

「わたしと蒼介君が体当たりすれば強引に開けることはできるだろうが──」辻本は蒼介に視線をやった。やってくれるかね? と目が問うていた。

 正直これは助かった。蒼介としてもドアをぶち破るつもりだったのだ。ただ、ここは辻本の館だ。所有者である辻本に拒否されてしまった場合、説得しなければならなくなってしまう。口の上手くない蒼介にはそれをしなくてよくなったのはありがたかった。

「俺一人でも大丈夫ですよ、それなりに鍛えてるんで」辻本の体調に配慮し、そう言った。「皆さんは少し下がっていてください」

 蒼介以外の全員がドアから少しだけ離れる。

 みんなに見られながらというのも変な感じだな。

 そう思いつつもやることはやる。蒼介は勢いよくドアにタックル。痛みはあるが、努めて平気な顔を作り、一回、二回、三回、そして四回目──バンッ! という大きな音と共に弾け飛ぶようにドアが開いた。

 部屋の中は、しんと静まり返っているが、電灯はいている。入り口からパッと見た限り、異状は見られない。

 全員で中に入る。

 まず目についたのは、床に転がるひしゃげた金具──キャビンフックだ。ドアを開けた時に飛ばしてしまったのだろう。

 それから部屋をひととおり──シャワールームやクローゼット含め──見たが、変死体や血痕はおろか争った形跡すらない。

 杞憂だったのだろうか?

 などと楽観はできない。まだ調べていない、それでいて人一人がいてもおかしくはない場所が残っているからだ。

「……」蒼介は無言でカーテンの閉められた掃き出し窓に目をやった。

 ベランダに誰かがいるかもしれない。あるいは、何か・・があるかもしれない。

 刑事部捜査一課の刑事で、ほかの職業に比べればグロ耐性があるとはいえ、できればあまり見たくはない。蒼介は、ヤバいもんは何も出てきませんように、と祈りながらカーテンを開けた。

「──っ!」

 そこには桐渓がいた。しかし、彼は顔を横に向けるようにしてうつ伏せに倒れ伏していて、まったく動いていない──呼吸をしている気配はなく、光のない瞳は開かれたままでまばたきもしていない。そして、頭部を中心に血が広がっている──クソッ! 何で嫌な予感ってやつはこうも当たっちまうんだよ!

「う、そ……」

 振り返ると、泣き腫らしたような目を見開いて口に手を当てた甘露が、驚愕きょうがくの表情の凛香子が、眉間に深いしわを作った辻本がこちらを見ていた──雫由だけは負の表情を浮かべていない。それどころか興味深そうでさえある。彼女にとって死体は恐怖の対象ではなく好奇心を刺激する玩具のようなものなのだろうか。

 甘露はおぼつかない足取りで蒼介の隣まで来ると、掃き出し窓のクレセント錠へと手を伸ばし──、

「待ってくれ」蒼介は甘露の腕をつかみ、制止する。明らかに平静さを失っている甘露に現場を荒らされてはたまらないからだ。「むやみに触ったら──」

「どうしてっ、どうしてゆうくんが倒れてるのっ?!」声をあららげる甘露の目尻には涙が溜まっている。「ねぇ、怪我けがしてるよ、早く手当てしなきゃっ、だから離して、ねぇ、離してよっ!!」

 甘露は激しく腕を揺すって蒼介から逃れようとする。

 しかし、この程度の抵抗で拘束を解除させられていては警察官は務まらない。できるだけ痛みを与えないように気をつけつつ、けれど自由にはさせないようにしながら蒼介は言葉を紡ぐ。「甘露、落ち着いて。手当ては俺がやる。これでも警察官なんだ。こういうのには慣れてる。甘露は廊下で待っててくれ」

「ぅ、ぅ、ひっく……」とうとう泣き出してしまった。ぽろぽろと大粒の涙が床に落ちる。

 困ったなぁ、と小さく息をつく。

「るい、ここは蒼介君に任せよう」凛香子が助け船を出してくれた。彼女は甘露の手を握り、「おいで」と幼子をあやすように言い、廊下に連れ出した。

「岳大君は……」辻本が小さな声で言った。彼が濁した言葉は、「誰かに殺されたのか?」だろうか。

「まずは調べてからです」

 そう言って蒼介は、掃き出し窓を開けた。ベランダに出ると、すぐにそれらしい銃創を後頭部に発見した。大きくはないが、確かにあった。

 銃で脳を破壊されたのだ。まず生きてはいないだろう。そう思いつつもほとんど儀礼的に脈と呼吸を確認する。結果はどちらもなし。確実に死亡している。

 次いで、凶器を捜す。が、

「……銃はない、か」

 というよりベランダには何もなかった。遺体の下にある可能性もあるにはあるが、期待はできない──自殺ならば手に持っている状態になっただろうし、他殺ならばわざわざ現場に残さないだろう。また、この状況で事故というのも考えにくい。ただでさえ完全なプライベートモードだったせいで手袋も持っていないのに、これ以上現場の保存を害してまで確認するメリットは薄い。

「しかし俺の勘違いだったのか……?」 

 つぶやき、妙な点について思案しはじめた時、

「ねぇ、あれ」

 雫由が声を発した。彼女はベランダから一望できる中庭の先にある館を指差していた。「誰か歩いてる」

「!」バッと顔の向きを反転させて、小さく白い指の先に視線をやる。そして、「!?」驚愕。

 中庭を挟んで向かい側の館、その三階の廊下を何者かが歩いていたのだ。人数は一人。

 誰だ? 

 何とか顔を判別しようとしかめっ面になるのも構わず目を凝らしてみるも、距離があることに加えて光量が致命的に足りず、彼又は彼女が誰であるかはわからない。

 辻本の言葉を信じるならばこの島にはサークル参加者と小熊以外の人間はいない。ということは、今、館の廊下を歩いている人物は上杉、有栖又は小熊のいずれかということになるが、しかしそれだといささか不自然だ。

「辻本さん」と呼びかけつつも視線はその人物から外さない。「あの人──」誰だかわかりますか? と尋ねたところで、彼又は彼女は廊下からどこかへ行ってしまったようで、その姿は見えなくなった。

「……ここからではよくわからなかった」辻本はゆっくりと答えた。「ただ」ここで自らを落ち着けるように一呼吸。そしてもう一度、「ただ、ハル君や夢生君、歩君ではないとは思う。彼らには戸締まりをしっかりしたうえで食堂で待っているように言ってきたわけだが、それがなかったとしても、殺人鬼がいるかもしれないとおびえている夢生君はもちろん、ハル君と歩君も今このタイミングでわざわざ向かい側の建物まで足を延ばす理由はないはずだ──万が一彼らのうちの誰かが犯人で急いで証拠隠滅等をする必要があって、ということなら理由はあると言えるが、それをしてしまうとまっさきに疑われてしまう。デメリットとリターンが釣り合っていないのは明白だ。やはりどちらのパターンでも先ほどの人影が彼らのうちの誰かであるというのは考えにくい」

 そうなんだよな、と蒼介も困り顔を浮かべる。それから、当然の推測──なら、辻本さんは俺たちに秘密でほかの人間を島に滞在させていた?「では、さっきの人物に心当たりは?」

 しかし、辻本はかぶりを振った。「わたしを疑いたい気持ちは理解できるが、サークルの参加者と歩君以外は滞在させていない。無論、岳大君を殺すような、非道な殺人者の知り合いもいない」わたしには先ほどの人物が誰なのかさっぱりわからないよ──辻本はそう言い、歪みきっている眉間を揉んだ。

 となると、完全な部外者ということになる。そして、そうだとすれば──無惨にも頭蓋に風穴を空けられた桐渓を一瞥し──その人物は桐渓殺害の最有力被疑者となる。

 でもなぁ……。

 その人物を犯人だと考えるとに落ちない点が更に出てきてしまう──現場及び拳銃によるもの・・・・・・・と思われる銃創を見るに、桐渓と犯人がこの部屋に二人きりでいる時に犯行がなされたと推測されるが、それだと犯人が何らかの手段で客室に不法に侵入したか、桐渓がその犯人を自ら招き入れたことになってしまう。前者に対しては、争った形跡もないし、そんなに都合よくいくか? という不審があり、後者に対しては、桐渓さんと犯人が通じていたってことなんだろうけど、じゃあ何で殺したんだよ? という疑問が生じる──やはり不自然に思えてならない。

 それに、銃声の矛盾も気になる。あの音は拳銃のそれには聞こえなかった。

 とはいえ、それは単なる思い違いだったのだろう。そう考えるのが一番、理にかなっている──しかし、拳銃の銃声じゃなかったと思うんだけどなぁ、というのが正直なところだ。

「むぅ……」意図せず声が洩れてしまった。頭がこんがらかってきたのだ。

 わからん。もう少し情報が欲しい。 

「完全な部外者だとすると、その人物はどうやって島に侵入したと思いますか?」

 蒼介の質問に、ううむ、と腕を組んで考える素振りを見せた辻本だったが、「現実的に考えるならば船か何かでひそかに侵入したということになるが、現時点では侵入手段の特定に繋がる根拠や情報はない。すまないが、今はこのくらいのことしか言えないよ」

「そうですか……」



 結局、ほとんど何もわからないまま桐渓の部屋を出ることとなった。

 廊下には、壁に背をもたれかからせるようにして立つ凛香子とうつろな表情で窓から星空を眺める甘露がいた。

 凛香子は蒼介たちを認めるとすぐに口を開いた。「どうだった? 何かわかった?」

 第三者らしき人影を目撃したことを説明すると凛香子は目を見張ったが、その人物の特定や事件解決に至る具体的な手がかりは見つけられなかったことを伝えると落胆したように小さく息を吐き、「そう、仕方ないわね」とだけ。

「これからのことなんだけど」蒼介は言う。「まずは衛星電話で警察と辻本さんの家の人に連絡を取ろうと思う」

 先ほど辻本に外部との連絡手段について聞いたところ、「衛星電話なら、ある」と返ってきた。一階の、半ば物置と化している部屋に置いてあるそうだ。

 蒼介は続ける。「連絡を取った後は、助けが来るまでなるべく全員が一緒にいるようにして過ごす感じにしたい」

 殺人事件が起きて、しかも極めて限定的な空間でその犯人と共に過ごすという、控えめに言って頭のおかしい今の状況ならばこのくらいの警戒は最低限必要だと思われた。武器らしい武器が何もないこともこの判断を後押ししている。

「それが正解ね」凛香子は訳知り顔で大きくうなずいた。「こういうときに、『ふざけるなっ! この中に犯人がいるかもしれないんだろ?! 俺は自分の部屋で一人で過ごさせてもらう!!』とか言って単独行動する人は、超高確率で翌日までに凄惨な死体になってしまうわ。ここは絶対に集団行動一択よ」

 流石、現役の刑事ね、などと褒められたが、何を根拠にそこまで強く断言できるのかいまいちわからない蒼介には、はぁ、そうっすか、それはどうも、としか思えない。

 蒼介たちはエレベーターを使って一階に降りた。辻本の先導に従って実質的な物置部屋に向かう。

 その部屋は〈コ〉の字型の館の角──〈コ〉の字の上の横棒の右端──の辺りにあるらしかった。そして、エレベーターは館の中心──〈コ〉の字の縦の棒の真ん中──にある。すなわち、比較的すぐに到着するということだ。

 目的の部屋の前まで来ると、辻本はレバータイプのドアノブを押し下げた。

 部屋の中はおおむね大きな書斎といった雰囲気であった。ただし、使われていないであろう椅子やテーブルが壁際に置かれていたり書棚になぜか茶道具が並べられていたりと、たしかに物置としても使われているようであった。

 辻本が、繊細な柄のティーカップと褐色の茶碗ちゃわんが肩を並べる書棚に近づく。そして、「おや?」と怪訝そうに首をひねった。次いで、慌ただしく書棚を上から下まで確認。

 おいおい、まさか衛星電話がないなんて言わないよな?

 と蒼介が思ったのに呼応するように、

「ない」

 額に汗をにじませた辻本が言った。「この茶碗の隣に置いておいたはずなんだが……」

 室内に嫌な沈黙が流れる。が、

「そんなことだろうと思ってたわ」

 数瞬後には凛香子が口を開いていた。「この島ほどクローズド・サークルにふさわしい場所はなかなかないわ。きっと犯人もそれを知ったうえでここを殺人の舞台に選んだのよ」

「つまり、犯人がここにあった衛星電話を隠したと、そう言いたいのか?」蒼介が確認するように尋ねると、凛香子は、「ええ、そうよ」と事もなげに肯定した。

 非常にまずいことになった。これでは外部と連絡が取れない。五来さんが迎えに来てくれるのが今日から六日後。殺人犯がいつまでこの島に滞在するつもりかは知らないが、最悪、六日後まで武器のない状態でたいして大きくないこの島で銃を持った殺人犯と共に過ごさなければならない。

 危険な現状に打ちひしがれる蒼介であったが、待てよ、と気づく。「ここに衛星電話があることを知っていたのは辻本さんだけですか?」

 辻本は答える。「いや、今回初めて参加した蒼介君と雫由君以外はみんな知っているはずだ。以前来た時に、『何かあったときはこの部屋にある衛星電話を使うように』と話したからね」

 もしもサークル参加者に共犯者がいた場合、この点から被疑者を限定できるかも、と思ったのだが、思惑どおりにはいかないらしい。

「蒼介君にはわたしたち全員が怪しく見えているのかな?」凛香子は気分を害したふうもなく、むしろ愉快そうな様子で言った。

「そういうんじゃないんだけど、いろんな場合を考えなきゃいけないかなって思って」

 嘘ではない。情報が足りていない今の状況だとそうせざるを得ないのだ。

「ふうん」凛香子は緩い声を発した。「ま、いいわ、そういうことにしておいてあげる」それから辻本に顔を向け、「衛星電話以外に外部と連絡できるものはある?」

 辻本は首を左右に振った。「ない。言い訳になるが、こんな事態は想定していなかったのだよ」

 それはそうだろう。普通、プライベート・アイランドで殺人事件が発生するなんて考えないだろうし、当然その対策もするわけがない。

「そう」凛香子も期待していたわけではなかったのか、取り乱すでもなく平らかに言った。

 じんわりと沈滞ムードが漂いはじめる。

「……とりあえず食堂に戻りましょう」蒼介は仕切り直すように提案した。

 誰からも否やはなかった。



 閉ざされた食堂の扉を辻本がノックする──コンコンコンと木を打つ乾いた音が廊下に響く。しかし、

「……」

 何の反応もない。物音もしない。先ほどの桐渓の部屋と同じように。

 辻本が呼びかける。「歩君、戻ったので開けてくれたまえ」歩君──、と。

「……」

 けれど、返答はない。

 蒼介の心裏で不安が鎌首をもたげる。

「ミステリー小説なら」凛香子が唐突に言う。「クローズド・サークルで死人が一人しか出ないなんてのはありえないわ」

 ……上杉君たちが殺されてるって言いたいのか? 不謹慎だろ。それに、現実味のある根拠もない。

 とげのある言葉が頭をよぎるも、一方でその可能性を否定できない自分もいた。現実の殺人と小説のそれは違う。同列に扱うのはまったく論理的ではないと思う。なのに、冷たい汗が背筋を伝っていた。

 不意にぎゅっと指を握られた。そちらを向くと、甘露が無言で蒼介を見つめていた。メイクによるまがい物フェイクではない、生々しいリアルな赤が目元を彩っている。

 大丈夫だよ、と無責任に言いそうになる。けれど、何も言えなかった。代わりに彼女の手を握り返した。おそらく自己満足以外の意味はない。

 辻本は何度か声を上げた──歩君、夢生君、ハル君、いるなら返事をしてくれたまえ。

 しかしというか、やはりというか、「お待たせして申し訳ありません」という小熊の声も、鍵が開錠される音も聞こえてはこなかった。

「蒼介君」やがて深刻そうな顔つきの辻本に名を呼ばれた。また扉をぶち破ってくれということだろう。

 やむを得ない、とうなずく。

 食堂の扉は客室のものよりも頑丈な作りなのか、四回の体当たりでは足りず、だいぶ肩が痛くなってきた六回目でようやく開いてくれた。

 最初に目に飛び込んできたのは、座ったままテーブルに上半身を伏せる上杉。次いで、椅子の横の床に倒れた有栖と彼に寄り添うようにして同じように床に横たわる小熊。

「どういう状況だ?」まさか、まさか本当に、という気持ちはあえて直視しないようにして沈着冷静な自分を演じ、問いを発した──答えが返ってくるとは思っていない。

 上杉に駆け寄り、肩を揺する──のではなく脈を取る。

「……」

 次に、口の前に手をかざして呼吸を確認。

「……」

 最後にまつ毛に触れて睫毛しょうもう反射を確かめる。

「──クソッ」悪態が口をついて出てしまった。

 上杉は間違いなく死亡している。

「蒼介君っ」

 凛香子の声に応えてそちらに顔を向けると、彼女は小熊と有栖のそばにしゃがみ込んでいた。形のいい紅い唇が、「歩ちゃんも有栖さんも息をしてないわ──」

 上杉の脈がなかった時点で推測はしていた。全員死亡している、と。そして、状況からいって他殺である、と。

 けれど、推測していたからといって穏やかでいられるわけではない。湧き上がる犯人に対する怒りと警察官のくせに何もできなかった自分に対する不甲斐なさで息が震える。

 ──ダメだ、落ち着け。

 一度深呼吸をし、無理やり切り替える。過ぎてしまったことは割り切り、今できることをやるしかない。

 蒼介は自らにそう言い聞かせて自分を律し、やるべきこと──三人の遺体の観察に移った。

 まずわかるのは目立った外傷がないということだ。つまり、刺殺や撲殺、絞殺といった殺害方法ではない。それなら、

「……毒殺、か?」

 それが一番妥当な気がする。

「毒殺……」凛香子が疑問の声を上げる。「でも、誰がどうやってやったっていうの? 動機は?」そもそも毒物は何? と。

「え、えーと……」現時点で具体的な方法や毒物まで推測できているわけではない。しかし、何も答えないのもどうかと思い、苦し紛れに先輩の刑事が過去に担当したという毒殺事件で用いられた毒物の名を口にする。「アコニチン、とか?」

「アコニチンは違うのではないか?」と否定したのは辻本だ。「アコニチン、要するにトリカブトの毒は通常、死亡までに最短でも一時間は掛かるのだが、そうなる前、摂取後二十分以内に口や手足のしびれ、発汗などの症状が出ることがほとんどなのだよ。わたしたちが食堂を出た一時間ほど前の段階では彼らにそういった症状はなかったように思う。となれば、一時間二十分から一時間前の間に摂取していてその時にはまだ発症していなかったか、又はわたしたちが食堂を出た直後に全員そろって摂取したということになる」さて、ここで質問なのだが、と辻本は言う。「わたしたちが食堂にいた時に彼らが口にしていた物は何だったかね?」

「それは……」ちらりとテーブルに置かれたティーカップを見る。「小熊さんが入れてくれた紅茶、ですよね?」 

「そうだ」辻本は顎を引いた。「仮に一時間二十から一時間前の間に摂取していたとすると、状況的には歩君がハル君と夢生君を道連れに無理心中した、又はあらかじめ話し合っていて合意のうえで心中したことになる。わたしには彼女がそんなことをする動機が想像できないのだよ。彼女がハル君や夢生君と仕事での関わり以上の何かがあったという話は聞いたことがない。彼女が、いわゆる精神異常者であるならば話は別──無理心中ならありうるかもしれないが、今まで付き合ってきてそういった気配を感じたこともない。また、合意のうえでの心中は、歩君の動機の脆弱性ぜいじゃくせいとは別に強力な否定材料がある。何かわかるかね?」

「強力な否定材料……」何だろ? いきなりそんなん聞かれてもわかんないって。

 蒼介は頭脳労働が苦手なのだ。こういった質問にスマートに答えられるキャラじゃない。

 助けを求めるように凛香子を見る。が、仕方ないわね、と微笑を洩らした彼女が答えるより先に雫由がそれを口にした。「有栖さんは怖がってた」

 あ、と気づきの声が零れ落ちた。

 そうだった。有栖さんはいるかいないかもわからない殺人犯におびえていた。彼は死にたくなかったんだ──今から自殺しようという人間だったならば、あそこまで殺人犯におびえないのではないか、ということだ。もちろん自殺と他殺では違うのだろうが、それにしたってあそこまで臆病な態度にはならないように思う。少なくとも蒼介だったら、どうせ今から死ぬんだしどうでもいいか、となる。

「雫由君はやはり優秀だね。そのとおりだよ」辻本は出来のいい教え子にするかのように満足げにうなずいてみせた。「夢生君が死亡している時点で集団自殺というのは考えにくい」

 では、わたしたちが出た直後にそろって摂取したのだろうか? これも違うとわたしは思う──辻本はそう言って続ける。

「この場合も怪しいのは紅茶ということになるが、他殺ならばやはり歩君が最も疑わしい。しかし、先ほどと同じ理由から犯行動機ハウダニットに説得力がない。示し合わせた心中──集団自殺も同様に考えにくい。ハル君が二人に無断でアコニチンを紅茶に混入させた場合は、理屈のうえではこの状況を作り出すことができるが、しかし現実的に考えてそんなことが可能とは思えない。テーブルを見たまえ。夕食の直前だったということもあって茶菓子の類いもなく紅茶しか置かれていない。例えば、『地元のお土産みやげを持ってきたんだ。食べてみて』などと言ってアコニチン入りの食べ物を食べさせれば無理なく同時に摂取させられるかもしれないが、わたしたちが食堂にいた時点ではハル君はそのようなものを所持していなかったように見えたし、現在も所持していない。何かを食べたような痕跡もない。そもそも彼にしたって動機があるようには思えない。したがって、ハル君の犯行である可能性は極めて低いと言える」

 以上からアコニチンによる毒殺とすると整合性に欠け、それはすなわち使用された毒物はアコニチンではないと推理されるということなのだよ──辻本はそう締めくくった。

「……」

 もしかして俺って、いらない子?

 このメンバーの中で殺人事件の解決に一番貢献できるのは現役の刑事である自分だと蒼介は思っていたのだが、雲行きが怪しくなってきた。というか、頭のいい子だなぁ、と前々から思っていたとはいえ雫由にまで遅れを取るとは……。

 何だかなぁ、とやる気が空回りしたような気分だ。

「──?」

 ふと、部屋に違和感を覚えた。何だろう。ぐるりとこうべを巡らす。

 父がよく入れてくれたものとは違う紅茶の香り、長方形の大きすぎるテーブル、広すぎる平面積にふさわしい高い天井、壁に飾られたよくわからないけど絶対に高額な絵画、壁際の棚に置かれた火の点いていない小洒落こじゃれたキャンドル──ん?

 あれ? 何か違くね?

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