第15話 ビリジアン

「お疲れ様です、先輩。――講評もありがとうございました」


 立ち上がって宮藤先輩に向き合う。

 先輩はそのまま私の前を通過すると、バルコニーの手摺りへと両肘を突いた。

 なんだか懐かしそうに目を細めて。

 京都の西の山々を眺めて。


「こちらこそ。演劇部の練習見るのは、楽しいよ。あの頃に戻ったみたいで。――なんだか羨ましい」

「羨ましい? 先輩が?」


 風が吹く。夏の風が。

 バルコニーの手摺りから外を見下ろすと、側道を走る自動車が小さくクラクションを鳴らした。


「今はわからないと思うし、僕も、分かってなかったんだけどさ。高校演劇って、本当にこの瞬間しかないんだ」

「高校演劇はそうですけど、演劇なら、お芝居なら卒業してからでも、出来るんじゃないんですか? 大学でも、社会人になっても?」


 そういう私に、先輩は首を振って応じる。


「特別なんだよ。やっぱり、高校演劇は。環境とか、スタイルとか、大会とか、色々。最近本当に思うよ。僕は高校演劇が好きだったんだって」


 でも、コロナ禍が最後の舞台を奪った。

 宮藤先輩が完全燃焼する機会を、奪ってしまった。


「――村越、さっきの通し稽古、ちょっと調子悪かった?」

「アッ、ハイ。悪かったです。それはもう、目も当てられないくらいに」


 隠すことなく吐露すると、先輩は「あはは」と可笑しそうに笑った。


「そっか。ちょっと心配したんだけど、自分で分かっているなら、問題ないのかな?」

「ちょっと、心が落ち着かなくなる事態がありまして。でも、ゲネプロではちゃんとお見せできると思いますよ。先輩のご期待に添える、村越絵里を」


 私が大げさにそう言うと宮藤先輩は「じゃあ、楽しみにしているよ」と頷いた。

 大げさだけど、これは演技じゃない。私自身の本当の気持ちだ。


 さっきの講評で、楡井くんと眞姫那への指摘が多い中で、私への指摘は極端に少なかった。

 きっとそれは、先輩が気づいていたからだと思う。

 そして私のことを気遣って、何も言わなかったんだと思う。


 先輩は気付いていたのかな、私の気持ちに?

 楡井くんは、洛和高校演劇部の常識だって言っていたけれど。

 それに宮藤先輩は含まれるんだろうか?

 でも今、それを聞いても仕方ない。

 それに私には、先輩に聞かないといけないことが、別にあった。


 先輩がバルコニーの手摺りから肘を下ろし、上体を起こす。

 隣から、その横顔を見上げる。

 きっと、ずっと好きだった横顔を。


 やがて私の視線に気付いた先輩が、目を少し見開いて、小首を傾げる。

 夏のコンクリートの上で、視線が交錯する。


「あの、――先輩、一つ聞いていいですか?」

「何かな?」


 私は一つ息を吸う。


「脚本の中のト書きで、ホリゾントライトにビリジアンを指定していたところがあるんです」

「そうだっけ? はっきりとは覚えていないけれど。なんとなくそんな指定をした気はするかな? うん、した気がする。それで、――それがどうかした?」


 絶対的な存在だった宮藤先輩の脚本。

 私はこの三ヶ月、その中に、ずっと正解を探してきた気がする。

 その向こうに宮藤先輩の姿と、宮藤先輩の想いを求めて。


「はい。実はホリゾントライトのフィルターで定番のポリカラーではビリジアンって色は無いみたいなんです。ビリジアンって、絵の具の世界では定番みたいなんですけど、舞台照明じゃ、それが無くって。だから先輩は、あの指示『どういう意図だったのかな?』って。……結局、さっきの舞台ではそれっぽい緑を使っているんですけど、あれで大丈夫だったでしょうか?」


 一息に尋ねた問いかけに、先輩は少し思い出すように、視線を空中で泳がせた。


「ああ、そういうことか。うん。困らせちゃってたみたいでごめんね。きっと大した意図はなかったんだよ。うん、さっきの色でいいと思うよ」


 先輩の返事はあっさりしたものだった。


「そう――ですか。でも、じゃあ、なんでビリジアンって指示なんか?」


 尋ねると先輩は視線を逸して、バツが悪そうに頭を掻いた。


「なんとなくの思い入れかな? ほら、小学生の頃、学校で絵の具セットって貰ったでしょ? あれって嬉しくなかった? 僕はなんだか凄く嬉しかったんだ。でも、絵の具セットを開いたら緑色が無くってさ。代わりにビリジアンって色があった。それがなんだかとても不思議で。名前も凄くカッコよくてさ。それ以来、なんだかビリジアンって色が――その存在が好きなんだ。そんな個人的な、それだけのこだわり」


 そう言って、先輩は子供みたいに笑った。


「――それだけ、ですか?」

「うん、それだけだよ」


 その言葉は、私に不思議な感覚を与えた。

 心の中で絡まり合っていた糸の一つ一つを緩めて、解していくような、溶かしていくような感覚。


 ビリジアン。それだけ。たった、それだけのこと。

 とても個人的で、とても無邪気で、とても宮藤先輩らしくて自由で、どこか真っ直ぐで。


 私は何にそんな悩んでいたんだろう?

 私は何にそんな囚われていたんだろう?


「どうしたの? 何笑っているの? なんか僕、変なこと言った?」


 気付けば私はこらえきれずに笑っていた。

 両手で口元を押さえて。


「なんでもないんです。なんだかおかしくて。私、今まで何をそんなに難しく考えていたんだろうって」


 そんな私を見下ろして、宮藤先輩は「そっか」と、安心したみたいに微笑んだ。


「頑張れよ、村瀬。村越が作る舞台、ずっと楽しみにしてるから。まずは、ゲネプロ。――今度はちゃんと講評するからな、村越の演技のことも」

「――はい、頑張ります!」


 そう言うと宮藤先輩は、一足先に大道具搬入口に向かって歩き出した。

 ゲネプロでは先輩もサポートスタッフ。ピンスポ係のお仕事があるのだ。

 きっとその準備と事前確認に向かうのだ。真面目だなぁ。

 ――やっぱり、好きかも。


 先輩が消えていった薄暗い入口に眞姫那が立っていた。先輩の彼女――西脇佳奈さんと一緒に。

 眞姫那が私に手を振る。私も爽健美茶のペットボトルを振り返した。

 これできっと眞姫那に伝わる。私はもう大丈夫だって。

 ゲネプロに向けて――ブロック大会に向けて準備万端だって。


 目を閉じる。思い浮かべるのは舞台照明。


 この舞台を象徴するあのシーン。

 世界を染めあげるホリゾントライト。


 その色はビリジアンじゃなくて、私と照明くんが選んだ緑色。

 透明感のある、お気に入りの緑色。

 私の舞台はビリジアンじゃなくていい。


 大切なことは、私が選ぶこと。みんなと一緒に選ぶこと。

 一人ひとりが、それぞれの色を持ち寄って、高校演劇の舞台を染めていく。


 私が、私らしく、私色に。

 みんなと、みんならしく、みんな色に。


 令和3年度、洛和高校演劇部色に。

 私たちで、これから舞台を染め上げていく。

 

 いくつもの色が、幾重にも重なって、光を浴びて流れ出す。

 賀茂川の流れみたいに。

 いつか大海原に流れつく私たちが、この夏を染める。

 自分たち自身の劇空間を。

 コロナ禍を超えて。

 この一瞬限りのステージで。



〈ビリジアン 洛和高校演劇部(令和3年度) 完〉

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ビリジアン 洛和高校演劇部(令和3年度) 成井露丸 @tsuyumaru_n

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