(二)

 話をそこで終らせ、たつぞうはそのまま城下町のゆうのいる宿へと足を向けた。

 辻斬りは兵法者とみれば襲いかかる――というのなら、あの娘にももしかしたら奇禍はあるやもしれぬと思ったからである。

 そろそろ日暮れも早くなる。来る時刻をもう少し早めるようにでも言っておくつもりだった。いっそ宮本家に逗留するというのもいいかも知れない。面倒がない。


(そんなわけにもいかんか)


 口元を綻ばせながら、たつぞうは思う。

 さすがに、仇と狙う相手に飯を出すならまだしも、寝泊りさせるというのは常軌を逸している。

 飯を食わせているという時点ですでに大問題と言えなくもないが、たつぞうはそこまでは考えない。

 たつぞうが考えているのは、宮本家の若当主の伊織がどういう反応を示すかである。


(今更外聞を気にしても仕方ない――とは、若殿も解ってるんでしょうけどね)


 もしかしたら、逗留を提案してみたら案外とそれに乗ってくる可能性はあるかもしれない。

 先日の三人での明石の街の散策を思い返すと、たつぞうの口元はさらに明確に笑いの形になる。

 初々しいな、と傍で見て思った。ゆうは美しい娘であったから無理もないが、伊織はあれは明らかに惚れている――とまでは言わないが、かなり気になっているのは明白だった。

 たつぞうは前から伊織のそちらの方面での淡白さを心配していた。別に伊織とてもまるで相手がいないという訳でもないだろうし、多分、悪所通いもしたことはあるだろうが……どうにも、一家の当主としてそこらの自覚が足りないのではないかと思っていたりする。当主はとにかく家を継ぐことを考えねばならないものである。

 だから、嫁は早くに迎えたほうがいいし、跡継ぎも早くこしらえるべきだ。伊織は殿様の小姓とはいえ、元服しているのだから嫁も妾も一人や二人といるのが常識であった。

 伊織がなんで嫁も特定の女もいないのかといえば、それは彼の立場そのものに起因する。

 播磨の郷士の息子にして藩主の小姓となっているという立場では、迂闊な女と関係すると後々問題になるかもしれないし、結婚もそれなりの家柄の者を撰ばないといけない。武蔵と藩主が後ろ盾になっているとはいえ、やはりそれだけでは他の藩主が播磨転封になる以前からの近臣の子弟に比べると、後ろ盾として弱い。微かにも隙は見せられない。嫁を選ぶのにも政治的な判断がついて廻るのだ。

 伊織当人はことさらに躍進を求めている訳ではないのだが、現状維持をするだけでも間違えられない――そのような慎重さが彼にはあった


(まあ、それでも……)


 とたつぞうは思う。

 そろそろ、嫁のことにも興味を持ってもいい頃合だろう。

 ゆうとどのような関係になるのかは解らなかったが、色気づくのは悪いことではない。屋敷への逗留を父を殺そうとしている相手を泊めるだなんてと嫌がるかもしれないが――


(その時は、自分のことを話すのもいいか)


 そんなことを考える。

 二十年宮本家に仕えている自分が、最初はご隠居様を殺そうと考えていたことなど――



   ◆ ◆ ◆



 二十年前のたつぞうは、まだ四十歳を幾分か過ぎた野武士の一人でしかなかった。


 何度か戦場に参加して、適当に褒賞を受けたり敗走を重ねている内に、いつの間にか四十を超えていた。

 まだ四十だった、と六十も過ぎた今になってこそ思うが、この時代、四十というのは年寄りとはいわずとも相当な年配であるに違いない。

 活躍するための戦場も、すでになくなりつつあった。

 天下はすでに平定されつつある。

 ここらで何か名を挙げねば、一生底辺をはいずる他はない……とたつぞうが焦燥にかられるのも無理はなく、それが何かをせねばならぬという衝動を生み出していた。

 もつとも、当時のたつぞうにはそれを上手く言葉にすることができなかった。

 ただ、何かを為すべきだ、為さないといけないと、それだけをうわ言のように言いながら生きていただけだった。

 そうして、最近になって名を挙げつつある、新免武蔵という兵法者のことを知り――


(そいつを殺そう)


 と、思ったのである。

 無謀であったし、馬鹿であったと今なら思えるのだが、当時はそれを自分が為すべき目的と思い込めた。

 天意が降りた、とまで思っていた。

 そして思い立った当日、長巻をもってぶらついていたのだが、懸命になって探しているわけでもないのに、すぐに武蔵のいる場所は知れた。

 天の配剤だと思ったし、それは今でもそう思っている。

 太陽が南中に達したかどうかという頃、たつぞうは駆け足に通り抜けた防砂のための松林を越えたところで、海岸の砂浜に一人佇む男がいた。

 

 武蔵である。


 二十年前というから二十五歳の頃であったか。

 何処か黄ばんだ白の着物に、赤い小袖、総髪を潮風に揺らして立っていた。

 手にもつのは五尺ほどの棒だ。刀は腰に帯びていない。

 名前を聞く前に、ひと目見ただけでたつぞうはその男が探していた武蔵なのだと確信した。

 当時も今もたつぞうの語彙では上手く言い表せないが、なんというか雰囲気が違う。

 匂い、という風にその時は感じた。潮風の中でその男の方から吹く風だけが違う気がしたのだ。


「う、ううう……」


 唸り声をあげて近寄ろうとした自分は、いかにも傍目で見れば怪しくみえただろう。

 たつぞうは長巻を鞘から抜き、そろりと砂浜を歩いて武蔵に近寄っていった。

 あと二間(3.6メートル)というところで。


「おのれは、武蔵か?」


 と、一応聞いた。

 これでまったく別の人間であったら問題である。いや、別に武蔵当人であったとしてもいきなり殺そうとすれば問題であるには違いないのだが。念のために聞いた。

 しかし――。

 返事はない。

 それどころか、難しい顔をして海を眺めながら「違うなあ」などと呟いているのが聞こえた。

 一瞬、自分への返答かとも思ったが、こちらに気づいてる風ですらない

 完全に無視されている、と察したたつぞうは、腹の奥から涌きあがって来る怒気を、息を吸って飲み込むように押し留めた。

 無闇に腹のものを出してはいけない、というのはたつぞうの経験則であり、もっと言うのなら信仰に近いものである。

 腹の底には力の塊があって、そこから発するそれを体中に巡らせると手足がよく動くという、根拠も理論もない信念である。


(問われて答えぬなら……)


 武蔵であろうとなかろうと、どうでもいい。

 斬ってしまおう。

 たつぞうはそろりと武蔵の前に回りこむように長巻を構えて進む。

 背後から攻めようとしなかったのは、無防備とみえる背中にこそ不気味な圧力を感じたからであるが、今思えば、それは自分の恐れがそのまま反映しただけだったきがする。

 そして二間の距離を保ちながらも武蔵の前に立ったたつぞうであるが、今度はその顔を見て息を飲み込んだ。


 目を――閉じている。


 勿論のこと、立ちながら眠っているというのではない。

 なにやら懊悩しているかのような皺が額に寄っていた。

 何事か考えているのだというのは解る。

 もしかして、考えに集中しているので聞こえなかったのかとたつぞうは思い至った。陣屋ではよくあることだった。戦場の恐怖、役目、諸々のことに頭を奪われてしまうことはある。


「………」


 殺意を減じたわけではないが、このまま斬りかかっていいものかとたつぞうは迷った。

 無防備な人間を殺すということは、戦場の狂気の中ではともかくとして、素面では難しい。

 その時も素面とは言い難く、一面狂ってはいたが、そのような種類のものではなかったのだろう。

 とにかくそのままどうしていいのかも解らずに、それでも構えを解かずに少しづつ間合いを狭めていき――

 ふと、武蔵の足元の砂に不自然な模様ができているのに気づいた。いや、模様というのではない。それは絵だ。なんの絵かはわからないのだが、とにかく絵だと知れた。


「うん………?」


 そろりそろりと、いつの間にか武蔵と七尺ほどしか離れてないところにまで移動して、ようやくそれが解った。


「山――いや、波、か?」


 思わず呟いて上体を傾ける。その時には、武蔵が手に持つ棒で足元にそれを描いているのが解ったが。

 その棒が、ふわりと持ち上がった。

 不自然なまでに、自然な動きであった。

 たつぞうは、その棒の先端を目で追っていた。無意識にそうしていた。それでも、それなのに。どういう訳か棒が自分の顔面めがけておちてくるまで見続けてしまっていた。 

 ――熱い、と思った次の瞬間には、たつぞうは意識を失っていたのだった。



 目が覚めた時には、日は傾いて西の空を茜色に焦がしていた。

 たつぞうが体を起こすと、武蔵は「起きたのか」と言った。

 低い声で、しかし何処か拍子抜けするほど軽い口調だった。続けて「すまんな」とも言った。


「どうも俺が叩いたらしい」


 奇妙な謝り方もあったものである。

 たつぞうは訝ったが、黙って説明の続きを待った。待ったのだが、なかなか言葉はこない。

 気づくとまた武蔵は足元の絵を書いていた。叩かれる前に見た時より進んでいたのがわかる。具体的にどうというのは解らないが、より詳細というか細かいところまで書かれている。

 ここで問い詰めるということをせず、つい聞いてしまった。


「それは波の絵か?」

「うん」


 返事は期待していなかったが、即座に返った。


「よく解ったな」

「まあ、なんとなく」

「なんとなくか」


 武蔵の唇が、心なしか緩んだような気がした。その時には、たつぞうはこの男を殺そうという気が霧散していた。

 いや、一度叩かれてから目を覚ました時から、まるで生まれ変わったかのように気分が入れ替わっている。

 たつぞうもまた口の端を歪めた。


「波の飛沫が、上手く描けない」

「そうなのか」


 目を凝らして、たつぞうはその波濤の絵を眺めてから、武蔵が見ていたであろう海へと目を向けた。

 砂浜の端の岩に打ち寄せる波があった。

 これは、それの絵なのだと思った。

 ただ、絵にあるほど高くはない。むしろ寄せては返す波はゆらゆらと穏やかなものだ。潮が満ちてきたのだろう。


「今日は、もう無理じゃないか?」


 とは言ってみたが、そもそも波の立つのは一瞬だし、同じ形になるとも思えない。見ながら描く意味は果てしなくなさそうな題材ではある。

 武蔵は「そうか」と頷きながら


「ふむ」


 と呟き。


「では、帰るか」

「そうか」


 たつぞうは少しだが残念な気分にになった。もうちょっとだけでもいいからこの男といたいと思った。殺そうと探して挑む前に一方的に叩かれてしまった――という、なんだかよく解らないにもほどがある関わり方であったが、とにかくこのまま別れるのは何だか嫌だった。

 それが顔に出てたのか声にでてたのか、武蔵はたつぞうの顔をしばし眺めてから。


「うちにくるか?」


 と聞いた。

 たつぞうは何も言葉にせず、頷いた。

 それから二十年がたった。

 今もたつぞうは武蔵の家にいる。



   ◆ ◆ ◆



(まったく、なあ)


 あの時のこと、あの後のことを思い出すと、苦笑しか出てこない。

 たつぞうが招待された家には、飯炊きの女と男の二人という、最低限の従僕しかいなかった。

 それからいつの間にか、たつぞうは武蔵の従者として新免家に仕えるようになっていた。

 気づいたときには彼はそこにはなくてはならない存在となっていた。

 たつぞうにしても、そこでの生活は居心地がよかった。

 食い物は質素であるが毎日出るし、雨風も凌げる。そして何よりも主人の武蔵がおかしな男だった。傍若無人であるかのように振舞ったかと思えば、妙に神経質に人をもてなしたりする。

 兵法者といわれながらも毎日毎日乱舞をして、広げた紙を前に首を捻って絵を書いている。剣の稽古もすることはするが、たつぞうの目から見ても画や乱舞に比べて熱心であるようには見えなかった。

 いや。

 最近になってたつぞうは思う。


 ご隠居様にとっては、みな同じものなのではないか――と。


 語彙も少なく、年を取って上手く働かないたつぞうの頭では論理立てて説明できないのだが、なんとなく思うのだ。

 兵法にそれほど熱心に稽古をしているように見えないが、それを言うのなら申楽にしても絵にしても同じだと。皆同じ程度に、あるいは同じように愉しんでいるように思えるのだ。

 そのことは、一度も誰にも言ったことはない。

 誰に言ってもどうしようもないことだと思えるし、そのことを誰にも言いたくないと心の何処かで考えているのも確かだった。


 そんな昔のことを回想しながらのたつぞうの足取りが速くなった。

 少し、空が翳るのが早くなったように感じたからだった。

 照明などのないこの時代の夜闇は濃い。

 普段ならばさほどに気にしないたつぞうではあるが、やはり辻斬り騒動の渦中でもある。胸騒ぎがいつの間にか起きて、止まらなくなっていた。何かの予感があったというのではなく、それはただの不安でしかなかったのだが。

 ――と。

 立ち止まったのは、視界の先にゆうの姿を認めたからであり。

 そして再び歩き出したのは、そのゆうと対峙する前髪の若者の姿を見たからであった。

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