六の段 夕、宵闇の中で小次郎と出逢、伊織とたつぞうはそこに駆けつける事
(一)
「今日は遅いな」
伊織は乱舞の稽古が終ってから、そう言った。
遅いというのはゆうのことである。ここ数日はずっとゆうがきていたということがあり、日常の一部となっていた観があった。
とはいえ、日参して仇討ちにくる人間に対してこんなことをいうのも、まるで彼女が来るのを待ち望んでいるようである。伊織はそのことに、呟いてからようやく気づいた。
縁側を見ると、彼の養父が腰掛けて涼んでいる。
程よく運動してから汗を乾かしているのだろう。
その後姿をぼんやりと眺めていた伊織であるが。
「父上」
と声をかけた。
「なんだ?」
武蔵は振り返ることはない。何処かけだるげな声で息子に応える。
そして伊織はというと、自分で声をかけておきながら言葉に詰まってしまった。
――――あの娘は今日はこないのでしょうか
そのようなことを、とても聞ける訳がない。
「………いえ」
と首を振った。
「風も冷たくなってきております。あたりすぎは毒でしょう」
「そうだな」
後姿からでも、武蔵が頷いたのが解った。ふと、伊織は養父が庭の一点に見ている物があるのだと気づく。
なんとなく興味を引かれ、父が見ているだろう方向に目をやった。
「柿が」
赤い。
暮色の中で、その中に溶け込んでしまいそうな、そんな色をしてた柿がたわわと実った木がある。屋敷の主人である伊織は当然知っていたはずだが、いつの間にかすっかり熟れていたということにたった今気づいた。
「そろそろ食べごろだな」
武蔵がぽつりと言う。
「は。―――父上は、柿が好物でしたか?」
そんな覚えはなかったのだが、念のため聞いてみた。もしかしたら苦手であるということだってあり得なくもない。
「いや」
武蔵の答えは簡潔だった。
「わしはそれほどでもない。さち殿が好きであったと、今思い出していたところだ」
「さち殿?」
初めて聞いた名前だ。
武蔵は小さく、しかし確かに答える。
「ゆうの母御だ」
「ゆう殿の――」
思わず身を乗り出していた。
「うん。さち殿は甘いものが好きでな。柿が特に好きだと申されてたよ」
「お父上は……その、さち殿というお方をよく知っておられるのですね」
聞きながら伊織は縁側へと歩み出て、養父の側に膝を落とした。
武蔵はようやく、伊織へと目を向けた。
それでも何も言わなかったが。
「岩流との決闘とこたびの因縁、お聞かせください。ゆう殿からは何も聞けませんでした」
「何も?」
「まったくというわけではありませんでしたが」
あんなでは、何も聞いてないのと一緒だ。
そう伊織は思う。
船島で多田岩流が父に撲殺されたが、それは試合ではないなどとまるで謎かけのような――いや、謎かけではなく、素直にその言葉を受け止めれば答えは一つだ。
(騙し討ちしたのか)
この人が。
新免武蔵が。
(ありえない)
二年という短い期間ではあるが、一緒に生活していて思う。
この人は勝ちにこだわる人ではあるのだが、そういう卑怯な手段はとらない。
そんなことをする必要などはないからだ。
この新免武蔵という人に、そんな手段はまったくもって必要ないのだ。
例え将軍指南役の小野だろうが柳生だろうが、この人は勝負するとなれば作法どおりに真正面から対峙して、そしていとも容易く打ち破るだろう。
いや。
そもそも――
「随分と、ゆう殿のことを気に入っておいでのようですね」
そうだ。
そのことだけは間違いなかった。
仇討ちという名目でやってくる女を、毎日のように迎えては軽く打ち据えては飯を食わせて返す……それは、どう考えても尋常ではない。
というよりも、まるで弟子を相手に手ずから教えているかのような――
武蔵はその伊織の言葉にどう応じたのか。
何も言わなかった。
ただ、唇の端を微かに歪めてみせた。
「父上……」
「いずれ、教える」
また庭へと向き直り、傍らに置いていた棒を掴んで立ち上がった。
ゆるゆると歩くと、柿の木の真下まで行く。
「今、教えていただくわけにはいきませんか?」
「ふむ……」
「おっしゃりたくないのは、承知の上でございますが」
「大した理由はないのだが……ちと面倒で、ややこしい」
武蔵はそういうと右手に持った棒を伸ばし、ぎりぎり届く柿の実を軽く叩いた。
そうするとどうしたものか、実が枝から落ちた。
熟れすぎた柿はいずれ枝から落ちるものだが、しかしその柿はそれほどに軟らかくなっているようにも見えなかった。もぎ取るにしても少し力をかけねばならないはずだった。
自分で落とした柿を左手で受け、がぶりと噛み付いた。
そして顔をしかめる。
「渋いな、これは」
「渋柿でございます。食べるには、まず渋抜きをしなくては」
何処か呆れたようにいう伊織に、武蔵はしかめたままの顔を向けた。
「そういうことは先に言え」
「申し訳ございません」
「ふん……」
武蔵はその様子を見ていたようだが。
やがて。
「今日は遅いな」
と言った。それは伊織が先ほど漏らした言葉であったので、彼は心臓が微かに跳ね上がった。聞かれていたのか、と思った。そうではないようだった。
「迎えに行け」
「――は?」
「迎えに行けといったのだ」
――――仇と狙ってくる相手を迎えにいけというのは、さすがにどうかと。
伊織はそう反論しようとしたが、不機嫌そうな養父の顔を見ているとそういう気はなくなった。
さすがに当主である伊織が一人で迎えすに出るというような非常識な真似はできない。たつぞうはいなかったので、堀部太郎右衛門を呼んで一緒に出ることにした。近所に出るだけならば、堀部が一人いれば充分だと思った。
そして出歩いて少しして聞こえた剣戟の音に足を速めると、そこにはたつぞうとゆうと、見知らぬ若者がいたのである。
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