幕間ノ二

宮本三木之助、立会いを求められる事。

 伊織が武蔵によく解らぬことを言われた、その一刻(二時間)ほど前のことである。


 宮本三木之助は姫路城下のとある小川のほとりで、一人釣り糸を垂らしていた。

 見た感じでは着流しを着た、二十代を幾つか超えたばかりの武士でしかないが、この三木之助は姫路本多家でもよく切れ者として通っていた。

 彼の素性を知る者はさすがは新免武蔵の養子だと言い、今は亡き兄にも劣らぬ才気の持ち主だとも誉めそやしていた。

 三木之助の兄――というと、少しややこしいが、やはり宮本三木之助という。姫路本多家の息子である本多公の近習として仕えていた俊英である。

 元々は水野家の家臣、軍奉行だった中川志摩之助の息子であるのだが、元和の頃に武蔵の養子として出された。この養子縁組は少し変わっていて、中川志摩之助の三男の三木之助だけではなく、四男の九郎太郎との兄弟二人がひとつの家に引き取られた。

 果たしてどういう思惑が中川家と武蔵との間にあったのかということについては、今は語らない。

 ただ、結果としてそれが姫路の宮本家を存続させることになったのには、意図も何もなかっただろう。

 兄の三木之助は、養子となって数年の後に死んでしまったのだ。

 それは主君である本多忠刻が急死してしまったことによる殉死であったが、そのことによって、弟である九郎太郎が宮本家を継ぐことになっってしまった。

 まったくもって、彼にしても予想外の展開だった。

 とにかく家を継ぐことになってしまえば、仕方がない。

 名も九郎太郎から三木之助と兄の名に改めて、引き続き本多政朝に仕え――今に至るのである。

 ちなみにそんな兄弟で家を相続するという時期に、彼らの養父である武蔵は何をしていたかというと、無責任にも聞こえる話であるが、三木之助が死んだ一年後に新たに伊織という養子をとって明石へと移り住んでしまっていた。

 正確に言うと元々明石に住んでいた人なのであって、移り住むというのはやや違うのだが。

 三木之助はそんな武蔵に恨み言を言うでもなく、むしろ今でも慕っていて、たまに手紙を出して近況を伝えたりしている。傍目に二人の親子関係は悪くないように思われた

 それでは、同じく武蔵という養父を持つ伊織と三木之助の間柄はというと、あまりよくはない。

 もっというのなら、悪くもない。

 それほど親密な付き合いはない、というべきか。

 身もふたもなく、無関心というべきだろうか。

 穏当に、縁が薄いという方が正確かもしれない。

 お互いに無視をする気はないが、それほど積極的に付き合うという気はなかった。

 二人とも城づとめで忙しく、年始の挨拶くらいは書状で出す程度の付き合いであるのだが、それ以上に歩み寄るべき――理由がない。そんな風である。

 そんなわけで、伊織は三木之助のことをよく知らないし、三木之助も伊織のことにあまり詳しくない。

 だから伊織も、系譜上は兄である三木之助に少し変わった趣味があるということを当然に知らなかった。

 釣り――である。

 いや、趣味とはいえぬかもしれない。

 非番で晴れた日などに釣竿を持って近所の川になどにでかける三木之助は、そこで竹竿の先につけた糸を垂らして何刻かを過ごすのである。

 釣れるか釣れないかなどは問題ないように。ぼんやりと糸の先にある水面のウキを眺めて。

 実兄にも劣らぬ切れ者として知られている三木之助のことである。なにやら深遠な思索をしているのではないかと皆は言っているが、当人はこのことについて何も言わない。誰に問われてもである。そんなに釣が好きなのかということは主君にも聞かれたが、静かに笑って頷くのが常であった。

 この頃の三木之助は、返しのない針をつけて糸を垂らしていたという中国の伝説の人物・太公望になぞらえて「宮本の今太公望」と呼ばれてもいた。

 もっとも、太公望のように釣れない仕掛けをしていたのではなく、あくまでも釣れても釣れなくてもよいというだけで、三木之助はちゃんと返しのある針をつけていたし餌もつけている。たまに釣れた魚を持ち帰って、焼くか煮るかして酒の肴にしたりもしていた。

 その日も、申の刻(午後四時)にまで釣をしていた三木之助は、川岸の直径一間(180センチメートル)ほどの岩の上に腰掛けて糸を垂らしている。


「そろそろか……」


 とぼやくように言ってから、川に浸けた魚籠へと目をやった。

 今日はすでに三匹ほどの鯉を釣り上げていた。どれも二尺(60センチ)ほどである。釣果としては三木之助の腕前からすればまずまずというところだった。

 三木之助はそれからぼんやりと水面を眺める。

 風がない。

 これが海ならば凪いでいるといったところだろうか。

 ウキが時折に波紋を立てているが、釣り針を鮒か何かが触れているのだろう。まだ食いついてこない。齧り付いた、というところを察して竿を引かねばならないのだが、三木之助はぼんやりと見ているだけである。

 すると、水面の上を滑るように黒い影が彼の視界を横切っていった。


「燕か」


 思わず呟いたのは、夏も終ったこの時期に燕が飛んでいるということの異様についてだろう。

 燕が初夏に渡ってきて、夏の終わりと共に去っていくということは知られていた。秋の始まりのこの時期に燕を見るというのは、ありえないとまでは言わないが珍しい事態ではある。


「置いていかれたか――」


 三木之助の声が聞こえたのか、燕をその言葉を否定するようにくるりと旋回した。そのまま南に向かって飛んでゆく。それを見送るように顔を向けていたのだが、ふと川岸の叢の中に、見覚えのない男が立っているのに気づいた。

 まだ若い――前髪が残っているからには、元服してもいないのだろう。

 白い着物にびいどろ仕立ての派手な小袖を羽織り、こちらを見ている。その眼差しは鋭い。顔立ちもまた幼さを残しながらも端正なものに見えた。五間(約九メートル)という距離を置いても、それが解る。

 だが、三木之助はそんな姿などよりも目を奪われたものがあった。

 左手に持った細く長い野太刀。

 すでに抜き放たれていたその刀身が、ゆっくりと天を刺すかのように持ち上がった。


「………………」


 三木之助は着流しの帯に手挟んだ脇差に手をやった。

 と。

 ウキが急激に沈んだ。

 反射的に竿を上げた。

 その瞬間に、飛び去ったはずの燕が二人の間を横切った。

 ひゅーんと、空を切る音がした。

 一条の光の線が孤を描くように疾ったかと思うと、燕が三つに裂けた。

 両の翼が胴体から切り離された――それを成し得たのは振り下ろされたはずなのに高く天へと刃を向けて返されている野太刀の一閃であると、三木之助は即座に理解した。


「宮本三木之助殿でございますな」


 燕を切り裂いた男は、感情を押し殺した声でそう言った。


「……………」


 上げられた三木之助の釣竿にぶら下がる糸の先には、餌を無くしたつり針がゆれていた。



   ◆ ◆ ◆



「違う……と言ったらどうか」


 三木之助はそう答え、釣竿を岩の上に置いてするりと立ち上がった。

 左手には、座るときに邪魔だと外されていた太刀が握られている。

 対するに男――というよりも少年は、切先を下げたままで歩み寄ってくる。

 自然と間合いは詰まり、およそ三間(5.5メートル)というところで立ち止まる。


「通じません」

「そうか」


 三木之助は目を細める。


(四尺一寸……二寸。細く磨り上げたか。長さのわりに軽そうだが――)


 武器の長短の把握は、戦いにおいて重要な意味を持つ。

 開けた場所で戦うには、長い得物は面倒な相手である。

 今手にある武器でどうにかなるものなのか。


(だが……)


 三木之助が物心ついた頃は、まだ大坂の陣の残り香が身近にあった。

 家族を含めて誰もが実戦の経験者だった。

 斬り合い、殺し合いに際して臆するような心根の弱い人間はいなかった。

 この時代の武士は多くがそうだ。彼の兄もそうであり、彼自身もそうだった。

 すでに戦う覚悟はできているのだった。

 軽く息を吐き、吸う。


「本多家家臣、宮本三木之助である」


 岩の上に立ち、そう宣告した。

 風が吹いた。

 くさむらがざわめいた。

 静かな水面に、川岸の彼が立つ岩から波紋が生じた。

 三木之助が名乗った時から、何かこの周辺の空気の質が変容してしまったかのようであった。

 もしもこの場に他の人間がいたのなら、大気が粘度を持ってその身に纏わりついたかのような錯覚を覚えたかもしれない。そのような、重いものが立ち込めている。

 いや。

 三木之助と対峙する少年は、表情を変えぬままに太刀を持ち上げ、肩に乗せた。


「ご無礼を致した。拙者、長州の産、岩流の津田小次郎と申します」

「岩流――」


 呟きながら、三木之助の右手は左手にもたれた太刀の柄に延びた。


「武士に向かって真剣を抜いて、それを納めもせずに名乗るとは無礼至極よな。前髪だろうと切り伏せられて文句は言えんぞ」

「できるものなら」


 小次郎と名乗った少年の口元に笑みが浮かんだ。揶揄を含み、こちらを嘲弄しているのは明らかだった。

 気性の荒い戦国の荒武者ならば、気息と共に怒号を発し、ただちに腰のものを抜き放っていたに違いない。

 だが、三木之助は眼を細めると柄に触れていた右手を離し、「ふん」と鼻を鳴らした。


「近頃の若衆は――」


 呆れたような口ぶりから、ごく自然な動きで三木之助は右手を左袖の中に入れた。   

 そこから手を掲げて掌の中に隠していた手裏剣を打つまでの所作は、むしろ何かの舞いであるかのような優雅さだった。

 黒い棒手裏剣はひゅんと空を切り、少年の胸めがけて打ち込まれる。

 この時代の武士は、何かの隠し武器を持つのはむしろ普通であった。

 寸鉄も身に帯びずという言葉もあるが、この場合の寸鉄とは小さな鉄片という意味ではなくて隠し武器のことをさす。

 そんな言葉が残るくらいに武士が隠し武器を携帯するのは当たり前のことなのだ。その中でも手裏剣というのは扱いの難しい武器であった。

 一般に手裏剣とは投げるのではなく、打つという。

 投擲から半回転する手裏剣を相手に突き刺そうとするのならば、その距離によって打法を変えねばならず、しかし間合いを厳密に計るというのは生半な腕前ではできることではない。

 三木之助はそれができた。

 宮本三木之助の養父たる新免武蔵は、手裏剣の名手でもあったのだ。

 少年――小次郎はそれをどう迎え撃ったのか。


「おっ」


 と小さく声を発したかと思うと、肩に乗せていた刃を軽く振って手裏剣を弾き飛ばす。

 軽々とやってのけたが、それは尋常な腕前でできるようなことではない。

 飛ぶ燕すら切り落とす刃の速度があればこそだ。

 自然と口元が歪んだ小次郎であったが、続けての雪崩落ちるように跳躍しての打ち込みを仕掛けた三木之助に対し、驚愕を表に出した。

 届くはずがない――しかし、三木之助の手にある長い何かの攻撃は、むしろ余裕をもって届いた。

 反射的にそれを返す刀で受け、さらにその瞬間に眼を剥く。

 やけに軽い音を立てて弾き返されたのは、竹でできた釣竿だったのだ。


「よう受けた」


 いつの間に手にあるものを竿に持ち替えたのか、そしてまた、いつ弾かれた竿の代わりに両手に刀を持ったのか。

 気づけば、撃尺の間合で宮本三木之助は左の小太刀を中段に、右の太刀を上段に掲げていた。


「はっ――」


 小次郎は、吐き捨てるように嘲笑する。


「音に聞こえた武蔵流二刀剣、実態はただの不意打ちか!」

「たわけが。果し合いの作法も知らぬ前髪相手に、まともに戦う道理などあるかよ」


 叫び返す三木之助に、「ふん」と小次郎は野太刀を八双に構えて応じた。

 三木之助の述べるとおりに、当時は果し合いにはそれなりの形式が求められた。

 合戦に於いても作法があった時代なのだから当然であるとは言える。

 勿論、不意打ち騙し討ちはままあることではあるのだが、剣客同士が正式に戦うというのならば立会人がいるのが尋常なのだった。

 この場合、すでに抜いた太刀を手にして名乗る相手などにまっとうに応じる必要などはない。もっというのならば刺客と看做しても問題はないくらいだ。

 とはいえ、正当性の是非などはこの際、関係はない。

 殺し合いならば――所詮、殺された方が負けである。

 三木之助は迂闊だったか、と思っていた。


(せめて、小兵衛が来るまで話を引き伸ばすべきであったかもしれんが……)


 小兵衛とは宮本家の家人である。

 宮本兄弟と共に養父・武蔵に剣の指南を受けていた。

 その腕前はかなりのものであるが――三木之助が釣をしている間は席を外している。勿論、何かの拍子で川に落ちて溺れたりなどということがないよう、川下やこの近隣を何人かの他の家人と連れ立って見回っていたりするのだが。

 そろそろ、三木之助を迎えに来る時刻ではあった。

 なのにどうして小兵衛らの到着を待たずに仕掛けたのかというと、単純に引き伸ばそうとしても無理であったろうと確信していたからだ。

 こいつは自分を知って仕掛けてきた。つまりそれは自分の家人がいない隙をついてきたということで、時間がたてば自分が不利になるであろうことは解っているはずである。だからあえて自分から仕掛けたのだが。

 そこまで解っておきながら、なお小兵衛の到着を待っていたらなどと考えてしまうのは、目の前に対峙する少年剣士に感じた威圧感によるものだ。


(思った以上にできる)


 いつの間にか、風が吹いていた。幾重にも重なったかのようなそれは方向も知れず川岸の叢をかき乱すかのように揺らしていく。

 二刀と一刀。

 二人の剣客の位置もまた、風に流されたかのように移動していた。

 三木之助は右に。

 小次郎もまた右に。

 お互いが回り込むかのように、ゆうるりとした動きで歩きつつ――、


 滑るように前に進んだ三木之助と。

 撥ねるかのように切り下ろした小次郎と。


 打ち合わされた刃の音は二つ。


 川岸の、水面の淵まで飛びのいた三木之助は、草鞋の端が水に浸かったのを感じて柳眉を焦燥の形に歪め、刃を返して切り上げていた小次郎は、追い詰めたと知ったのか喜色を顔に浮かべた。

 三木之助は小太刀をまっすぐに天へと掲げた。対する小次郎は野太刀を下段に下げた。

 そしてまた、風が吹き――汗の珠を顔いっぱいに浮かべた三木之助は「南無三」と口ずさみ。

 とその時、衣擦れと地を蹴る騒がしい足音が聞こえた。


「三木之助様!」


 耳に届く声は小兵衛ではないが宮本家の家人のものだ。


「ちっ――ここはおく。だが、目的は果たせた」


 小次郎は土手から自分らに駆け寄ろうとしている者たちを一瞥してから、また三木之助を見る。


「待て。目的は私の命ではないのか」

「違う。伝えよ、新免武蔵に。岩流は貴方を許さぬと。武蔵流もすでに見切ったと――」


 言い捨てて、小次郎はあっさりと三木之助の間合いを飛び退いて外し、さっさと背中を向けて走り去る。

 三木之助はその背中に向けて小太刀を打ち込もうとしたが、あまりにも速く遠ざかって行かれたために断念し、腰の鞘へと納めた。右手の太刀は持ったままに放り捨てていた釣竿を拾い上げる。


「三木之助様、ご無事でしたか」


 吐く息も荒く、小兵衛が三木之助の前に辿りつき、片膝を落としてそう伺った。


「見ての通りだ」


 と答えた三木之助であったが、先端が切られて短くなった竹竿へと眼をやって、唸るように呟いた。


「さても、大物を釣りそこねたものよ。さて、父上ならばどうとでもできるだろうが――」

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