離岸流

煙 亜月

第1話

「ね、夏休みどこ行くの?」

「あたしは一族郎党墓参り―。あとは甥と姪のおもちゃにされるー」

「なんか、タイヘンそうだな」

「そう、それがすごいんだよ。癇癪起こすと楽なんだけどさ」

「え、なんで? 逆じゃない?」

「いや、アイツらキレると制御不能になるから。だれも手出しできない、ってか手の出しようがないから放置できるんだよね」

「はあ。なんか、苦労してんだね。それで、あんたは?」

「は? うち?」急に話の矛先を向けられて困るわたし。「そうだよ。どうせゲーム三昧だろうけどさ」

「あ、いやあ、ははは。ま、そんなんいうてもなあ、今期は新作、三本もあるんよ? あ、いや、リマスター版入れると四本か。どうやって消化するんって話じゃん?」

「あんたさあ、いや、まあ、明るいオタクなのはいいけど、たまには遊びなよ?」

 いや、めっちゃ家で遊んでんだけどね。それを世間では遊びとはいわないらしい。奇妙な風俗である。

「で、そっちの三角筋は?」

「だーれがキレッキレの三角筋および僧帽筋そしてそれらを支える広く美しい広背筋やねん」

「あ、う、うん、夏休みどうするの?」苦笑いしつつクラスメイトらはあの子のボディチェックをする。

「あっ、やん、あふん」ノリのいいのはいいことだ。わたしはそう思う。ただ、自分もそうしたいかどうかというのは別問題である。

「わ、すごい、ほんとにキレッキレ!」

「脇腹の筋肉も――あっ、抜けない、細くしなやかな腕と前鋸筋に挟まって手が抜けない!」

 あー、ハイハイ。切れてる切れてる。

 形容しがたいまぶしさで目がくらむけど、何分、早いとこアーリーアクセス権を取得した作品でログインボーナスを毎日ゲットしないといけないんだ、正義の味方ってヤツはよ。テキストや学参、ノートをきれいにまとめてバックパックに入れる。ああ、忙しい忙しい。

「ねえ、あんたんちも実家帰んの?」とキレッキレの水泳部員。

 その手には乗らないぞ、小学校中学校とさんざん利用されたのだから。こいつは分かっていってるんだろうなと思いつつ、

「んー、今年は行かないっていってる。客がこうも密を避けてちゃ、商売になんないってさ」

 どうよ、この的確にして決定的なジャブ。

「だから、ばあちゃんいわく海の家自体、開かないんだってさ」

「え、海の家、閉店ガラガラ?」

「いや、あくまでも一時的にだよ、もう少し新規感染者数が減少したら、っていう感じ」

「え、なによ三角筋。この子んとこ海の家やってんの?」と、罪のないクラスメイトが罪作りなことを口走る。

「うん。かなり立派なつくりだよ。でも現状、営業は難しいかも、ってとこなんやな」

「じゃあさ、それって」

 来るな――来るんじゃない、でないとわたしのログインボーナスが――。「うちら三、四人程度でちょいとだけお借りするの、密になんないよね?」

 ひとの祖父母宅を、ひとのログインボーナスをなんだと思っているのだ。わたしはうなだれる。ま、なんとも思っていないのだろうね。

 かくして全作品、ログインボーナスのフルコンプリートの夢はあっさりと潰えたのであった。


「――それが、どうして、こうなるのよ!」

「あたしも知らないよう!」

 天候は、嵐。暴風雨といってもいい。

 海の家から出るころには、うちの教頭先生閣下の髪型のように天晴れなものだった。夜型のわたしですら思わず朝日に柏手を打ちたくなったほどだ。

 たまたま早起きしたふたりは浮き輪一つと水中カメラ一つとを持って、朝露の光の粒子が空気中にも水中にも輝く海に飛び込んだ。

 こういう夏休みも、悪くはないかもな。

 その誤解から約一〇分後、天候は急転、さらには浮き輪が沖へ沖へと流されていったのだ。

「まずいな――あたし、できるだけ立ち泳ぎする。あんたも極力、浮き輪に体重掛けないで」

「ええ? なんていった?」

「だーかーらー! この浮き輪少しずつエアが抜けてんの!」風と波と雨の音で会話もできやしない。「ふたりで一つの浮き輪はまずい。エア入れるとこ、下だし。仮にあたしが潜って空気入れるとしても、このぼろい備品のやつに逆止弁があるかどうか――」

「じゃなくて! な、何なのこの、すごい沖に引っ張られる波! あなた水泳部でしょ、浮き輪押して岸まで行けないの?」

「――ご、ごめん」

「はあ? あぬぶ、えあっ、がっ、な、なにがごめんなの!」波の高さも増してきた。

「これはな、離岸流っていう局所的な強い流れなんだよ。いくらあたしでも――いや、オリンピック強化選手でも真っ向勝負は無理だろうな。もうすぐ離岸流頭ってやつに着く。そこまで行くと引っ張られたりはしなくなる。凪みたいなもんだ。離岸流頭まで体力を温存したら――ちょっと、なに泣いてんの! あたしだって離岸流初めてだよ! すっげえ怖いよ! 家帰りてえよ! で、でもな、ふたりとも確実に助かる方法がある。だから、頑張って聞いて――」


 ここが離岸流頭という地点なのだろう。押しも引きもされない、まるで自分が最初からそこにいるような、奇妙極まりない一体感。浮き輪も徐々に小さくなってゆく。水泳部の彼女はゴーグルを着け、岸に対し真横に泳ぎ始めた。彼女の後姿もあっという間に見えなくなる。彼女に振っていた右手がぽちゃん、と海面に落ちる。

「――寒い」

 それもそうだ。体は一時間近く海中にあり、嵐は吹き荒れ、頼みの綱の水泳部のエースはひとりでどこかへいってしまった。彼女の泳力なら、岸へたどり着けるかもしれない。そうしたら一一八番、海上保安庁へも通報できるだろう。そうだ、そうなのだ。わたしは金槌に生まれたことをこの期に及んで後悔すらしていない。それに、わたしが完全に海の藻屑となるには時間がかかる。それまでに救援が来ない方がおかしい。

 彼女が離岸流を迂回して岸まで泳ぎ切るか、もしかすると起き出した母や祖母、友人が先んじて海保や警察に連絡する確率はそれほど低くはない。それまで、わたしはこうしてたゆたって待つだけだ。なんとも消極的な生存戦略だが、いまはそうするほかない。

 せめて、トイレだけでも済ませておこうか。山岳でも海難でも、まず行なうのが「その場ですみやかに排泄」だ。ヘリにトイレなんてないし、病院へだって航行時間はかかる。まあ、誰も見ちゃいないし、海なんてだだっ広い水洗トイレでもある――だなんて冗談めかして楽観視しようと努力をするが、恐怖で体は震えっぱなしだ。おしっこがなかなか出てくれない――なんかさ、死ぬのって、こんなに大変なことなのかな。おーい、かみさま――? でも実物は見たことない。一家で仏教徒してやってんのに、お釈迦様も見たことも会ったともない。

 それでもわたしはあの子――三角筋を祈った。どうか、あの子が健やかでありますように――わたしのライフゲージを犠牲にしてでも、だ。以上、アーメン、ラーメン、そば、うどん。

「くっそ寒いんじゃあ!」

 歯ががちがちと鳴っている。「がああ!」もう一声叫び足す。恐怖もだけど、寒いのだ。体力の温存はできても体温はどんどん奪われてゆく。「これが七月なんかあ! なんかちょっとおかしいんとちゃうんか! だって、だって――」

 ――これでふたりともダメだったら、

「神様のバッキャロー! ホトケ様のあほんだらー! でなきゃわたしは、わたしはあ――」


 ――このままじごくにいくんだよね。


 徐々に、しかし確実に眠気が来ている。大あくびをひとつつき、いよいよか、と緩慢に腹を括り始める。目を細めないとあたりもまぶしくて見ていられないし、まわりはやたらとうるさいし、閻魔様も大変なんだね、と仰ぎ見ると

「もがぶ、がっ、ばあ、っぷへ、ひゅうう、ううう」と、浮力の小さくなった浮き輪ごとひっくり返り、足だけ水上に出る体勢になった。パニックになる。そのわたしを何やらものすごく強い力で助け起こす――ダイバー? ダイバーだ、ダイバーがいる。天使ではないが天使よりずっと頼りになるその男性にしがみつく。「海保です! 海上保安庁です! 話せますか! 痛いところとかないですか!」と耳元で叫ぶ。――海保。頭上の閻魔様は――救難ヘリがホバリングしてサーチライトを当てていたのだ。一気に現実に引き戻される。

「だ――大丈夫、です。トイレも済ませました。いつでも乗れます」

 わたしはただちにホイストに引き揚げられ機内に乗り込む。海水を飲みすぎたのか乗り物酔いなのか、機内で少し吐いたが、ヘリは県立病院までまっすぐ飛んだ。


 搬送先の病院で、彼女――水泳部の子はICUにいると受持ちの看護師さんに聞いた。様子を尋ねると、

「ええと、ちょっと待ってくださいね――ああ、うーん、うん、搬送時、低体温と低血圧だったけど、今は誤嚥性肺炎で熱が少し出てる。電解質とかを点滴で補正してるだけみたいよ」と返される。

「て、低体温――低血圧――誤嚥性、肺炎」

 ああ、だめだ、これは確実にだめなやつだ、これは、これは――わたしのせいだ。海の家に、それも仲間内だけで鍵だけ借りて行こうなんて最後の判断をしたのはわたしだ。あの朝に二人で、誰にもいわずに海に出かけたのもわたしのせいだ。海を舐めていたのだ。天気予報もちゃんと見ておかなかった。少しゲリラ豪雨があるかもしれない、という情報を軽視したのはわたしだ、わたしのせいだ。ぜんぶ、ぜんぶ、

「――たしのせいだ、わたしのせいだ、わたしのせいだ! わたしのせいだ! わたしの」両こぶしで額をがんがんと殴りつける。もうおしまいだ、おしまいだ、おしまい

 「――ん――さん! 聞いて!」

 はっと目を向けると受持ち看護師がこちらの目を見ている。わたしは腕で自分の顔をかばう。「――うっ、う、あああ!」

 看護師はナースコールを押し、「あー、ごめん、四〇一二の子、不穏ー。先生と助手さんひとりー、お願いしまーす」といい、「もう、大丈夫だってば。ICUの友達も寝てる間もずっとあなたの名前、呼んでたんよ?」

「――譫妄、状態?」荒い息と鼓動を何とか鎮めながら問うた。

「ま、それに近いかもだけど――思ってることいっちゃうみたいな側面もあるし、深く受け止める必要はないわ。ふつうに寝てる時だって、夢って変な内容ばっかりじゃない。それとさして変わりはないよ。それより、あしたの二時から三時のあいだで一五分間、向こうのご家族と一緒に面会できるんだけど、どうする?」


 わたしは軽症だったので車いすに乗る必要もなく、自分で歩いてICUを訪ねた。ガウンテクニックを行ない、エアーカーテンを通り、なにからなにまで清潔か不潔かだけで峻別された空間へ進む。

 彼女のベッドの隣へ行くと、瞑目し酸素マスクを宛がわれた彼女がいた。

「ご、ごめん、ほんとにごめん、わたしってバカだよね、泳げもしないのに海なんか行って、ほんとクズだよね、ごめんな、さい――」

「ちょっと、まだ生きてるんだけど」

 帽子とマスクの間のわたしの目が大きく見開かれたのであろう、彼女は「もう、その顔なによ、傑作だわ。写真撮っときてえ、スマホないけど」とからからと笑った。しかし、その声は喀痰でごろごろとしており、わたしにも海水が肺に入ったのだということは分かった。

「でも――ごめん、いやほんとごめん、ひとりで泳げる距離じゃなかったよね」

「なにが?」

「えっ」

「あ、いや――ふつうに海の家行ったんだけど誰もいなかったから、自分のスマホで海保の番号調べて通報したんだけど」

 わたしは絶句する。代わりに涙が出てくる。グローブを着けたままなので拭えもしない。

「でも焦ったな。ヘリがすぐに飛べるか微妙だったし、あんたはカナヅチだし場所の目星もつかないし。ちょっと泳げるからって、慢心があったな――だから、ごめん! あの状況ではああするしかなかったとしても、あたしも離岸流ナメてたし、あんたに死ぬほど怖い思いさせた。もしあんたんとこが告訴するなら、全面的に認めて示談にしようってうちでは話し合ってる。でも、謝っても謝り切れないよね」

 わたしは下を向いて涙をこらえる。

「そんな、バカなこといわないでよ。立場が逆でもわたし、同じことしたと思う。そんで、同じように謝ったと思う。だから、もういいから、うちでゲームしようよ、ほら、ダウジャス。ザ・ダウテッド・ジャスティス。シーズンパスもまだ間に合うから。今ならログボだけでオリハルコンの双剣が一アカウントで二個作れるんだよ? これさ、普通に作ろうと思ったら一五〇〇円は課金しなくちゃなんないの。だから、ね? 早く退院して、ゲームしようよ、ふたりで。それにわたし、ほんというと海って肌も髪も焼けるから苦手だったんだよね。だから、その、岸まで泳ぎ切れたって聞いて失神しそうだった。だから、もしあれで何かあったらって考えると、もう、生きた心地がしなくて――」

 結局、涙はあふれ出てわたしはベッドの柵につかまって膝をつく。

「――でもさ、泳いだっていってもたぶん三〇〇もないと思うよ」

「え」

「たしかにゲリラ豪雨で視界も悪かったけど、実際流されたのは直線距離でせいぜい二〇〇。そこから迂回して泳いだ距離をざっくりルート二しても、二八〇。あたしには大した距離じゃないよ。ま、慌ててたから海水ちょっと飲んじゃったけど」

 わたしは立ち上がって彼女の手を取る。顔を少し近づける。

「お、なんか今ひとこといおうとしてるだろ。せーので、合わす?」と酸素マスクを曇らせていう。

 ふたりで無言のまま頷きあう。


「ありがとう」「ごめんね」

 ふふっ、とふたりで笑うとまた涙が出て来た。「もう、やり直し! せーの」

「ごめんね」「ありがとう」


 そこで彼女は咳き込み、「笑いながら咳すると大変だな」と顔を紅潮させた。「ご、ごめん、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫、夏季特訓に比べたら数倍マシ、昼寝ができるわ。――週開け、熱が下がったら一般病棟に移れる予定なんよ。スマホも持てるからさっきの合わせるやつ、練習な。宿題にしとくから」


 ICUを後にする。

 分かってないんだから。わたしたちが「せーの」でいえる言葉はほんのわずかなのに。きっと言葉でいえないし、言葉にできない。

 このことは、彼女とわたしの夏休みの宿題。夏が始まって、終わってもなお続く宿題。そう気づいてくれたらいいな。 ありえないけど。

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