第五集 戦下の産声

 慕容廆ぼようかいへの遣いを終えた暁鹿ぎょうかは、その後の軍議にも顔を出し、別用を頼まれる事となる。

 内城から出ると、そこで待っているはずの小恬しょうてんの姿が無い事に戸惑い周囲を見渡した。

 もともと目立つような服装をしていない小恬であるから、暁鹿が探しているのは、薬草を満載した巨大な背包はいほうである。


 しばらく見回して、それらしき物を見つけた暁鹿が近づくと、そこは何人もの怪我人が寝かされている脇道であり、あちこちで煎じ薬を飲ませている小恬が見える。


「何をしているかと思えば……」

「あー、いや、この状況でボーっと立ってるのも居たたまれなくて……」


 近づいて呟いた暁鹿に、小恬は苦笑しながらそう答えた。そんな小恬に、暁鹿は表情を崩す事もなく言い放つ。


大人たいじんがお呼びだ。お前に頼みがあるそうだ」


 大人と言えば、漢人においては広範囲に目上の男性を指すが、鮮卑では首長の事を指す。つまりは慕容廆その人である。

 先ほど長史ちょうし裴嶷はいぎょくに出会った時も慌てたが、今度は首長に名指しで呼び出され、一介の田舎娘としては冷や汗を流すしか無かった。


 余談だが、慕容廆は単于ぜんうの呼称で呼ばれる事もある。単于とは本来、別言語圏の部族である匈奴きょうどの君主号である。しかし漢人の役人にはその辺の区別がついていない者もいて、鮮卑せんぴ単于ぜんうという呼び方をされる事もしばしばあったのだが、慕容廆の方は面白がって訂正せず、鮮卑の全部族を統括するともとれる「鮮卑大単于」などと名乗って他部族を挑発した事もあった。

 いずれにしても、首長、族長、大王、大人、単于。どう呼んだとしても慕容廆は気にしない豪快な男であった。




 さて、この時の棘城きょくじょうは、慕容部ぼようぶに反感を持つ周辺部族、すなわち同じ鮮卑系部族である段部だんぶ宇文部うぶんぶ、そして北方の高句麗こうくりによる三部族連合に包囲されていた。その数は総勢で五十万を超えていたともいうが、慕容部の首長である慕容廆は動じなかった。


「いくら数が多かろうと、寄せ集めの集団で、互いに指揮系統が整っておりません。守りを固めて耐え抜けば時間とともに瓦解しましょう」


 参謀である裴嶷からそう言われていた慕容廆は、棘城に入って防備を固めたというわけだ。

 だが同時に慕容廆は、この三部族連合による包囲網の背後には、殊更に自分を嫌っている平州刺史へいしゅうしし崔毖さいひがいるのではないかと疑っていた。だがその決定的な証拠が掴めずにいたのである。

 そんな中で現れたのが、ただ一騎で敵の包囲を抜けてきた暁鹿である。同行していたという漢人の娘の存在に言及してみれば、裴嶷も先ほど出会ったと口を揃え、冷静で聡明な娘だと褒めたわけだ。


「……そういうわけで、そなたら二人に襄平じょうへいに行ってもらいたいのだ」


 慕容廆から訛りのある漢語でそう言われた小恬は、どう答えたら分からぬと言った様子で固まってしまった。

 襄平は平州刺史・崔毖の居城でもある平州の中心都市だ。要するに密偵をしろという話。ここで迂闊な返答をすれば不興を買って斬られるのではないかという恐怖が小恬にはあった。

 そんな彼女の心配を察してか、横に控える裴嶷が笑顔で語りかける。


「曲がりなりにもあちらは正式な晋朝の刺史で、そなたは漢人だ。多くの流民が放浪している今の世なら、怪しまれる事もなかろう。城内で噂話を集めてくれれば良い。それだけの事なら、鮮卑族の者はもちろん、私のように官職についていた男などより、よほど動きやすいと思うのだ。そう難しく考える事は無い。こうして包囲されている戦下の城にいるより、よほど安全な後方の城に退避するとでも思っていればよい。もし情報が得られずとも気にする事は無い。もしも気になる事を耳にした時、戦いが落ち着いた後で知らせてくれればよいのだ」


 少し悩んだ小恬であったが、それだけの事であるならと心を決め、拱手きょうしゅ(両手の甲を相手に向けるように顔の前で重ねて揃える礼)の姿勢で承諾した。


「しかし、私は所詮、行きずりの漢人です。そのまま崔刺史の所へ逃げ込んで、戻ってこないとは考えないのですか?」


 咄嗟に思った事を口にしてしまった小恬は、言わない方が良かったかと内心で後悔したが、慕容廆は豪快に笑って返す。


「それならそれで構わぬ! そうなるなら、ワシよりも崔毖の方が器があったというだけの話で終わりよ!」


 拍子抜けするような気持のいい答えが返ってきた事に、逆に困惑する小恬であったが、そんな慕容廆の横に控えている裴嶷も笑みを浮かべている。

 裴嶷がなぜ慕容廆の下で働こうと思ったのか、小恬も理解できた気がした。


「それから……、そなたは医術の心得があるとか……。もし可能であるならば、出発する前に我が息子の嫁を診てやってくれぬか。その者は臨月で、ともすれば赤子も危ういかも知れぬでな……」


 慕容廆にそう頼まれた小恬は、座学の知識しかない事を付け加えつつも、診るだけは診てみますと引き受けた。

 後の世に漢方と呼ばれる東洋医学の基礎は、後漢代に生まれた。そこから時間をかけて東アジア一帯に広まっていくのだが、この魏晋の時代ではまだ漢人の、それも医学書を学んだ一部の知識人たちが有する物でしか無かった。

 漢人であっても一般庶民に医学や薬学の知識はほぼなく、特に鮮卑や匈奴などの胡人となれば、病に関する知識などあろうはずもない。ただ回復を天に祈るくらいしか手段がなかったのである。


 さて、ここで言う慕容廆の息子とは、嫡子である慕容皝ぼようこうであり、その妻は後世に文明皇后ぶんめいこうごうおくりなで呼ばれるだん夫人である。

 彼女は同じ鮮卑族である段部の大人一族から嫁いできた身である。そして慕容皝の生母もまた段部から嫁いでいる。

 そんな段部は、今まさにこの棘城を包囲する三部族連合に参加しているという状況にあった。

 段夫人にとっても、そして夫である慕容皝にとっても、それは辛い立場であると容易に想像される。

 まして段夫人は身重であり、しかも臨月となれば、その精神的負担が体に影響を与えてしまうのも無理は無かった。


「そなたが……、父の言っていた医師か?」


 そう言って小恬を迎え入れた慕容皝は、この時まだ二十代前半の青年である。史書には七尺八寸(約一八五センチ)の偉丈夫で、貴公子の如く整った顔立ちであったと記されている。例え異民族ではあっても、そうした人を魅了する慕容皝の容貌に、思わず戸惑って顔を赤らめてしまう小恬。

 一方で、てっきり神仙のような白髪の老人が来るものと思っていた慕容皝も、自分よりも年若い娘が来た事に戸惑っている様子であった。


「わ、私も学んだだけで、実際に人を診るのはほとんど初めてで……。他に医師がいないという話ですし、頼りないかも知れませんが、どうかご容赦ください!」


 慕容皝の話によると、段夫人はここ数日ずっと寝込んでおり、まともに食事もとらず、嘔吐を繰り返しているという。

 初めの内は自信無さげであった小恬も、いざ眠っている段夫人を前にして脈を取り始めると、途端に真剣な表情になって診察を始めた。後ろで心配そうに眺める慕容皝に対し、触診を続けながら肩越しに話しかける小恬。


「女が子を孕むと、腹中で子を育てる為、衝脈しょうみゃく任脈にんみゃくという二つの経絡けいらくに多くの陰の気が流れ込むのです。陰の気が腹に向かえば、陽の気は自ずから体の上に押し出されてしまいます。これを上逆じょうぎゃくと言って、妊娠している期間の吐き気に繋がるわけです。特に今度のように、不安、怒り、悲しみなどで心が乱れる状況になると、肝胃不和かんいふわを起こして、上逆も起こしやすくなるのです。見た所、疫病などの兆しもありませんし、上逆を抑える薬を煎じましょう。それを朝晩飲ませていれば、症状も落ち着くはずです」


 笑顔を見せつつのそんな小恬の言葉に、慕容皝も顔を輝かせた。

 手に負えぬ大病でなくて胸を撫で下ろしたのは小恬の方も同様である。背包から生薬を取り出して、有り合わせの材料から煎じ薬を数日分処方した。


「それから赤ちゃんも、もう数日で産まれると思います。私は立ちあえませんが、それまでは気を付けてあげてください」

「本当に感謝する」


 慕容皝と段夫人の間に出来たこの子供は小恬の見立て通り、この数日後に戦下の棘城で産声を上げた。

 慕容儁ぼようしゅんと名付けられる事になるその赤子が、後にえん国の初代皇帝になるとは、小恬は元より、父の慕容皝、祖父の慕容廆も含め、この時点では誰も思っていなかったであろう。




 その後、用意された部屋で休息を取った小恬だったが、大して睡眠を取った気にもなれない真夜中に揺り起こされる事となる。

 敵の包囲を抜けるなら、夜明け前の闇に乗じるのが最も良いというわけだ。

 眠い目をこすりながら着替えを済ませた小恬は、朝方の冷たい空気に身をさすりながら既に表で待っていた暁鹿と合流する。


「馬はどうする? もう一頭用意してもらうか?」


 暁鹿のそんな問いに、小恬は一瞬悩む。正直な話、馬術は得意ではない。その辺をのんびりと散策するだけならばまだいいが、襲い掛かる敵兵を蹴散らして全力疾走する馬を操るとなると……、振り落とされぬ様、泣きながら馬にしがみ付いている自分しか想像出来ない。


「いや……、また後ろでお願いします……」


 小恬はそう言うと、再び暁鹿の愛馬に同乗し、彼女の背中にしがみ付いた。

 目指すは遼東半島。平州の州府・襄平。


 気が付けばまた、晋の都から遠ざかっていた……。





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