第四集 慕容廆の涙

 その初老の漢人男性は、裴嶷はいぎょくと名乗った。

 かつて西晋せいしんの在りし日に昌黎しょうれい郡の太守たいしゅを務めた男である。


 裴嶷は元々、都である洛陽らくように程近い河東かとう郡の生まれであるが、彼の兄である裴武はいぶ平州へいしゅうの北方にある玄菟げんと郡の太守であった事から、本来ならば辺境の任地だとして嫌がられる平州へと進んで着任していた。

 その清廉誠実な人柄は、平州はもちろん小恬の故郷である幽州ゆうしゅうにも聞こえていたほどだ。


 十年ほど前の永嘉えいかの乱によって首都・洛陽に匈奴きょうどかんの軍が迫っていた頃になると、当時朝廷の実権を握っていた東海王とうかいおう司馬しばえつから都へと呼び出される事になったのであるが、都へ向かう街道が断絶しており、さて先へ進めないとなった際、彼は平州に留まる事を選んだ。

 本来ならば上役である平州刺史しし崔毖さいひのもとへ赴くのが妥当であるが、悪政を布いていた幽州刺史・王浚おうしゅんとの関係からくる優柔不断な彼の態度に、裴嶷もまた失望していたのである。

 そして異民族である鮮卑せんぴのもとに降るにしても、武勇偏重の気質で漢人嫌いなところもある段部だんぶ宇文部うぶんぶに比べ、漢人との融和を目指して文武双方の人材を募り、さらに民衆の暮らしも安定している慕容部ぼようぶへ身を寄せる事としたのである。


 かつての魏朝末期、司馬一族を担ぎ上げて晋朝建国の功臣となった裴秀はいしゅう

 そして余談であるが、この時代より八十年ほど後、かの陳寿ちんじゅが編纂した歴史書『三国志』に注釈を付けた事で後世にも有名になった歴史家・裴松之はいしょうし

 彼らもまた裴嶷と同じく河東裴氏の出身である。

 要するに裴嶷は、その名が知られた名門貴族だという事だ。


「あああ! 私は何て事を!」


 相手の素性を知って慌て出した小恬に、裴嶷は屈託のない笑顔を見せた。


「よいよい、そなたのお陰で助かった。それよりも、この矢を抜いてやらんと……」

「あ、はい」


 経穴けいけつを強く押さえられて左腕が痺れている兵士は、それによって痛みがかなり和らいでおり、苦も無く矢を抜く事が出来た。

 手際よく傷口を洗い流して治療していく小恬の様子に、裴嶷も微笑みながら見守っている。

 治療を受けた兵士が、恐らくは鮮卑語で感謝の言葉を述べるが、言葉の分からぬ小恬は身振り手振りで伝えようとした。そんな小恬の様子を見て、後ろから裴嶷が通訳をしてくれた。


「伝わっているとは思うが、非常に感謝されているぞ」

「あと、もし痛むようなら、さっきの経穴を自分で押さえてください」


 裴嶷はそのように通訳すると、鮮卑の兵士は無傷の右手で左肩を押さえていたので、無事に伝わっているようであった。


「さて、どうやらお呼びがかかっているようでな、私は行くとするよ。この者はそなたに任せるとしよう」


 そう言って立ち上がり内城の方へと歩いていく裴嶷の背中を、小恬は黙って見つめていた。


 中華王朝に根付いた儒教の価値観は、君主と臣下、親子兄弟の長幼など、徹底した上下関係を定めている。上の者の仁徳と、下の者の忠孝によって国家の安定を図る思想である。

 だがその弊害として、漢人が上、夷狄いてきは下という極端な華夷かい秩序を生み出し、ここにいる鮮卑族をはじめ、異民族を下等な野蛮人と蔑む漢人も多い。

 小恬は今まで異民族に接する機会が少なく、決して蔑む事はしなかったが、偏見が無かったと言えば嘘になる。

 異民族たちが、まるで家畜や奴隷のように扱われ搾取されているという話を耳にすれば、さすがに可哀想だと思った事もある。

 だが考えてみれば、漢人と言うから同情の目を向けるというのは、それ自体が既に下に見ている事にならないだろうか。

 各地で多くの胡人こじん(北方騎馬民族)が反乱を起こしている今の時代、その根本の原因は、結局そうした漢人側の意識にこそあったのではないだろうか。

 こうして裴嶷に会って、小恬は改めてそこに考えが及んだ。裴嶷のような漢人の高官、それも名門貴族が、鮮卑族の王に仕える事に強い違和感を覚えた、そんな自分に気づいてしまったから。




 一方その頃、暁鹿ぎょうかは慕容部の首長である慕容廆ぼようかいの部屋に呼ばれていた。二人の他に誰もいない。

 敵の包囲を単騎で突破し、剣を背負っていきなりやってきた初対面の者を自室に通した慕容廆と、曲がりなりにも若い女の身でありながら初老の権力者の部屋に単身で赴く暁鹿。

 どちらも警戒心が無いと言えばそれまでであるが、何かあったとしても単身で切り抜けられるという剛毅さが双方ともにあったと言えよう。

 暁鹿が慕容廆の前に進み出て片膝をついて礼をすると、穏やかな笑みを浮かべた慕容廆が鮮卑語で語りかけた。


「名は何と申す?」

破多蘭バトゥラン・烏倫摩蠡ウーリンマラールと言います」

「そなたは城門で、我が兄の遣いだと言ったそうだが、まことの話か」

「はい、吐谷渾とよくこん大人たいじんは、我が外祖父がいそふ(母方の祖父)にあたります」

「なんと……、ではそなたは我が姪孫てっそんか」


 その言葉に慕容廆は、どこか悲しげな眼をしながらも笑みを浮かべて物思いにふけり、暁鹿もまた黙って待っていた。

 しばらくの沈黙の後に、慕容廆が続ける。


「して、兄からの用件は?」

「いえ……、吐谷渾大人は、一昨年に亡くなり、今は嫡子である我が伯父、吐延とえん大人たいじんが当代の首長にあります。本日は、吐谷渾大人の訃報をお伝えせねばならぬ事、まことに心苦しくございます。よわい七十二の、穏やかな今際いまわであったとの事です」


 慕容廆は目を見開いて驚くと、その眼から一筋の涙を流した。


 かつて慕容廆が慕容部の首長を継いだ時、彼には慕容ぼよう吐谷渾とよくこんという、当時すでに三十代も後半に差し掛かっていた親子ほど年の離れた兄がいたのだが、兄は庶子(側室の子)であり、年少の弟ではあるが嫡子(正室の長男)である慕容廆が十六歳という若さで首長となった。

 その若さゆえ、慕容廆の部族継承に際して叔父との間で悶着があったのだが、その時も慕容吐谷渾は弟の為に尽力したのである。

 そんな兄もまた、生前に父から七百戸の部衆を分け与えられて独立していたのだった。

 慕容廆が首長となって間もない頃、放牧していた彼の馬が、兄の馬と争ってしまうという事件が起こる。若気の至りもあって感情のままに兄を罵ってしまった慕容廆だったが、兄は冷静に弟に言った。


「春に馬が争うのは自然の摂理であろう。それを理由に人が争うのは愚かだとは思わぬか? 私は父を同じくするお前を支えたくて近くにいたが、お前が立ち去れと言うのなら立ち去るとしよう。ここに留まって兄弟相争う未来が訪れるなど、私は耐えられぬ」


 そう言って慕容吐谷渾は、部衆を引き連れ立ち去ってしまった。

 これに慌てたのは慕容廆である。頭に血が上って信頼している兄を追い出してしまったと激しく後悔し、遣いを送って呼び止めようとした。

 しかし慕容吐谷渾は、一頭の白馬を引いてくると、穏やかな笑顔のまま遣いの者に言う。


「それでは天意に従うとしよう。この馬を追い立ててみせよ。もしも東へ戻るようなら私も戻る。だがそうでないなら、私はその方角へと向かうとしよう」


 そうして遣いの者は白馬を何とか東へと追い立てようとするが、どうあがいても馬は西へと向かってしまった。

 その様子に心を決めた吐谷渾は「達者で暮らせ」と弟に伝言すると、部衆の者たちを連れて草原の彼方へと消えていったという。


 遊牧民と言うのは、城はもちろんの事、依って立つ定住地を持たない。放牧地を巡って他の部族と争いとなり、もし敗れればそれで終わりだ。敵の部族に傘下として組み込まれるなら良い方で、部族ごと虐殺される事すらある。


 三十年以上も兄の安否が知れず後悔の念に苛まれ続けていた慕容廆のもとに、時を経て兄の部族からこうして遣いが来た。

 その言葉ぶりから健在だったどころか、部族としての独立を保ち、かつ子孫にも恵まれていた嬉しさと、そして再会が叶わぬまま既に兄が亡くなっていた悲しさとで、慕容廆は万感の涙を流したのであった。





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