2,蛇姫の伝説(2)

 水面がぬうっと盛り上がり、頂点で割れて、突き上げた者の頭部が露わになった。

 一本残らず真っ白の恐ろしく長い髪、否、それはもつれ合う白蛇だった。ギリシャ神話のメドゥーサが、フリーズ寸前の礼の脳で幽かに呼び起こされた。蛇に置換された髪を振り乱したソレがこちらを見る。爬虫類の目が一対並んでいる。唇を舐める舌は極端に細く、先が二つに分かれていた。

「な、なんだよ……、アレ……」下の方から声がした。瑠衣がへたり込んでいた。

「ちょっとだけ待ってね」空がスマートフォンを取り出す。「緊急伝達、観測対象二十八号の実体化を観測。民間人二名、避難誘導を優先します。待機中の上級職員の即時派遣を要請します」冷静な空のその語調はこの空間では異質に感じられた。

「――逃げるよ、二人とも」空が礼と瑠衣の腕を掴み、怪物に背を向けて走り出そうとする。

 ――

「礼ちゃん? どうしたの? 歩けない?」礼の足は根が生えたようにびくともしない。空が心配そうに覗き込む。という考えを打ち消す事が出来ない。脳髄の中で礼の知らない誰かが囁いている。

 蛇姫がゆっくりと歩いて来る。礼もそれに合わせて足を踏み出す。姫の方へ、の方へ。

「だめ、そっちは――」空は口では制するが、何か異常を感じ取ったのだろう、瑠衣だけを引き摺るようにして後退し、礼から遠ざかる。

 。脳髄で誰かの声がする。誰だったろう? いつ何処で聞いたのだろう? 疑問はあぶくとなって弾け、礼の意識を剥ぎ取っていく。何かが顔を出そうとしている。遮るものがなくなったわたしの中で。

「くふふっ」礼の意識が最後に捉えたのは、自分の口から洩れる笑い声だった。



 凍堂空は目の前の事態に困惑していた。五代礼はこれまでの観察ではごく普通の、怪異とは無縁の少女だったはずだった。

 悪霊とも妖怪とも違う異質なエネルギーが突然、五代礼から噴き出し始めた。月明りの下、彼女の髪が急に伸びたように見えた。違った。夥しい棘を伴った黒い触手めいたものが全身から伸び出したのだ。ふと腕の中にあるものがずしりと重くなった。見れば、都留瑠衣が気絶し、その肢体が弛緩していた。無理もない。これ程の瘴気に突然あてられて平気な人間はいない。分からないのはこの瘴気の源泉が疑いの余地なくである事だ。

「まずいな」独り言ちる。今日のシフトでは確か、急な用事がなければ江崎永理也と烏丸からすま綾羽あやはがいたはずだ。後者はともかく、永理也くんは五代礼も怪異だと勘違いして襲うかもしれない。それは避けたかった。

「――空閑くがさんっ!」背後からのその声にどれだけ安堵したか分からない。綾羽のものだ。永理也も後ろから追いかけてくる。

「二十八号はあっち、あの奥。手前は一応民間人だから攻撃しないように……」空のその指示は途切れた。

 指差した先、最早異形の輪郭を具えた五代礼だったはずの何かの触手が、槍のように蛇姫を刺し貫いていた。



「――それは確かなのね?」女の声。

「はい、間違いなく実体化していました」男の声がそれに応えた。

「あの、私も見ました。間違いではないと、思います……」遠慮がちな別の女の声が追従した。

「家系についての調査は?」最初の女が次の問いを口にする。

「現在は遠戚の代田しろたという夫婦が保護者となっています。ただ、出身は不居島いずしまの方らしいので追跡調査はまだ出来ていません」さらに別の女の声がした。

「分かりました。はあ、しかし、技術顧問はいつになったら来るわけ?」

「あの、えっと、『天地がひっくり返っても朝の十時まで起きない』って、人形さんに追い返されて……」

 長い溜め息。どうやらこの空間には自分を除いて四人いるらしい。礼の半覚醒の意識がそう判断した。

「十時まであと何時間?」

「……およそ七時間です」

「そうだ、係長はどうですか? 何か、参考になりそうな事例とか知ってるかもしれません」

「いつもの通り、連絡がつかない。こりゃ、技術顧問ともども朝まで動かないだろうね。とりあえず、永理也くんと空閑さんはもう休んで。明朝十時からミーティング、もしかしたら予定が繰り上がるかもしれないから連絡は取れるように……」

「お言葉ですが、隊長。モモトセ技術顧問は朝食に三十分かかるはずです」男の声。隊長と呼ばれた女が再び嘆息した。

「……繰り下がる可能性もあるから本部待機で」

「了解。お先に失礼します」

「お休みなさーい」二種類の足音が遠ざかり、ドアの向こうへ消えた。

「烏丸さんは、悪いけど引き続き監視をお願い。使い魔を頼ってもいいからさ」

「あ、はい、大丈夫です、多分」

「しかし、一体なんなのかねえ、彼女」こつこつという足音がこちらへ近付いてくる。

「今は普通の人、みたいですけど……」遠慮がちな声の主がそれに続く。

 礼はそこで目を開いた。文字通りの見知らぬ天井が視界いっぱいに広がり、その両端に見知らぬ女が二人、顔を突き出した。

「あ、起きた?」隊長と呼ばれた方の声は右手側から発せられた。

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