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 例え相手が5人でも、それぞれの動きを視野に抑えていれば、一度に襲い掛かって来ない限り、なんとかなる。俺はそう考えていたが、それと同時に背後からも敵が迫って来るとなれば、これは正直絶望的に近い状況だ。背後の敵を橋本に撃ってもらうとしても、運よく1人でも倒せたら御の字だろう。ここまで上手く来れたことが、逆に出来すぎだったのかもな……。


「ど、ど、どうしますか?!」


 橋本が俺に体を摺り寄せるようにして聞いてきたが、よっぽど「どうにもならんな」と答えようと思ったのを、どうにかこらえた。ウサばらしに橋本にそう答えたところで、それこそどうにもならないのだから。駐車場の奴らも建物から出て来る奴らも、じりっ、じりっ、と俺たちとの距離を狭めている。全員が一斉に突進して来たらその時点でアウトだったが、妙に時間をかけている分、まだ救われている。それも計画的に、俺たちを全員で封じ込めようとしているのではなく、個々それぞれに「警戒しながら近づいている」ように感じる。ならばまだ、どこかに「突破口」を見いだせないことはないか。思い切って車に向かって突っ込んでいくべきか……?



「ここまで生きてこれたのが奇跡みたいなもの」とは思っていたが、さすがにこの状況になり、全身がとてつもない緊張感に包まれ始めていた。まさに、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。そこでまた、建物内で破裂した死体や肉片が散らばる場面が脳裏に浮かび、胃の奥が「ウッ」となるような感覚を覚えた。それは、吐き気を催すような感覚かと思っていたのだが……何かが違った。そして、駐車場の中に転がっている「上半身のない死体」を見て、「はっ」と気が付いた。


 これは……吐き気がしたんじゃない。逆だ。俺の中の本能が、これを「食らいたい」と思ったんだ……!



 激しく損傷した人体と、飛び散った肉片や臓器。岩城の映像で見た「見世物市」――お偉いさん風に言うならば「食のイベント」――では、本能を表出させた女が、男の腹部を食い千切り、その傷口を押し広げて内臓を引きずり出し、貪り始めた。今やその「引きずり出してまで食らいたい部分」が、そこら中に転がっている状態なのだ。しかもそれは、ここ十数分で「破裂」したものだと思われ、鮮度は抜群。というより、そのまま放って置けば腐り果てることは間違いないのだから、「食らう」のなら「今しかない」。


「カオリ」のそんな痛切な思いが、俺の胃を刺激したのだろう。兵士たちを相手に、すぐに凶暴化出来るよう「備えていた」のも影響しているのかもしれない。カオリの本能は、手を伸ばせばそこに肉片があるという状況下で、急激に膨らみ始め。そしてその激情が、ピークに達した時……。



 俺はほんの一瞬、「気を失った」ような感覚を覚え。ふと前を見ると……そこに、「カオリ」がいた。カオリはしゃがみこんで、散らばった肉片や臓器を口いっぱいに頬張り。終いには、横たわっていた腰から下だけの死体にも手を伸ばし、残っていたわずかな臓器や肉片にも食らいつこうとしていた。


 橋本が、茫然とした表情でカオリを見ている。「もし俺が本能に取り憑かれちまったら、話は別だが」。俺は橋本に拳銃を渡した時に、そう話していた。その時は、撃つのを躊躇うなと。今のカオリは、どう見ても「本能に取り憑かれた状態」だ。橋本は震える腕で、銃口の先をゆっくりと、カオリの方へと向け始めた。……すると。


 橋本が何かに気付いたように、その動きを止めた。その視線はカオリではなく、その向こうにいる兵士たちを見つめていた。「俺」も、何が起きたのかとそちらの方を見てみると。先ほどまでジリジリと俺たちとの距離を狭めていた兵士たちが、いつの間にか「ピタリ」とその足を止めていた。振り返ってみると、本棟から出て来た兵士たちも同様だった。そして、奴らの視線は一様に、じっとカオリに注がれていた。



 カオリは、破裂した兵士の肉体を、思う存分食べ尽くしたあと。その場で「すっ」と立ち上がり、四方を見渡した。いや、自分を見つめている、兵士たちを。そこでカオリは、右手を真っすぐに、高々と上げた。兵士たちは、それが合図かのように、再び俺たちに向かって歩き出し。そして、カオリが上げていた手を降ろし、胸元の辺りで止め、手のひらを兵士たちに向けると。兵士たちはそこでまた、ピタリと足を止めた。今や完全に兵士たちは、カオリの「指示」に従っていた。



 そうか、そういうことか……。

 確かなことは何もわからなかったが、俺の中で感覚的に、ある「仮説」が浮かび上がった。それは恐らく、兵士たちに指示を出したカオリが、「俺自身」でもあるからなのだろう。


 日野はSEXtasyの原材料として、カマキリや蜘蛛などの、昆虫のエキスが使用されている可能性が高いと言っていた。それが、交尾した相手を食らうという「本能の表出」に繋がっているのではないかと。カオリは急激な表出のせいか、交尾した相手だけでなく「同種を食らう」という行為に進展してしまっているようだが。


 SEXtasyに、そういった昆虫類の成分が含まれているとしたら……他の昆虫類、例えば蜂や蟻などの成分も含有しているかもしれない。凶暴化した兵士達を、「集団として」行動させるために。蜂や蟻に「集団行動型」の性質があるのはよく知られている。凶暴化と共にその性質が表出すれば、それぞれが勝手に暴れ出し、「敵味方関係なく攻撃対象にする」ことも防げるかもしれない。実験的に、そんな成分を含めていたことはあり得る話だ。そして……蜂や蟻は、言うまでもなく、一匹の「女王」の元に集団行動する。


 カオリが、目の前で「同種の肉を貪り食った」ことで。兵士たちはきっと、カオリを「自分たちの女王」だと認識したのだ。そしてカオリも、本能的にそれを自覚した。恐らく兵士たちは、カオリの命令の元に動く「働きバチ、兵隊アリ」になったのだ……!



 気が付けば俺たちの周りに、兵士たち10数名が、「ズラリ」と整列していた。橋本は相変わらずブルブルと体を震わせ、怯えるばかりだったが。兵士たちに囲まれながら、カオリは「ニコリ」と笑い。その橋本に、笑顔で語りかけた。


「橋本、さん……。あなたには、色々と言いたいことがあるんだけど。でも、もういいわ。こうなった以上あたしは、こうなった上でのベストを尽くす。そう決めたの」


 橋本が、「それは……」と口を開こうとした瞬間。カオリの右腕が「しゅっ!」と素早く動いた。気付かぬうちにカオリは、右手に破裂した兵士の骨を握りしめていた。破裂した際に折れたのか、その先が鋭く尖った骨を。


 骨の先端は、一瞬のうちに橋本の胸を貫いた。

「うっ……!!」

 橋本は苦悶の表情を浮かべ、持っていた拳銃をカオリに向けようとしたが、すぐに力が抜けて、拳銃は手のひらから滑り落ちた。



「何か言おうとしてたみたいだけど、ごめんね? もう、あなたの言い訳も聞き飽きたの。あなたはあたしの中毒症状が、通常より進行が速いって注目してたけど。結局、史郎が進行を抑えてた分、あたしにその『ツケ』が回ってたのよ。それくらいわからなかった? あなたはいつもそうやって、自分に都合のいい解釈をして、他人を自分の野望の犠牲にしていた。岩城さんや日野さん、そして、あたしも……。

 だから……もうこれで、終わりにしましょう。史郎はあなたのこと、許すつもりもあったみたいだけど。残念ながら、『あたし』はそうはいかないわ……」



 カオリがそう言って、橋本の胸から骨を「ズブッ」と引き抜くと。橋本は口元からダラリと血を吐き出し、「う……あ……」と、まだ執念深く何かを言おうとしながら果たせず、バッタリとその場に崩れ落ちた。



 橋本がそのまま、ピクリとも動かなくなったのを見届けたあと。カオリは、橋本が持っていたカインのデータを取りあげると、くるりと「俺」の方に向き直った。



「じゃあ、行きましょう、史郎……。このデータがあれば、史郎はたぶん『破裂』しなくて済む。それに、ね……橋本さん、史郎には黙ってたけど。このディスクの中には、SEXtasyのデータも入ってるの。橋本さんね、中毒症状が進行したあたしに、自慢げに言ってたもん。史郎もなんとなく感じてたように、あたしと史郎の境界線がなくなって、あたしがこのまま『消えてしまう』と思ってたんでしょうね。


 このデータがあれば、研究施設を他にも作れる。自分はそこの責任者になるんだって、嬉しそうに言ってたわ。そんな野望を、実現させるわけにはいかないものね。これがあれば、カインだけでなく、SEXtasyも作ることが出来る。そして、あたしの『兵隊たち』を、増やすこともね……。破裂しなかった兵隊さんたち、なぜ破裂しなかったかはわからないけど、SEXtasyとカインの両方があれば、意図的にそういう状態を作り出すことも可能だと思うし。今の史郎みたいにね。


 橋本さんが言ってた通り、あの『お偉いさん』は、更に利益を拡大させるために、こことは別の場所で、研究施設の増設を計画してたの。そんなの許せないでしょう? だからあたしは、あたしの兵隊を使って、その増設予定の建物も壊滅させる。それまでは、まだ『死ねない』わよね、史郎……?」



 SEXtasyにより凶暴化した兵士たちを統率する、女王の誕生。それが、これからの世界をどう変えていくのか。案外、「面白いこと」になるかもな。世界の秩序が、徐々に崩壊していくような……。そして俺は、これまで「何もしてやれなかった」カオリのために、出来る限りの協力をしよう。カオリがその目的を、果たせるように。


 俺は、薄れかかっていた自分の「未来」に、新たな希望を見出し。カオリとその兵隊たちと共に、血と肉片にまみれ、崩壊した研究施設を後にした。


 

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