第3章・5

「――」


 彼女は、目を見開き、まっすぐにホヅディルさんを見つめた。

 口をアワアワと動かすだけで、音としての言葉が出てくることはなかった。

『ファーヒル』と呼ばれたことが、ありえないことだとでも言うように。


 わたしもその名前を聞いたことがある。

 祖母の口から、聞いたのだ。

 戦争の折、火の魔法で王を支えた一人だったと。

 空を統べるとさえ言われた魔物・龍を打ち取らせたら、右に出る者はいなかった。そう、わたしが聞いた龍殺しの方法も、すべては彼女の戦争譚を覚えていただけに過ぎない。だからこそ、その名前を聞いた時自分が一つの物語になったようで、嬉しくなってしまった。

 でも、そうじゃない。


 また、ガブリエットさんの水の盾が、激しい音を立てて蒸発した。

 夢でもない、幻想でもない。これは、ただの現実だ。

 火を吐く魔物が、すぐそこまで差し迫っている。紛うことなき現実として。


「私は、行きますよ。戦わなければ」

「ポド、危険すぎる」


 ホヅディルさんは、わたしの肩を掴んで止める。


「わたしには、何もできないかもしれない。それでも、何かをしたい」


 こんな風に――!

 小さく、わたしの唯一の力を見せる。

 手のひらの中に、透明な球体を映し出す。

 少しだけ白く濁ってはいるが、石鹸の泡のように日の光を散乱させて表面をわずかに虹色に変える。これが、わたしの唯一の魔法。防御の魔法。小さくもできるし、大きくもできる。何もできないと知ったときから、これだけは練習してきたのだから。


「これ、思ったよりも固いんですよ。おばあちゃんの魔法だって止められるくらい」

「……」


 わたしの笑顔に、誰も笑い返してはくれなかった。

 恐ろしく不安な雰囲気に包まれていたと思う。

 客車の屋根に一人、上る。

 ホヅディルさんは、そんなわたしに冷静に声をかけた。


「ばあさんの弾いた魔法ってどんなだ?」

「あれは……戦闘訓練と言ったお遊びの魔法でしたけど、弾き返したのは本当ですよ。クラッカーみたいなものでしたけど」

「そんなので――」


 と言いかけたホヅディルさんの言葉を、ユールが制した。


「そんなので、命を懸けんのかよ」

「そうですよ。どんなことだとしても、全力でやりたいんです。命をかけてでも」


 わたしは、客車の最後方で水の魔法を使い続けるガブリエットさんに近寄る。彼女は立つこともやっとというような出で立ちで、さっきまで腕を広げて水の盾を作っていたのだが、その手も広げるのがやっとというかのように震えている。

 わたしは、その手にすがりついてそれを止める。


「もう、無理しないでください。変わります」


 その手は、汗なのか水なのか、びっしょりと濡れていた。


「ポド……変わるって言ったって」

「大丈夫ですよ、わたしが守ります」

『QLYPEURiS!』


 白い球体が浮かび上がる。

 わたし自身もここまで大きくはっきりと出せたのは初めてだった。


 あれ? わたし、なんて言ったんだろう?


 この魔法に呪文なんてない、というか、呪文が必要なのは魔石の魔法だけのはずなのに。わたしの魔法……これはなんなのだろう。

 直後、龍の口から炎が吐きだされた。

 紅蓮の火が、白く薄い膜に阻まれる。

 透明の盾が、生き物すらも炭にする炎を弾く。

 龍も、あまりの事態に目を見開いた。


「やれた……」


 知らずに、わたしの口から言葉が零れた。

 それでもあと何度か、これを止めなければいけないのだ。街まで辿りつければ、魔法使い総出で倒せばいい。でも、もう一度できるだろうか、そう思って空を見上げるとまだそこに魔法の膜があった。

 自分でも信じられなかった。

 まだ火を防ぐことができるというのか――自分の力が怖い。

 震える手を、そっと――そして力強く握られた。


「俺も、怖いよ。自分が何者かを突きつけられてさ」

「……ユール」


 いつの間にか、彼女もここに上って来ていた。

 わたしの手と同じように、彼女の手もまた微かに震えている。


「ポドも頑張ってんだ。俺も、やるよ」

「うん」

「まあ、でも――」


 ――どうやってやるのかも覚えてないけどな。


 彼女の左手は私の手をしっかりと握りしめ、彼女の右手は龍へと向けられた。


「何かの、言葉を言ってた気だけはするんだよな」

「それ、お祖母ちゃんも言ってた」

「あ、それじゃねえ?」

「違う」と後ろでガブリエットさんが声を張り上げる。

「アイツのは、土の魔法――ソイツのは火だ。呪文が違うのは、ポドも分かるだろう。ヒトの使う呪符は、呪文をえり好みしない大喰らいだが、魔石はえり好みして好きな呪文しか受け付けないグルメなんだ」

「火の魔法の呪文とか知らないのか、ガブリエット?」

「当時から、オマエとは反りが合わなかったんだ――火と水のようにな」

「そうかい」


 じゃあ、自分で考えるしかないのかよ。

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