日に進み、月に歩く~帛書とレールロード~

亜夷舞モコ/えず

序章

「今年も、治水のための呪符をお願いいたします」


 男は、薄暗い部屋の真ん中の、大きな執務机につく老婆に頭を下げた。

 彼は北の山にほど近い小さな村の出身であった。

 その村は、川の上流に位置する岩山に振った雨によって何度も氾濫はんらんの被害にってきた。小さな雨でも水を溢れさせる川への対策として、『魔法』は欠かせないものだった。

 

 老婆は、難しい顔をして椅子に腰かけ、ずっと瞑目めいもくしている。

 薄暗い部屋の中、小さなランプが机の隅で光っていた。それが唯一の部屋の明かりであり、机の周りだけをぼんやりと照らしている。

 甘く煙い香が充満し、壁や天井に無数の魔法道具が下げられた部屋は、この村唯一の魔女が儀式を行う神聖な場所であった。

 村の重役たちが集まり、毎年氾濫する河を鎮めるために呪符を書き直す儀式を行うのだ。

 

 老婆は、男の言葉に応じて『ペン』をとった。

 木の軸に、先の尖った青い石が付いている。水の魔石というものの欠片である。

 この世界にほんのわずかしかなく、ペンの先ほどのサイズですら数えられるほどしか存在していない。あまりにも希少なその石だけが、持ち主の魔力を伝達し、呪符を書き表すことができる。


「布を……」

 

 老婆は、宙に手を差しだす。

 彼女の隣に控えたローブの女がそれを手に置いた。

 一枚の美しい、艶やかな布。薄暗い部屋の中で、怪しく濡れたように光る。

 帛書蛾ネラルミンと呼ばれる蛾のまゆから作られる布だ。それは手触りが良く、美しい布というだけではなく、魔力を吸収し倍増させて放出するという力を持つ。

 

 つまり、呪符とは、魔力を増幅させる布に呪文を書くことで強力な魔法を生み出すという技術である。

 

 小さな魔力さえも吸収し、消えてしまう貴重な物だけに、普段は厳重に保管されている。新しい呪符を書くという、儀式の折でもなければ簡単に外へ出せるものではない。


「では、お願い致します」

「任せよ」

 

 老婆は、ペンをとった。

 魔石のペンに通された微量の魔力が、帛書ルミンスの上で文字となる。

 老婆の手は、真円を描く。円規も使わずに描いたとは思えない、限りなく真円に近いそれは、長い年月呪符を書き続けた賜物であった。

 

「初めに、神の御名みなを」

 

「続いて、水を司る天使の名を」


「また水を統べる悪魔の名を」


 三つの名で、三角を描くように真円の中へと並べる。

 そして、真ん中に水の真名を描き、それを発動させる三つの印を御名の上に書き記せば治水の呪符は完成する。だが、三つの名前を書いた時点で老婆は筆を止めた。

 魔石のペンが、宙でフラフラと迷った。


「どうしました?」


 初めに気づいたのは、呪符を願い出た男だった。

 その不安を察知してか、魔女のそばめもオロオロとし始める。

 だが、もっとも不安を抱いていたのは、老婆本人であろう。


「名前……」

 ぼそりと、呟いた。

「名前が、思い出せない」


 水の真名を書けない魔女――

 そのような事件は、国中で続いた。

 いつしか、世界中で口々にこう噂された。

 

魔界之風邪カコリラル』が、魔女をダメにすると

 

 


         ◇

 


 

 世界は、動いていた。

 男が都市の魔女のもとに出向いている間にも。

 一人の技術屋が村の長のもとへと尋ねてきていた。

 技術屋が一枚の紙を広げ、治水のための工事の説明をする。

 

 広い卓をはさんで、向かいに座るのがその村長だ。頭の毛は白く、理知的な眉がバサバサと顔の上で羽ばたいている。その周りを数人の男たちが取り囲み、技術屋と村長の話し合いを聞いていた。


「この村は、山に近いために海抜よりも高い。さらに川の向こう側には使っていない土地もある。単純に川幅を広げるだけでもかなりの効果が出ると思うがどうだろうか?」

「技術屋の方々は――魔法ではなく、自分たちの力だけで村を守れると言っているのですか?」

「何か、いけないか?」


 村長の家に集まった代表たちが、悩まし気に顔を歪める。


「悪いことじゃないのは、わかるのです。けれども、そうして良いものかわからず……」

「治水のための呪符を一枚書いてもらうのに、おいくら払っておられるのですか? それが自分たちの力でできるのです。魔女たちが、机に座りながら呪符を一枚書くだけで何久弗なんキードも稼ぐのを正しい行いだと思いますか?」

「……いえ」


 都市部から離れているとはいえ、この村の住人たちも最近の社会の流れを把握していた。

 魔法使いの一族に反発する社会の流れ。一個の技術屋たちが社会を作り替えようとしているということを。多くの者たちは、社会の変化を正しいものか、悪いものかを判断できずにいる。

 川幅の拡張工事か、これからも呪符を頼み続けるか。

 一度、村の住人で話し合う必要があるだろう。


「そうですね、一度考えさせていただきたく。……すでに、代表が一人で呪符を書いてもらうように依頼しているところですので」

「わかった。では、これだけでも渡しておきましょう」


 技術屋は、図面をしまいつつ名刺を卓の上に置いた。

 それには、こう書かれていた。



『ヘイロン開発・技術商社』



 世界を変えるべく、彼らは今日も世界を動かしていく。

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