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「――よし、これで数字の上では裏付けが取れたかな。あとはアリマイトの現物で実証実験やったら完璧か」

「そうね……。ごめんね、まさか温泉水が、発光の素だなんて思いもしなかったから、全部洗い流しちゃってて。ここ、鉱物標本なんてないし」

「気にしなくていいさ。明日、大浴場からでも汲んで来て確認すれば……あれ、でも、ちょっと気になるな。そもそも末端の温泉水にアリマイトの粒が混じってるなんて、普通じゃないんだけど」

「そう?」

「うん。源泉口で、濾過とか沈殿とか、それなりに処置してるはずだよね?」

「そうなの? 湯の華なんかも普通に漂ってるぐらいなんだから、岩石の粒子が入っててもいいんじゃないの?」

「いや、湯の華ってのは、そういうのとはまた別でさ。あれはそもそも、砂糖水から砂糖が出てくるみたいな――」

 科学部長を名乗る女生徒は、生物学方面の知見は大学生か院生並と見えたのに、地学はなんとか並の進学クラス高校生程度、というぐらいだった。もっとも翔雄はもろにその逆だから、偉そうなことは言えない。

 むしろ、そうやってお互いを教えて教わるような間柄がこの上なく好ましいものに思えて、翔雄はただもう、このままずっとこの会話が続けばいい、と思っていた。

 が、至福のひとときというものは、すべからく唐突に終わるものである。

 ぴぴぴぴ、と、いきなり卓上のインターフォンが鳴った。はっと夢から覚めたように、少女が明滅しているランプを見る。

「……ちょっとごめん」

 数秒間、恨めしげな間を置いて、ほっそりした手が受話器を取った。やや緊張気味だった顔がふっと緩む。身内のものからだろうか。

(そろそろ潮時か?)

 翔雄の胸に漠然と引き上げを促す声が聞こえる。途端に首をひねった。そもそも何の用でここに来たのだったか?

 視線を斜め上にして腕組みした途端、今度は翔雄のブレザーの内ポケットで端末が震えた。メッセージの着信である。と同時に、その本文がモールスになって皮膚越しにヴァイブレーションを伝えてくる。


 fr MY402 i out y wr? wt?


 通信用の短縮コードだった。直訳すれば、「湯塩真知より入電。我、離脱せり。汝はいずこで、何の作業中なりや?」とか、そんな感じ。でももちろん翔雄は、そのメッセージの中身を、細かいニュアンス込みで即座に脳内変換できていた。


 ――今出たとこ! ショウちゃん、どこ!? 何してんねんな、いったい!?


(し、しまった……)

 任務が全然遂行できてない現状に、激しく自責の念を感じ……たりはしていない。むしろ、言い訳するならなんて言おう、とかそんな発想しか出てこない。まるで仕事をサボり倒しているエージェントの気分である(当たり前だ)。

 にわかに総身が硬直した翔雄の前で、女生徒の方は安穏と、しかし妙にきな臭い対話を通話相手と交わしている。

「え? 何もおかしいことなんてないけど……レベル5? 警備が? それって、どのくらいヤバイんだっけ? ……封鎖って、ええと、正門からしか出られないってこと?」

 いよいよマズい。が、考えてみれば当たり前だ。真知が無事脱出したということは、聖泉側が一気に警戒するような事態に発展しているはずで、それを全く計算に入れてなかったのは、もうマヌケとしか言いようがない。

 何はともあれ、真知をこれ以上心配させるわけにはいかないだろう。


 fr TM401 no pbl i wl out 15 mn or +


 問題ない、十五分かもうしばらく後に脱出する――と、ポケットの中で指先入力したら、何秒と経たないうちに返信が来る。


 wt 15 mn or + ? wt hpn ?

 訳  「十五分かしばらく先」って何なんよ!? 何かあったん!?


 微妙な言い回しで、何かイレギュラーな事態を嗅ぎつけたのだろうか。いささか辟易しながら、こちらもムキになって打ち込んだ。


 no no pbl ! i OK i rly OK

 訳  問題ないったら! 大丈夫だから。ほんっとに大丈夫だからっ。


 とりあえず、大ピンチというわけではないと理解してくれたらしい。少し置いてから、「hr! 急いでや!」と一言返ってくる。

(ま、これだけムダメッセージが打てるってことは、真知も安全は確保しているんだろけどさ)

 無事でよかった、そう安堵しつつ、なぜか妙に後ろめたい気分が残る。なんだろう、これは。もしやこれが、1)出先で女の子と意気投合する > 2)しばらく歓談する > 3)知らないうちにガールフレンドに見られて修羅場 っていう、あのドラマとかのテンプレの? 

(いやいや待て待て。なんで真知相手にこんな気分で悩む必要が?)

 いささか混乱気味にセルフツッコミをやっていると、

「あの……」

 正面からの声で、慌てて視線を上げる。なんだか妙な様子の翔雄に、女生徒が心配そうな表情を見せている。

「あ、ごめん。そろそろ、帰った方が、いい……のかな?」

「え!? あ、うん、私は……全然、そんなことない……けど……うん、なんか、警備の方で、ちょっと面倒なことになってるみたい……だから」

「わかった。時間切れだね。それじゃ、この続きはまた明日?」

「……ううん、明日から或摩オータムだから……その、さすがに私も、部室には来れない……かな」

「そっか……だよね」

 悔しそうにうなだれる彼女へ、つい優しい言葉をかけたくなるのを自制して、ぐっとこぶしを握り締めた。こういう会話の流れになった以上は――そして、この事態になった以上は、腹をくくるしかない。

「じゃあさ……思ったんだけど、この調査の続きって」

「え?」

 瞳と瞳が正面からぶつかり合って、翔雄は少したじろいだ。次の一言を出せば、もう後戻りできないのだ。

 ここのカエルを僕に預けてほしい。しばらくこちらで調査をしてみたいから――。

 それで快く同意してくれれば問題ない。でも、もし難色を示したら? 奪取するしかない。強行手段で。何とかこの子の抵抗を抑えて、場合によっては……いや待て、

「どうしたの?」

 知らず、こわばった顔で黙りこくっていた翔雄へ、戸惑ったように女生徒が問いかけた。

 ……いけない。これ以上の引き延ばしは無理だ。

 小さく息を吸い込んで、いよいよ覚悟を決めた、その時。

「なにやら面白そうな話だの。その調査、ワシにも一枚かませてもらえんかな?」

 まったく思いもよらない方向から声が降ってきて、翔雄は愕然と部室の入口へ視線を振り向けた。いつの間にそこへ現れたのか、片目眼帯の大男が実に自然に、どこか面白がっているような空気をまといながら、二人の高校生を眺めている。

「えっ!? あ、あんたはっ」

「あら、博士」

 驚いたのは、女生徒の方も全く動じることなく、異形の怪人物へ笑顔で会釈を返したことだった。

「え、し、知ってるの!?」

「ああ、あなたも?」

「ええっ、ここの科学部って、か、か」

「うん、甲山博士はよくいらっしゃるの。色々アドバイスしてもらったりとか」

 想像だにしなかった事態で、翔雄はただ口をぱくぱくさせるしかない。これはどういう状況なんだ? 絶体絶命のピンチなのか、起死回生の場面なのか?

 ほとんどフリーズ状態になってる峰間大吾の孫を一瞥すると、当の博士はふっと不敵な笑みをこぼし、どこかそらぞらしさまで漂わせつつ、こう言った。

「人間、意外なところでつながっとるものだのう。……まあそれはさておき、手短に話をしようではないか。君らが色々調べたがっている、その温泉カエルだが――」



 十数分後、翔雄は学院の正面口から堂々と外に出た。

 学院側は、よもや高校生エージェントが自動車に乗って脱出を謀るとは思っていなかったようだ。学院のゲストとして入構した甲山が、助手らしい人物を連れて駐車場へと向かうのを、警備スタッフも全く見咎めなかった。むろん翔雄自身、二十代半ば程度には見られるように色々と小細工した、その結果ではあるが。

「無事逃げ出したと、仲間に連絡しないでいいのか?」

 とっくに陽が落ちた夜闇の中、4WDのごついランドクルーザーを外周道路沿いにゆったり走らせながら、甲山博士が助手席の翔雄に尋ねる。

「お気遣いなく。もう済ませました。――どうでもいいんですが、片目運転だと危ないんじゃないですか?」

「ああ。眼を悪くしてるわけではない。ちゃんと見えとるよ。眼帯みたいなこれは、単眼鏡モノクル型の情報ヴァイザーでな。スマートフォンなんぞよりもずっと使い勝手がいい。使ってみるかね?」

「……いえ」

 澄まし顔を装いつつ、翔雄は疑念まじりの視線を隠せないでいる。このおっさんは何が目的なのか。海賊アイパッチ風のヴァイザーとやらを愛用するセンスについてはコメントを控えるとして、そもそも或摩で何をしているのか。どうやら学生たちが情報機関を組織していることは把握しているようだけれども、それと温泉カエルの研究と何の関わりが――

「そう言えば、そのカエル、何に使うんです?」

 つい考えもなしに質問が出てしまう。なぜだか聖泉学院科学部長の信頼を勝ち得ているらしい甲山は、彼女とその場で交渉し、温泉カエルの半数を借り受けてきたのである。後部シートには、三匹のカエルが入った水槽が収められていた。

「使うも何も、これが目的だったのだろう?」

「……え?」

「持っていくがいい。科学部室にいたのは、これで全部だと言えば、あの男も安心する」

 言葉を失ったまま、博士の横顔をまじまじと眺めてしまう翔雄。全部、くれる? 脱出を手伝ってくれた上に? つまりは、この男は百パーセント、窮地にいたエージェントを救うためにやってきた? いやいやいや。

「な、何が目的なんだ、気色悪いっ」

「つれないガキだのう。この前抱いてやった時は、嬉しさのあまり、わしの腕の中で盛大に漏らしよったくせに」

「はぁっ!?」

「十五年も経つと人は変わってしまうものだな」

 16歳 引く 15年、というしごく単純な引き算を数秒がかりで終え、ようやく翔雄は叫んだ。

「覚えてるわけないでしょう!」

「だろうな」

「いったい何なんですか、あなたは! なんであんなところに現れて――」

「別に君らの味方というわけではない。敵のつもりもないがね」

「で、ではなぜ」

「ま、あそこで君が捕まれば、或摩が滝多緒を叩き潰して話が全部終わってしまうからの。それは面白くない」

 再度、不審さをありありと顔に浮かべて博士を見る翔雄。或摩と滝多緒のいずれにも与していないということは……まさか他の温泉地の情報機関と関わっているとか? あるいは、そういうのとも違う全く別の組織か? にしても、この秘密めかしたものの言い方、うちの学園長とひどく似通ったものを感じる――

「まったくジジイといい……何を考えているのか」

 翔雄の低いつぶやきを聞きつけて、甲山が、ん、という顔をした。

「大伍のアホからは何も聞いとらんのか?」

「何の話です?」

「君らがわざわざ或摩に出向いてちょっかいかける理由を」

「或摩オータムへの営業妨害じゃないんですか?」

 きょとんとした表情を返した評議会議長に、博士の目元が微妙に動いた。他愛ないジョークをやりとりしてたつもりなのが、翔雄のきまじめなぼやきぶりで態度を改めた、というような。

(ってか、うちのジジイに嫌がらせ以外の目的があったのか?)

 心持ち、新鮮な思いでその疑問と対面する。深遠な理想を追い求めているように見せつつ、フタを開けてみれば銭絡みの計算高さしか見せてこなかった祖父が、実は金儲け以外のことを考えて? ばかな。あり得ん。

「そもそも、ショタ君はおじいさんのことを、どう見ているのかな?」

「トビオです。そういう呼び方は特にやめていただきたい。うちのジジイはスパイごっこを心の底から楽しんでいる金の亡者ですが、それが何か?」

「……正面切って否定できんのが、あいつの困ったところだな」

「でしょう?」

「ではショタ君は、六甲山をどう見ているね?」

「ですからそのネーミングは……は、六甲山?」

「そうだ。この山を何だと考える?」

「わ、話題が飛躍しすぎて、ちょっとついていけないんですが」

 むう、といささか不満そうに博士が眉根を寄せた。

「重要なファクターである。そんな認識もなしに、君らは諜報活動とやらに血道を上げておるのかね? 大伍とは六甲山に関して何の話もせんのかね?」

「やったこともないですが……」

 戸惑いも露わに、ただ口ごもってしまう翔雄である。祖父も温泉屋だけあって、元は地質関係の理系人間だったという話は聞いたことがある。とはいえ、物心ついて以来、彼にとって峰間大伍は一貫してビジネスマンであり、学校法人のビッグボスであり、理不尽を押し付ける暴君であった。

 どういう顔をすればいいのかわからなくなって、ただむすっとしている翔雄を見て取ると、博士も少しだけ困ったような色を見せた。

「そうか。まあいい。ではカエルのことも、ろくに知らんかったというわけか」

「そもそもあのカエルは何なんですか?」

「もう半分がたは分かっておるだろうが」

「いや、分かってるのはアリマイトに反応するような仕組みがあるってことだけで」

「そこまで分かれば、もう九合目だよ」

「ええええ?」

「ま、じっくり考えなさい。それに、あの子と手を組んだのなら、遠からず、じきに何もかも理解できるだろうて」

 不意に先ほどの彼女のことが出てきて、つい翔雄は視線を窓外へ向けた。いくらか顔が赤らんでいるのは自覚している。実は、さっきから内心でそわそわしっぱなしだった。部室を離れる直前、慌ただしいやり取りの中で、メアドの交換だけは出来ていたのだ。最初のメールは何て書き出そうか? それとも、さっそく向こうから何か送ってくれているだろうか?

 ふと、肝心な情報が抜け落ちているのに気づいて、あ、と小さく声を上げた。

「そう言えば、科学部長のあの子、名前何て言うんですかね?」

 甲山が急ブレーキを踏んだ。交通のほとんどない区画だったので、ただ体が前につんのめっただけで済んだが、あやうく顔面をダッシュボードに打ち付けるところだった。

「危ないじゃないですか! どうしたんです!?」

「ショタ君……今更だが、あの、科学部の彼女とは……どういう」

 暗がりの中、これまで見せたことのない、何とも言い難い目つきで翔雄をジト見している甲山。

「え? いや、だからたまたま潜入した先で出会って……そ、それだけですが?」

「つまり……あの娘がどこの何者か、まったく知らん、と?」

「知るわけないじゃないですかっ。……え、もしかして、結構有名なホテルのお嬢様、とか?」

 低速で再発進しつつ、甲山は沈黙している。気のせいだろうか、何となくどす黒い含み笑いの空気が加わっているような気がした。これはこのまま黙っといた方が楽しめるぞい、みたいな。

「あの、甲山博士?」

「着いたぞ」

 博士のそっけない声に気づいて見ると、そこはチーム滝多緒の宿泊場所から歩いてすぐの、人気のない変電施設の小さな建物の前だった。学院の裏手から大回りして走ってきたこともあり、だいぶん時間がかかってしまった。

 尋ねたいことは無数にあるが、これ以上粘っても大したことは語ってくれまい。翔雄は助手席から降りると、カエルの入った水槽を取り出し、甲山に頭を下げた。

「どうも大変お世話になりました」

 そのままさっさと引き上げるに見えた博士は、運転席から乾いた声でこう告げた。

「明日の朝、君は世界に絶望する」

「え……」

 大真面目な顔である。いっそ厳かといってもいい表情だった。

「朝の、多分八時十三分か十八分」

「なんでそんなに具体的なんですか」

「だが、実はその絶望自体、真実を隠匿するためのニセモノである、と今ここで教えておこう」

「……はあ」

「探求を恐れるな。仮説を立てたならば直ちに検証し、検証できたならば、迷わずその是非を、問うべき相手にぶつけなさい」

「ぶつけよと言われましても、博士とは次にいつお会いできるのか分かりませんし」

「ワシにではない……大伍にだ」

「えっ」

 驚いて視線を上げると、ランドクルーザーはすでに夜闇へ滑り出した後だった。

 なんだか、知らない土地へいきなり放り出された幼児のような気分で、翔雄はしばらくその場に立ち尽くしていた。



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すぷりんぐ・うぉー  ー裏六甲温泉大戦争ー 湾多珠巳 @wonder_tamami

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