亀山くん、カメを盗んで逃がす


 放課後。トイレで隠れてチョコレートを食べていた亀山くんは、そこから出た途端、同級生に捕まった。

「亀山、ごめん。水槽の掃除代わりにやっといてくれないか?」

「あ、うん。いいよ」

 水槽というのは、理科室にある三つの水槽のこと。それぞれメダカ、金魚、カメが入っている。

 いつだって一番汚いのは、カメの水槽。世話当番になった子が、ちょくちょくそれの水換えを忘れるから。

 そのカメはいつだったか、クラスの誰かが持ってきたのだ。縁日で釣ったとかなんとかで。

 最初は小さくてかわいかったから、当番でない子も毎日様子を見ていた。エサをやったり掃除してやったりしていた。

 だけど成長して大きくなり、色も黒ずんでかわいくなくなったから、もう誰も興味を持たなくなってしまった。


 亀山君が近づいていくとカメは、濁った水の中から顔を出し口を開けた――このカメは人が近づくたびそれをやる。

 その心について、亀山くんはこう推察している。

(食べる他に楽しいことなんか、ないからだろうな)

 水槽はカメにとって、もう小さすぎる。泳ぐどころか方向を変えることも出来ない有様だ。

「ほら、エサだ。たくさん食べなよ」」

 亀山くんが落としてくれたエサを、カメはがつがつ食べる。

 その間に亀山くんは他の水槽の掃除をする。

 それがすんでからさて、と振り向いたところで、カメがいつのまにか水槽の中でひっくり返り、ばたばたやっていた。

 亀山くんは駆け寄り、カメを元に戻してやる。狭い水槽の中では、自力でもとの体勢になることは出来ないから。

 助けてもらったカメは、立ち上がった。水槽の縁に前足を伸ばし、後足をぴんと突っ張り、首を伸ばした。

 前足の付け根も後ろ足の付け根も、首の付け根も尻尾の付け根も、肉の輪がだぶついている。

「お前もデブだなあ、僕と一緒で」

 亀山くんの呟きが聞こえたか、カメがちょっと動きを止めた。彼の方を見た。

 カメというのはよくよく見れば、きつい目をしている。

(怒ってるのかな……まあ怒るよね。こんな狭いところに閉じ込められて、掃除もろくにしてもらえないで)

 水槽の縁にカメの爪がかかった。

 そしてまたひっくり返る。

 亀山くんは再び手を伸ばし、カメを掴む――その途端、頭の中に映像が浮かんだ。


 狭くて汚い水槽に甲羅を背負った自分が入っている。でっかい菊野たちがそれを見下ろし笑っている。自分はそれが見えないように手も足も引っ込めて、甲羅の中でお菓子をむしゃむしゃ食べる……。


 亀山くんは手の中にいるカメを穴が開くほど見つめた。自分のランドセルに入れた。ランドセルの蓋を閉めた。理科室の入り口を振り返った。

 誰もいない。自分がすることを見ていない。

 大急ぎでカメの水槽の水を換え、他二つの水槽の後ろに突っ込む。

 ランドセルをしょって理科室を出る。大きなお腹を揺すって一目散に校門を目指す。誰かが追いかけてくるみたいに。

 カメが教科書とノートの間でじたばたしている音が聞こえる。

 校門を出て数メートルのところで、つまづきそうになって立ち止まる。 不安感がむくむく頭をもたげてきた。

(どうしよう。これは学校のカメだから、勝手に持ち出しちゃいけないよね。後で先生にどうしたんだって聞かれるかも……)

 一瞬亀山くんは、カメを水槽へ戻してこようかと考えた。

 その時、丁度チャイムが鳴り始めた。やけに大きい音で。亀山くんの耳にそれは、泥棒、泥棒と叫んでいるように聞こえた。

 亀山くんは逃げ出す。走る。走る。学校が見えなくなるまで。

 で、チョコレートを食べ気を落ち着ける。

(カメ、どこに逃がしてやろうかな。一番近いのは川だけど……駄目だ。流されちゃいそうだもん。池とか沼とか水が動かないところじゃないと。こいつはこれまで、そんな場所にしかいたことがないんだから)

 あれこれ検討した亀山くんは、カメを公園裏にあるため池に放すことにした。あそこは普段から人が来ない。水はよどんでいるけど、でも、水槽よりはずっときれいだ。何より広い。動きたいだけ動ける。

「もう少し我慢してくれよ。いいところに連れて行ってやるから」

 亀山くんはランドセルに呼びかけながら、公園に向かった。

 慎重に、気配を殺して、ため池に向かう。遊具で遊んでいる小さな子、その親、鳩にエサをやるおばさん、犬の散歩をしているおじさんは、彼のことを少しも注目していない。

 ため池の近くについてから、しゃがみこむ。

 茂みに身を隠してランドセルからカメを取り出し、草の上に置いてやる。

 カメは急に放されたことに面食らい、しばしじっとしていた。

 やがて真っ直ぐに池へ歩いていった。水に潜って見えなくなった。


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