矢矧清澄の二処女。

 声帯ってあるでしょう?

 ほら、喉のところについていて、声を出すのに使うやつ。


 私、あれがふたつあるんです。


 ふたつと言うと語弊がありますね。なんて言うんでしょう? 正確には声帯の上に膜のようなものがあって、喉全体を覆っていて、そこから声が出ているような感覚なんです。

 あ、もちろん比喩ですよ、あしからず。本当に膜が張っているわけありませんもの。使ったら破れる? 処女膜みたいな? あははっ、どっちもあるだけ無駄な代物ですねぇ。


『樹里亜様は、特別な声をお持ちなのですね……』


 私の初めての、そして最後の上女中かみじょちゅうは、いつも伏し目がちにそう言っていました。

 自分ではあまりよく分からないのですけれど、どうやらそうみたいです。


 私が行動を起こせば、大抵のことは思い通りになりますものね。


    ◆


 祖父から復学を勧められたのは、先月頭の話でした。


「そろそろ通学してはどうか、ほとぼりも冷めた頃だろう」


 ほとぼりって、なんのことでしたっけ?

 ああ、どこぞの人妻を地下室に監禁していたこと? あれは内々に処理したとお祖父様もおっしゃっていたのに。


「ええ、わたくしもそう思っておりましたぁ」


 私は二つ返事で承知しました。


 だって屋敷は、ただ広いだけで、とにかく退屈なんですもの。


    ◆


 薬袋みないは少しでも悪い噂が立つのを恐れ、私を別の学校へと転入させました。

 厳重な警備と美しい木々に守られたアーチから、昇降口まで長い石畳の続く、世にも美しい少女たちの園。

 矢矧清澄やはぎきよすみ学園です。

 通っているのは大企業や資産家などのご令嬢たちで、お上品な女の子ばかりだとか。


「皆さんごきげんよう。本日より矢矧清澄学園に通わせて頂きます、我妻あがつま樹里亜じゅりあと申します」


 女中によく褒められた声で、私は教壇から挨拶します。

 歓待の拍手と共に顔を上げると、思わず目を見張りました。


 ――まぁ皆さん、なんて不幸せそうなお顔!


「素敵な学園で、皆さんとご学友になれること、大変うれしく思います」


 ここを笑顔で満たすことができたなら。


「これからどうぞ、仲良くしてくださいね?」


 この退屈も、少しは軽くなるかしら?


    ◆


 私が矢矧清澄を選んだのは、寄宿舎があるからです。

 薬袋での監視は日に日に厳しくなるばかりで、なかなか自由に動かけなかったのです。ああ、息苦しさの詰まった揺籃の如き実家よ、さらば。うふふ、本当に苦しかったのは親族のほうなのですけれどねぇ。

 それにちょっとした目的もありましたし、丁度よかったんです。


 ここはミッション系ですから、日曜日にミサがあります。

 いちおう自由参加なのですが、信仰に篤い先生も多いため、必然的に全員が訪れるようです。つまり実質的な全校集会になるのですね。

 うら若き乙女たちの、作業じみた神への祈りです。ああ主よ、なんと欺瞞的!

 私は幼い頃に洗礼を受けていますから、賛美歌も諳んじることができます。


「あの方? 転校生……美しいお方……」

「声も綺麗なのね……」


 お祖父様からは、薬袋の人間だと知られてはならないと、固く約束させられていました。

 転校ってそんなに恥ずかしいことなのですか? と尋ねると、お前は例外だとのこと。どういう意味なのでしょうねぇ。私、どこに出しても恥ずかしくない娘だと思うのですけれど、ふふふっ。

 じゃあ、そんな薬袋を見返すために、お友達をたくさん作ってみる?


「でも、どこのお家の方? どなたか知っていて……?」

「お茶会にお誘いしても大丈夫なのかしら……?」


 ああ、けれど、ここは誉れ高きお嬢様学校!

 出生不明な女となど、仲良くはできないでしょう?

 なぜならそれは、家の品位に係わることだから。財界のご令嬢が集まる学園は、ヒエラルキーが家柄で決まると言っても過言ではないのでした。当然、相応の品格が求められる。


 では主よ、私はどうすれば? この迷える子羊に道を授けてください。

 ええ、そうですね、そうですね。

 皆さんの信頼を得るところから、はじめることにしましょう。


 さて、今の私が持つアドバンテージとはなんでしょう?

 はい、お腰につけた外界の様々な情報です。

 それは狭い狭い箱庭で育った娘たちには少々刺激的で、とかく甘美なものなのでした。


    ◆


 まずは、美容。

 これは年頃の少女なら、誰だって気になりますよね。

 とくにこれぐらいの年頃って、ホルモンバランスの影響かすぐにできものができて、それを気にするあまり肌が荒れてしまったりするんです。


「あの……我妻さん、それって?」


 共用の洗面台で、私は微笑みます。


「ああ、ふふっ……こちらは前に通っていた学院で流行っていたものなんです」


 矢矧清澄は校則が厳しく、マニキュアも禁止ですし、リップすら色付きのものは許されていません。まるで中学校みたいですね。あははっ、だって社会に出たら、化粧していないほうが失礼になるんですよ? 女学園ならそれを教えるべきじゃありません?

 けれど、どんなものにだって抜け穴はあるものです。


「日焼け止めを下地に使うのですけれど。お顔を拝借しても? こちらを両頬と鼻、額に置いて、綺麗に伸ばして……ね?」


 こうすれば自然に肌を整えられます。もちろん、見る人が見ればすぐに分かるのですけれど。


「いいのかしら……こんなことして……」

「ふふっ、日焼け止めなら校則でも許されていますもの、でしょう?」


 この日焼け止めなら大丈夫、というのが大切なんです。


「毛穴が気になる場所は、ベージュ系のコンシーラーを軽く……フェイスパウダーとパウダーチークで整えて差し上げれば」

「ね、ねぇ皆さん、ご覧になって……!」


 だってその上に他のものを重ねても、日焼け止めだと言い張ることができるでしょう?


 もちろんこれは、私自身がある程度綺麗で説得力があることが前提なのですけれどねぇ。

 その点は女中も保証していたので、まったく心配はありませんでした。


    ◆


 そして、悩み。

 年頃の女の子には悩みがいっぱい! 肌が荒れて仕方ない、夜になると不安になる、気になる人と話がしたい、勉強に集中できなくなる、投薬実験で死んだモルモットをどこに隠そう……などなど。

 人にとっては些細なことでも、本人は眠れなくなるほど辛いもの。


「我妻さんから頂いたお水を塗ったら、ニキビが治って……!」

「夜になると心臓が早鐘を打って寝れなかったのだけれど、我妻さんのおまじないのおかげで……!」

「頂いた紅茶を飲んだら、頭がすっきりとして勉強できるようになって……!」


 そして大抵の悩みは、薬と知識で解決できるものなのですわ。


「ふふっ、お役に立てたみたいで、私とても嬉しいですわ」


 私の家は薬屋ですから、モノや知識はいくらでも手に入るのでした。


「でも、このことは秘密にしていてくださいね?」


 あとは、ちょろっと心をくすぐって差し上げれば。


「誰かに知られたら大変ですもの。ね……二人きりの秘密、ですよ?」


 少女の『内緒』ほど、軽いものはないのですけれど。

 少しくらいは漏れ出てくれないと、噂が広まらないでしょう?


    ◆


 こうなると、私の不透明な部分も魅力になるものです。


「我妻さん、そのリボンどうなさったの?」

「前の学園で使っていたものです。矢矧清澄のはまだ届いてなくって……目立ちますでしょうか?」


 リボンは色だけが校則で決められています。これは学年を見分けるためだそうでして、ラインカラーなどについては多目に見てくださるようでした。

 転入生はただでさえ耳目を集めるのですから、どうせなら皆に好かれるよう目立てばよいのです。


「あの、私も真似していいかしら……? 駄目?」


 ああ、なんてインスタントな人間関係。

 退屈なほどに、インスタント。


「もちろんですわ。ふふっ、ご学友の皆さんとお揃いにできて、なんだか嬉しいです。この学園に馴染めたみたいですもの」


 私にとって、誰かに好かれるというのは至極簡単なことで。

 同時に、大変興味のないものなのでした。


    ◆


 そうすると、それを気に入らない子も現れるものです。


「貴女が転入生の、我妻樹里亜さん?」


 呼び出された寮室のドア前に立っていたのは、美しい少女でした。

 切り揃えられたショートカットと、切れ長の綺麗な眼。170センチを超える長身です。私が157センチですから、少し見上げるようです。

 腰が驚くほど細く、触れれば折れてしまいそうなスタイルをしています。


「お初にお目にかかりますわ。ご挨拶が遅くなりまして、申し訳ございません。わたくしは我妻樹里亜と申します」

わたくし黒葛原つづらはら侑雨李ゆうり。ここ、夜桜寮よ。隣のクラスで、風紀委員長をしていますの」


 声は透き通るようで、少しボーイッシュでした。

 きっと女子校生活に彩りを与えてくれるタイプですねぇ。


「まぁ、同級生なのですね! 白樺寮は下級生ばかりだから、とても嬉しいわ! 夜桜寮は同学年の子たちばかりなのでしょう?」

「それで、話だけれど」


 では、こういう子の躱し方は?


「最近、下級生たちが禁止品を持ちこんでいるという噂があるわ。貴女、何かご存知じゃなくって?」

「まぁ、それは大変……! こんなところでは何だし、お部屋にお邪魔しても? 丁度よい茶葉が実家から送られてきましたの――」


 答えはとても簡単。


「待って、そんな……私は、禁止品の……っ」

「そんなに硬くならないで……ほら、私の眼をご覧になって? この声に身を任せて……そのまま、そう……」


 だって堅物ほど、一枚肌蹴れば淫乱というでしょう?

 シックな棚に並ぶ竹刀や黒のハット、大型のカメラなど、少年趣味な部屋のベッドで、彼女は甲高い声を上げます。


「――……はぁ、嘘……ん……っ!」

「ふふっ……どうぞお気になさらないで……誰も見てはいませんわ……あの窓に映る清澄の落葉樹と、私以外は、ね……」


 ああ行衛ゆくえ、あなたは私にいろんなものを与えてくれたけれど、これが一番役に立っているわ! 二番目はどこぞの人妻かしら。あれは大変勉強になったもの。生きる道標を得た、とても素敵な経験でした。

 そんなこと告げたら、あなたはきっとこう言うのでしょうね。


『貴女様は……一人で生きておられるお方なのですね』


 初めてしとねを共にした女中は、いつも悲しげにそう囁くのでした。


「っ、はぁ……あなたの眼……とても綺麗……」


 行衛、本当にごめんなさいね。


「それに、どこか……私に似ているわ、樹里亜さん」


 すべての罪を引き受けてくれたというのに、あなたのものになれなくって。

 その努力は、とても感じられたのだけれど。


「ふふっ……とても光栄ですわ、黒葛原さん」


 私には、すべてが退屈で仕方なかったの。


 だから、だから、ああ、もっと。

 皆さんの笑顔のため、もっとセンセーショナルな何か・・が必要なのですね。


    ◆


 転入から一ヶ月が経って。

 学園での生活にも、すっかり馴染んでいました。


「樹里亜さんは、いつも風景を撮っていらっしゃるのね」

「放課後もよく撮影なさっていると、下級生が噂していますわ」


 ご学友のMさんやSさんとも、移動教室で共に行動する程度には交友を深めました。


「ええ、だって素敵な学園は、どこを撮っても美しいんですもの! だから一欠片も忘れたくなくって」


 矢矧清澄は敷地が広く、校舎が各所に置かれています。今から向かうPC教室も、お茶会などが開かれる庭園を抜けて、その奥にありました。

 中庭では初等部の子たちとも、よくすれ違います。


「ご機嫌よう、お姉様!」


 まぁ可愛い。


「はい、ご機嫌よう」


 不幸せですね、早く私が救ってあげなくては。


「ふふっ、たまには一緒に撮ってあげたら?」

「そんなことしたら樹里亜さんに大行列ができてしまうわ」


 MさんとSさんも大企業のご令嬢です。

 お二人とも幼稚舎の頃から矢矧清澄に通っているそうで。Mさんはピアノで、Sさんはテニスで国際コンクールや全国大会に出たことがあるとか。将来の夢は音楽の先生と、スポーツ留学だそうですよ。


「ふふふっ、そんなことありませんわ」


 ああ、本当に。

 誰も彼も不幸せそうなお顔。私が早く救って差し上げないと。

 私は胸いっぱいになりながら、そう思いました。


「だぁああああああ――」


 その女との出会いは、突然でした。


「――れだ!!」


 突然、視界が消えました。

 それと同時にフローラルな香り。寄宿舎にはない柔軟剤の匂い。


「どなた?」

「え? ひえあぁっ!」


 背後の少女は素っ頓狂な声を上げ、慌てて何かを取り払いました。私は振り返ります。

 女の子が立っていました。

 買い物袋みたいに、ブラジャーを持ちながら。


「すみません、知り合いと見間違えて……! ついかけてしまいました!」

「うふふっ」


 私は笑いました。

 間違えてブラジャーで目隠しすること、あります?


「ほら、リボンの色をご覧になったら?」

「っ、先輩でしたの! 重ね重ね申し訳ございませんわ……!」


 ああ、後輩だったんですね。

 そういう問題でもない気が、いいえ。


「そんなこととはつゆ知らず、こんなことを……っ!」

「もう、あなたって子は」

「いつも冗談がお上手なんだから」


 へぇ、皆さん笑って流すんですねぇ。

 正直、私ドン引きしてますよ。


「ふふっ、一体どうなさったのかしら?」

「あの、これ『ブラだーれジャ』って……」

「この学園ではこんな遊びが流行ってるのですねぇ」

「あ、いえ、やってるのは私だけです」


 そうでしょうとも。


「本当に、あの、申し訳ございませんでした……! 申し訳ございません……! ああもう、私ったら恥ずかしいわ……!」


 その少女は、顔を真っ赤にして深々と頭を下げました。

 急いでストラップレスブラ(海外の高級品です。そのためにこのタイプなんですか?)をつけて、走り出します。


「後ほど、改めてお詫びに伺いますわ! 失礼します!」

「お待ちになって」


 そんな彼女を、私は呼び止めます。


「ブラが曲がっていてよ」


 そしてゆっくりと服の中に手を入れて、脇腹やお腹の贅肉を滑らせるように、胸の横へと持っていきました。


「若い頃からケアしておかないと、あっという間に崩れてしまうそうです。うふふっ、お母様の受け売りですけれどね」


 なぜこんなことをしたのか?

 答えは簡単。

 だって、おふざけにまともな返答をされるほど、恥ずかしいことはないでしょう?


「それでは、ご機嫌よう」


 つまり私は先輩という立場を利用して、この後輩を遠ざけようとしたのです。

 少しくらい、恥をかいてくださいな。


「――――――」


 ええ。


「私の……〝お姉様〟……!」


 それが矢矧清澄でしでかした、たったひとつの、大きな大きな間違いだとも気づかずに。


    ◆


「我妻先輩! ご機嫌よう!」


 以来、その後輩に付きまとわれるようになりました。


「あら、ご機嫌よう……山岸さん?」


 彼女の名前は山岸やまぎし姫瑠ひめると言いました。

 Sさん曰く、水城・枯芝・山岸と三つ併せて地方の名家だそうです。おやおや、枯山水? お庭の手入れが家業なのかしら?


「まだ前回のお礼をさせて頂いておりませんので、ぜひランチをとお誘いに上がりましたの!」


 彼女は癖ひとつない真っ直ぐな髪を腰丈まで伸ばしていて、前髪を綺麗に切りそろえています。姫カットですね。お名前に合わせて? まさか。

 歳は3つほど離れており、まだ中等部だそうです。そういえば制服のデザインが違いますね。そのわりに長身ですけれど、よく見れば顔は幼いものでした。


「あらあら、姫瑠さんったらもう我妻さんに目をつけたの?」

「へへっ」


 彼女はテニス部に所属していて、Sさんの後輩にあたるそうです。

 元気で生真面目な性格で、そこまで上手ではないけれど、副主将タイプだとおっしゃっていました。そんなタイプあるんですねぇ。潤滑油みたいなものかしら?


「我妻先輩は、私のお姉様ですもの……っ」


 彼女はよくも悪くも、矢矧清澄らしからぬ少女でした。

 なんて言うんでしょう? 後輩というより、愛玩動物として扱われているというか。マスコット的な立ち位置なんです。


「おやまぁ、ずいぶんと元気な娘に懐かれてしまったわね、樹里亜さん」


 あの一件で、私はなぜかこの娘に気に入られたようでした。

 これくらいの年頃って、年上が素敵に見えるものらしいですしねぇ。


「ふふっ。大変ありがたいことですわ、黒葛原さん」


 私も最初は、悪くないと思いました。

 だってそうでしょう? 学園のマスコットに好かれれば、学園での立ち居振る舞いは至極簡単なものになります。


 年下に懐かれた経験はないけれど、ええ、私ならきっと上手くやるでしょう。


    ◆


 結果だけ言うと、それは大誤算でした。


「我妻先輩!」


 まずひとつは、山岸姫瑠が考えていたよりずっと人気者であったこと。

 彼女は廊下を歩くだけで、いろんな人たちに声をかけられます。

 つまり人目を引くのですね。ほら、私って恥ずかしがり屋でしょう? ふふふ、だからこういうのは少々やりづらくって。


「我妻先輩は転入したばかりで、とても不安を抱えていらっしゃると思いますわ!」


 そして最大の理由は、彼女自身。


「ですので、私がお話相手になりますわ! 私の叔母も『ため息を100回ついたら鬱になる可能性もある』とおっしゃっていましたので!」


 彼女、とにかく押しが強いんです。


「先輩は、どちらから転入していらしたんですの?」

「残念ながら内緒なんですよぉ」

「…………! きっとお辛いことがあったのですわね!」


 そして少々思いこみの強い性格です。


「山岸さん、私の相手ばかりなさって大丈夫? ほら、上級生と仲が良いと流言があったりするものでしょう?」

「大丈夫です! 元気が取り柄ですので!」


 あと、多分あんまり頭がよくありません。

 言葉の真意を読み取ろうとしない娘って、結構やりとりが難しいんですねぇ。初めて知りました。勉強になりますね。


    ◆


 こんなことがありました。

 とある日曜日の夕方、別寮で異臭騒ぎ起こりました。何名か気分が悪くなったと医務室に向かったほどで、原因が分からないとのこと。

 私も野次馬に向かったのですけれど、鼻から脳まで通り抜けるツンとした臭いがします。


「シンナー……?」


 ご令嬢の皆さんは、この刺激臭をご存知ないようです。マニキュアも塗れないようなところですものねぇ。

 SMコンビのおふたりを連れ立って、臭いのするほうに向かいました。


「あれぇ? 先輩方、どうしましたの?」


 山岸さんでした。

 ガスマスクみたいなので顔が隠れていますが、山岸さんです。

 中等部は基本的に二人部屋だそうで、二段ベッドになっていますが、同室の娘はいません。早々に逃げ出したんだとか。

 窓は開けっ放しになっており、様々な色のラッカー塗料と、大きな箱には。


「プラモデルですわ!」


 へぇ、そうなんですね。

 女子の寄宿舎でプラモ作ること、あります……?


「水性アクリルは安全でもちろんよいのですけれど、やはりラッカーの美しい発色には敵いませんわ! 乾燥時間が短いというのは作業時間が増えるということであるわけですし、何よりカラーセットの原作再現度が素晴らしく」


 そこからは、全員協力してのお片付け作業でした。


「ああ! こちらは転売ヤーとバチボコの激闘の末、手に入れた限定品ですのに……!」

「こんなこと寮母先生にバレてご覧なさい。あなたご実家に引きずり戻されましてよ?」

「せめて! せめて色ごとに分けて袋に入れてくださいまし! 色ごとに表面処理をしておりますし、まだ全部にサフ吹いてませんの!」


 臭いをどうにかするために、私はルームフレグランスをぶちまけました。

 これ、すごくお気に入りだったのですけれど。


「我妻先輩! そちらの赤いランナーを拝借遊ばせ!」

「………………」

「……? っ! ランナーというのはこちらのパーツが張り付いているフレームのことでして……!」


 聞いてませんよぉ。

 矢矧清澄のご令嬢はお淑やかな少女ばかりだと聞いていたのですけれど、どうやらそうでもないみたいですね。


    ◆


 彼女は、いつも突然現れます。


「我妻先輩、家庭科で作ったお料理を召し上がってくださいまし!」

「お手洗いですよここぉ」


 どこにでも現れます。


「カレーですのよ!」

「お手洗いですよぉ」


 いつぞやのことです。

 美しい花々の咲く、夕暮れの庭園で呼び止められたことがありました。


「我妻先輩、これを受け取ってくださいまし!」


 両手にハートのシールが貼られた、分厚いピンク色の封筒を差し出されました。

 うわぁ、重たそう。


「ぜひ私のことを知って頂きたくて……少し長くなってしまったのですけれど……」


 おや、思ったより軽い。


「拝見しても?」

「もちろんです」


 中から出てきたのは、BDのケースでした。


「ガンダムです」

「ガンダム……」


 ああ、あの。カドカワでしたっけ……。

 へぇ。

 ビデオレターとかじゃなくて……?


「私が命よりも大切にしているコレクションですの……」

「そんな大切なものを受け取れませんわ」

「いいえ! これが私の気持ちですもの!」


 想いの持ち方が独特。


「ですから、その……っ」


 すごく距離が近い……。


「これからは樹里亜お姉様と、お呼びしてもよろしくて!?」


 あと単純に声がおっきい……。

 部活やってると肺活量鍛えられるのでしょうか。


「気持ちは嬉しいのですけれど、私なんかがお姉様なんて、おこがましくて」

「私も姫瑠で結構ですわ! 呼び捨ての!」


 私、本当に興味のある人間しか、下の名前で呼ばないんですけどねぇ。


「ふふっ、考えておきますね?」


 とは言っても相手は、他愛ない下級生です。

 今もほら、顔を真っ赤にしている他愛のない少女ひとりを、御せないはずもないのですし。


「はい……よろしくお願いしますわ、お姉様……っ」


 私の計画を、せいぜい邪魔しないでくれればいいと思うのでした。


    ◆


 私が学園に馴染むための努力は、生徒だけではありません。

 こうした箱庭で力を持つのは、やはり教師です。

 相手が年上で不安? やり込まれてしまいそう?

 いえいえ、そんなことはありません。


「はぁ、あっ……そこ、ぅ……樹里亜、さ……ぅ……っ」


 だって女医と女教師なんて、スケベな女しかならないんですよ?


「汗かいちゃった、久しぶりに……紅茶、いる?」

「頂きます。だって、先生が求めてくださるんですもの……嬉しくって」


 その二つが組み合わさった養護教諭なんて、ドスケベに決まっている。そういうことですねぇ。

 先生への憧れを仄めかす少女を演じれば、とても喜んでくれるんですよ。


「ベッド、早く直しとかないと。最近お客さんが多いんだ」

「あら、そうなのですか?」

「そ。体調崩したって生徒がね。おかげで薬がなくなるよ」


 矢矧清澄は寄宿舎が併設されているので、養護教諭は常駐のお医者さんも兼ねています。

 資格の関係なのか、薬の処方もしていました。

 ここは小さな箱庭ですから、例えば1型糖尿病の生徒がいれば、皮下注射を処方しなくてはなりません。そういう意味で求められるものが多い役職なのですね。


「またご実家にお世話になると思いますが、よろしくね」

「はい、祖父と父にはよく言っておきますので」


 その関係で、学園長と彼女だけは、私が薬袋の人間であることを知っています。

 お祖父様が連絡したようです。つまりは、私を見張っていろということですね。


「薬袋のご両親は、清澄についてなんて?」

「素晴らしい学園だと申しておりましたわ。このまま矢矧関係の短大に通うのが、一番よいのではないかと」


 正確には、それ以外の進学は許さないってことなんですけどね。多分ですけれど、ここなら少しは落ち着いていると思っているのではないでしょうか?

 まったく、失礼しちゃいますわ。私はどんなところでも変わらないというのに。


「……でね、この年頃って無茶なダイエットする子が多いから。体重計らせることが多いんだけど、すごい痩せてるんだよ」


 少し話が戻ります。


「あらぁ、拒食ですか?」

「いいや、食べたものを日別に書くよう言ってあるから、それはないね」


 そういえば健康ノートのようなものを書いて、何を食べたか学園に提出する時間がありました。さすがは女学園。食べ物も管理されているのなら、親御さんもさぞ安心なさることでしょう。


「ということは、嘔吐?」

「吐きダコがないんだよ。指にね……食欲がまったくないっていうんだから、だから別の理由かも」


 そう言うと、三十代前半の養護教諭は眉根の辺りを強く揉みます。


「おかげで病床が埋まっててんてこ舞い。昼夜問わずの仕事は疲れるわ。胸を貸して……」

「ふふ、私でよければ」


 私、年上の女性に好かれやすいのですよねぇ。

 なんででしょう?

 ああ、女子校生だから!


「名前、呼んで……聞きたいから……」


 ふふっ、禁断の果実って、ついつい手を出してみたくなるものですよね。


「なにか……裏で変な薬でも出回ってるんじゃないかな、って……」


 それにしても、ああ、我ながらなんと便利な声なのでしょう。


「……へぇ」


 これまで、他の誰かと培った時間など関係なく。


「それは、とても大変ですねぇ」


 簡単に、心を見せてもらえるのですから。



 保健室を辞した後、私は校舎を逍遥しょうようします。

 カメラを片手に。祖父が趣味で集めていたものを、転入祝いにもらってきたんです。確かライカM3という名前だとか言っていました。コレクションの中で一番安いらしいのですけれど、古くてもちゃんと映るものですね。お祖父様と同じようにボケて使い物にならないかと思ったのですけれど、ふふっ。


 その骨董品で、私は撮影します。

 学園の至るところを。小さな備品まで。


「ふふふふん、ふふん……ふふふふん、ふふん……ふふふふん、ふふふん、んー……♪」


 ああ、退屈。

 退屈、退屈。

 退屈すぎて、死んでしまいそう。


「お姉様ぁ!!」


 その声を聞いた瞬間、私は意識して笑顔を作りました。

 振り返ると、山岸さんが駆け寄ってきます。


「カメラ、本当に持っているですのね。みんなで噂していたんですのよ」

「まぁ、どんな?」

「誰か被写体になった方はいらっしゃるのかしら? 誰がお姉様に撮って頂けるのかしら? って! そしたら一生の思い出になりますもの」


 それはとても光栄ですね。

 でも残念ながら、私は人間を撮らないんですよ。


「まだ転入して日が浅いから、こうして道を覚えているんです」

「そうでしたのね、とても残念ですわ……」


 すると山岸さんは、勢いよく手のひらを合わせました。


「そうですわ! でしたらこの山岸姫瑠、校舎を案内して差し上げます!」


 わぁ、迷惑。


「大丈夫ですよ。自分で覚えますからねぇ」

「そんなことおっしゃらずに! 私、清澄は長いんですの。裏道から子猫のお昼寝スポットまで、全部網羅していましてよ! いざお任せ遊ばせ!」


 当たり前のように、山岸さんは横に並びます。


「私のご学友でね、リンゴが苦手とおっしゃる方がいますのね。ねちょっとする感じがするって」

「あらあら」

「そしたら『あれを最初に食べたやつ、一族郎党許せませんわ』って……!」

「世界の敵になりそうですねぇ」

「あはははっ!」

「知恵の実がリンゴって俗説らしいですけど」

「えっ!?」


 やはり自然と人目が集まってしまいますね。

 カメラは今度のほうがよいかもしれません。


 矢矧清澄学園は広く、けれど道が狭いので、まるで迷路のようです。内庭の一部は生け垣がずっと続いており、視界が閉じたり開いたりします。

 ここを知悉するには、たしかに時間がかかりそうです。


「ねぇ、お姉様!」

「はい?」

「あちらをご覧になって!」


 山岸さんが大きな声で、遠くを指さしました。


「ここは『ためいき橋』ですわ。ほら、昔のチャペルが見えるでしょう? 今は使っていない建物なのですけれど。その昔、恋した娘が、恋慕の相手を眺めながら、深い溜息をついたことから名付けられたそうですのよ!」


 やっぱり運動をやっていると、視力もよくなるものなのでしょうね。

 ちらりと一瞥してから、私は言います。


「どれのことですか?」

「ほら、一番目立ってましてよ」

「私にはどれも素敵に見えますわ」

「あの! 私がブラだーれジャした時の下着の色と一緒ですわ!」

「ああ、あの白い建物ですねぇ」


 適当に話を合わせるように答えます。


「え、違いますわ」


 私は固まりました。

 嘘でしょう?


「私、あの時は紫に黒のレースが入っているブラでしたもの……」


 なんでドギツい色つけてるの、この後輩……?

 この顔なら普通は白でしょう……。


「私でも、ここからだとぼんやりですけど……でも色が珍しいから、見えて、その……」


 あとチャペルなら基本は白でしょう……。


「……あの、違ってたら申し訳ございません」


 嘘でしょう。


「前に……プラモの片付けの時に、ちょっと変だなぁって、思ったんですけれど……」


 まさか、こんなくだらないことで。


「もしかして、樹里亜お姉様――」


 ブラジャーなんかで、私の秘密が知られるなんて。


「色が、分からないんですか?」


 その時、私は初めて。


『だったら何?』


 自分の喉から、声が出るのを聞いたのでした。


    ◆


「つまり写真は、色を調べるために撮っていたということなのですわね?」

「ええ、実家に送って色を書き起こしてもらうために、ですねぇ」


 カメラの視野角切り替えレバーとやらに触りながら、私は答えます。


 私は1色型色覚異常です。ほとんど色の区別がつきません。これは生まれつきです。普通は目も悪いらしいのですが、私の場合視力は正常でした。それ以外の問題もありません。少なくとも、他人からはそう見えるでしょう。

 おかげで発覚したのも、ずいぶんと大きくなってからのこと。


「そしたら何がどの色か、まるで分かっているように振る舞えるでしょう?」


 なので、私は知りませんでした。

 他人の世界には、色がついているということを。


「お姉様には……どんな風に見えるんですか?」

「全部灰色ですねぇ」


 私の世界は、すべて灰色で構成されています。


 そんな視界に、唯一色がついたように感じたのが。

 世の中を笑顔で満たそうと思った、あの一瞬なのでした。


「お姉様……」

「………………」

「なんか大変ですわね」

「………………」


 この子、デリカシーまでないんですね。

 私だからいいですけれど、普通怒られてると思いますよ?


「けれど色を調べて、一体どうするんですの?」

「覚えるんですよ。物の場所と色を」

「全部……!?」

「ええ、昔からそうしていましたからぁ」


 幼い頃から、ずっとそうしていました。

 すべてが見えていて、まるで色を理解しているように振る舞ってきました。

 きっと、これからもそうするでしょう。


「なぜですの?」

「なぜでしょうね」


 私の声には、ほとんど感情がありませんでした。

 昔からこうなのですよね。本心に近づけば近づくほど、すべてが平坦になるんです。

 まるで熱や色を失ってしまったように。


「なので、他の人には言わないでもらえますか?」


 これまでのような意味で言ったわけでは、決してないのですけれど。


「私とあなただけの秘密にしてください」

「…………っ!」


 その言葉に、彼女は大きく目を見開いてから、鼻を膨らませました。


「でしたら! 代わりに、私もお散歩に付き合わせてくださいまし!」


 おやおや、ふふふ。


「私が、お姉様に色を教えて差し上げますわ!」


 あ、これ面倒なことになりそう。


    ◆


 最近、昇降口の下駄箱を開ける時に、一呼吸置くようになりました。

 確認しないで上履きを放りこむと、中の手紙を潰してしまうことがありますからね。


「我妻さん、またラブレターね」

「これで30通、いえ40通だったかしら?」


 SさんとMさんが、いたずらっぽく笑います。


「モテますわねぇ、〝樹里亜お姉様〟は」


 宛名には『樹里亜お姉様へ』と書かれています。

 最近では廊下ですれ違う下級生たちからも、そう声をかけられることが多くなりました。

 これも、あの子・・・が呼びはじめたせいなのか。

 どちらにしろ、ああ、なんて時代錯誤!


「下級生に好かれるのは大変嬉しいのですけれど、せっかくなら同級生のお友達を増やしたいですねぇ」

「まぁ、贅沢!」


 矢矧清澄のテラスではケーキセットが販売されていて、日によって内容も変わります。今日は季節のフルーツタルトとヌワラエリヤ。一般的な組み合わせですね。


「我妻さん、聖歌隊の推薦があったって本当ですの?」


 SMコンビは、タルト生地を割りながら尋ねました。

 矢矧清澄には様々なイベント事があるそうです。演劇祭、文化祭……その中でも聖歌祭は、学園を挙げた一大行事になっているそうです。


「なら合唱部に入部されるのね」


 矢矧清澄では必ず何かしらの部活動か、委員会に所属しなくてはなりません。お嬢様も文武両道、ということですねぇ。

 ただ私は学園に慣れるまで免除されていました。


「残念だわ、ピアノをなさると聞いていたから、ぜひ音楽部にと……」


 ええ、合唱部もいいかもしれません。

 それまで私が学園に残っていたら、ですねぇ。


「ふふ、どうなるかは分かりませんわ。一度見学してから決めようかと」


 すると足元に、何かが落ちました。


「お待ちになって」


 早歩きの下級生に、拾ったハンカチを渡します。

 三人組の少女は顔を赤くしたまま頭を下げて、走り去っていきました。


「あれ、わざとやってるんですのよ」

「ああすれば我妻さんが拾ってくれるでしょう?」

「おやまぁ」


 そこまで考えます?


「それと、写真ね」

「そうそう、写真写真!」


 SMコンビは、私を蚊帳の外にしてきゃっきゃと盛り上がります。


「下級生の間で、こんなものが出回っていましてよ」

「あなたが撮ってあげないばっかりに」


 ポーチの中から、大量の写真が出てきました。

 私です。あら、こっちも。だいたい横顔ばかりですけれど、あははっ、これなんて接写ですよ。どうやって撮ったんでしょう?


「そりゃ矢矧清澄にはいろんなスポットがありますもの。まだ日の浅い樹里亜さんに気づかれないよう盗撮するなんて、私たちでもできますわ」


 分からないよう、こっそりと匂いを嗅ぎます。

 ボンドのようなプリンターの印刷臭がしません。今どき珍しいフィルムカメラのようです。


「そのうち盗聴でもされて、声まで売り出されてしまいそうね」


 それにしても。

 へぇ、私って傍から見るとこんな感じなんですねぇ。


「ああ、一体どんな方が、こんな素敵な写真を撮ったのかしら?」

「そりゃもちろん、樹里亜さんに恋い焦がれる少女の作品でしてよ?」


 ナチュラルを意識しすぎたでしょうか? なんだか地味すぎません? でも前に目を大きく見せるメイクをしたら、切開ラインは目立つし作ってます感が出るしで散々だったんですよね。色が悪かったのかしら?


「うーん、困りますねぇ」

「うふふ、そうよねぇ」

「まったく! もうひとりのお姉様に継いで、すさまじい人気ですわ」


 まぁ、素敵なお写真。

 もうひとりのお姉様というのは、黒葛原さんのことです。

 すらりと長く細い脚と、ざっくばらんに切りそろえたショートカット、そして意外に面倒見がよい性格が、凄まじい人気を誇っているのだとか。

 でも黒葛原ってお武家様のお家じゃありませんでしたっけ? こんなことされていいんでしょうか?


「お姉様がふたりもいるだなんて、なんだかおかしな話ですね」

「違いますわ! ふたりいることが大切なんですのよ!」

「そうですわよ。カップリングを楽しむんじゃありませんの」


 そんなものですかぁ。

 ああ、だからたまに『黒葛原先輩と付き合っているのですか?』なんて聞かれていたんですね。


「あの黒葛原さんが、すらりとした我妻さんの肩に手を回して……」

「細い腰を抱き寄せて、あの触れれば折れてしまいそうな長い足を絡めて……ふふふっ」


 ……実際は、私が責める側なんですけれどねぇ。

 そのことを知ったら、あなたたちはどんな顔をするかしら?


「お待ちなさい」


 すると早歩きの下級生たちを制止する喝破が聞こえました。


「先生ね」


 クラスや名前を尋ねるのは、長い髪の女性。皺ひとつない真っ黒な服に身を包んでいます。少し猫背気味でしょうか。どことなく暗そうな雰囲気です。

 O先生でした。


「ねぇ、あのお話、ご存知?」

「卒業生の方から……先生の清澄時代でしょう?」

「そうそう、なんでも黒魔術の研究をなさっていたそうで……!」

「占星術部で魔法の実験をしたのでしょう?」


 SMコンビは、はしゃぐように笑います。


「だから、いま学内で噂になってるアレって……」

「もしかしたら、先生の呪いかもって……っ!」


 ああ、これも学園生活が穏やかで、故に不幸であることの証左。


「ねぇ、我妻さんはどう思う?」


 私は紅茶に口をつけて、いつものように笑いました。


「さぁ、不思議ですねぇ」


 ああ、ワインでも飲みたいわ。

 酔っている時は、世界が回って楽しいものね。


    ◆


 さて、その噂について。

 現在、矢矧清澄では体調不良者が続出しています。保健室のベッドが、性的でなく埋まっている件ですね。

 原因は不明です。

 けれど一部では、何かしらの薬が出回っているんじゃないか、なんて言われてるみたいですねぇ。


 日曜のミサでは、薬物の危険性が説教されました。噂については言及せず、体調不良の際はすぐ保健室で相談するように、とのこと。

 事を大きくしないための、苦肉の策と言ったところでしょうか。もし外部に漏れたら、ご令嬢ばかりですもの、大きな大きなスキャンダルになってしまいますからねぇ。


 ところで、信心深い少女たちは不可解な現象を、ときに超常的なものとして処理してしまうことがあるようです。

 ええ、それが呪いであり。

 その呪術者筆頭というのが、O先生でした。


「………………」


 年齢は20代後半くらいでしょうか。だいたい行衛と同じ頃に見え、彼女が今年27歳でしたから、多分そうでしょう。

 あら、ということは行衛って、8年も私の面倒を見ていたのですね。驚きですわ。あははっ、生粋のロリコンですねぇ。本人もそれを気に病んでしまったのですけれど。だって最初は凛とした所作の、他を寄せつけない美しい女性でしたもの。

 閑話休題。

 O先生は、情報などの授業を受け持つ非常勤講師です。矢矧清澄の卒業生で、一度は理工学系に進学して離れたそうですけれど、その立ち居振る舞いは淑女そのものでした。

 ただすごくおとなしい性格のようで、授業の声が小さすぎることもあって、生徒たちには好かれていないようです。


 実は張出窓の美しい図書館で、私は彼女に声をかけたことがありました。


「先生」


 姿勢は悪いけれど、身体のラインがとても美しい女性です。

 おや、処女なんですね。

 私、腰から太ももまでを見ると、処女かどうか分かってしまうのです。なぜでしょう?


「実は……呪いについて、噂を聞いてしまって」


 その手には、禁止薬物についての本が握られています。

 自分の潔白を証明するためでしょうか?


 けれど私は、最初から知っています。


「先生がそんなことをするはずがないと、私は思っています」


 O先生が犯人でないことを知っています。


「だって先生は、私の――」


 呪いなんてものは、存在しません。

 そこにあるのは、常に何者かの思惑だけなのです。


「――憶測でものを言うのは、感心しません」


 伸ばした手を、あっさりと払われます。


 おや。

 私、あっさりと袖にされてしまいました?


「それに、貴女……その声」


 年上には好かれる自信があったんですけど。

 これ、効果のない相手もいるみたいですねぇ。


「ふふっ、失礼いたしました……先生?」


 ああ、残念。

 これで計画が、少し面倒なことになってしまいますわ。


    ◆


 あれから一度、山岸さんと散歩することがありました。


 これまでは部活動や委員会の時間に歩き回ることで、彼女との遭遇を避けていたのですけれど。

 その日はたまたまテニス部がお休みで、山岸さんはひとり食堂に座っていました。

 真剣に読書する横顔が意外で、一瞬時、見つめてしまったのです。


「……あっ、お姉様!! ご機嫌よう!!」


 そのせいで、見つかってしまいました。


「ご機嫌よう。読書なさっていたの?」


 本を読めるくらいの頭はあるんですね。


「お勉強ですの。参考書ですわ。私、将来公務員になりたくって……!」


 おやまぁ、これまた意外です。

 矢矧清澄はご令嬢の学園ですから、基本的には両親の会社を手伝うか、良縁が見つかれば家庭に入ることが多いと聞きます。

 そんな中で山岸さんにしっかりとした将来のプランがあるだなんて、大変立派なことです。


「チケットのもぎりってエッチな言葉じゃないのですわね……」

「………………」


 一体なんの勉強しているんですか?


「お姉様は将来のご予定ございますの?」

「どうでしょうねぇ。実家を継ぐことはありませんが、婿養子をもらえとは言われていますから」


 けれど公務員、いいかもしれませんねぇ。

 学校の先生なんて、きっと不幸な子供たちの手助けができますもの。うふふっ。


「ご実家はどんなお仕事を?」

「ふふふっ、さてなんでしょう?」

「もしかして、化学薬品の会社じゃありませんこと?」


 おやまぁ。


「お姉様、プラモの時おひとりだけ有機溶剤の臭いだと気づいていらっしゃいましたもの! もしくはペンキ屋さん?」


 うーん、当たらずとも……というところでしょうか。

 不思議なところで頭が回る娘ですねぇ。


「薬袋です。ご存知ですか?」

「なんと! 馬鹿おデカい製薬会社ですわ!」

「那森みたいな財閥に比べたら小さなものですよ」

「いいえ! 機動戦士ガンダム14話『時間よ、とまれ』に登場する、人間のサイズと比較すると明らかに100メートルはあるように見える作画ミスのガンダムくらい大きな会社だと伺っていますもの!」


 全然ピンとこないわぁ。


「ご覧になって!?」


 いえ、全然。


「お姉様ご覧になって! お猫ですわ! ここでよくお猫がお昼寝でお休み遊ばせておられるのですわよ!」

「本当ですね」


 なんというか。

 頭がいいんだか悪いんだか、本当に分からない娘ですねぇ。


「あ、よく見るとビニール袋でしたわ」

「………………」


 まぁ基本は馬鹿なんでしょうけれど。

 私はぼんやりと、マスコットみたいな後輩との時間を過ごしました。


「御大がですわァ! コミックス版がですわァ!」

「へぇ……」


 基本的に、彼女が趣味について喋っているだけでしたけれど。

 ごくたまに、普通の雑談することもありました。


「樹里亜お姉様、語学が得意でいらっしゃいますのね」

「ええ、代わりに数学と物理がどうしても。平均以上はとれるんですけどね」

「私は日本史ですわ! それ以外は駄目ですわ!」


 得意科目があるんですね。


「でしたらお姉様……黒葛原のお姉様のほうですわね! に、教えて頂いたらいかがかしら? あの方、学園で一番理系科目が得意ですもの。大学推薦も決まってるって。お二人は大変仲が良いって聞いてますわ!」

「どうでしょう? 向こうがそう思ってくださっているなら、嬉しいですねぇ」


 こうして会話をしていると。

 彼女の人となりというものが、はっきりと見えてきます。


「お姉様って、ぜんぜん汗をかかないのですわね」

「昔からこうなんですよ。走れば出るんですけれどねぇ」


 覗きこむように相手を見る。


「私の叔母が申しておりましたわ! 汗をかかない方は、なんか、特別だって!」


 歌うように話す。


「あははっ、詳細忘れてしまいましたわぁ!」


 両手で口を抑えて笑う。


「今度こそお猫ですわ!」

「本当に?」

「信じてくださいまし。ぷっくらと肥えていて、色は黒ですのよ。ほらっ」


 ああ、この子って。

 きっと、愛されて育ったんでしょうねぇ。


「やっぱりお猫ですわぁ……!」


 物質的にも、精神的にも、何不自由なく育った子。何かが不足していたら、それがなんだかすぐに分かるほどに、とても満たされている。

 簡単に言えば、自分にとても自信があるのです。


「ためいき橋で休憩しましょう、山岸さん?」

「あぁ、姫瑠と呼んでくださいまし……!」


 私は理解します。

 なぜ山岸姫瑠が、どうにも噛み合わないように感じていたのか。

 この矢矧清澄の中で唯一、世俗への苦しみを感じない。

 彼女は、いつも笑顔なのでした。


「ふぅ……」


 であれば山岸姫瑠さんに、我妻樹里亜は必要ないのです。

 ならば、ああ、私は。


「改めて見ると、美しいチャペルですねぇ」


 ああ、我らが主よ。

 そこにおられるのですか?


 不幸な人々を笑顔にしたいと願う私は、何か間違っていますか?


「え、ここから見えるんですか?」

「………………」


 もしも間違っているというのなら。

 きっと私は、あなたを殺すのでしょう。


    ■


 寮室のドアが、コンコンと音を立てました。

 小さな小さなノック音。まるで人目を憚るように。


「あの、申し訳ございません……このような時間に……」


 立っていたのは、見たことのない下級生の少女でした。


「こちらに伺えば……その……呪い・・を払って頂けると、聞きまして……」


 ああ、可哀想。


「お願いします……お姉様」


 本当に、本当に可哀想に。

 ここに来るまで、とても怯えていたでしょうに。


「ええ、もちろんですわ……さぁ、こちらへどうぞ?」


 背中に触れながら、私は自室へと誘います。


    ◆


 矢矧清澄高等部一年生が、ひとり病院に搬送されたそうです。

 告げられたのは、朝のHRの時間でした。一瞬騒然となるクラスに、教師は一度手を叩いて、健康面に問題があると感じた生徒はすぐ保健室に向かうように、と。

 さすがの世間知らずなお嬢様も、そろそろ気づく頃でした。

 ――この学園で、何か不穏なことが起こっているのではなくって?


 このように不安が蔓延していたら、それだけで調子を崩してしまいます。

 人間不思議なもので、精神的に不安を覚えると、突然体調を崩すものです。多感な少女であれば、とくに。

 今日は授業中に、5人ほど気分が悪いと保健室に向かいました。


 その週のミサは、いつにも増して女子生徒が熱心に祈りを捧げていました。

 困った時の神頼みはどの時代も変わりなく、満ち足りているはずの少女たちも、我が身に不幸が訪れないよう、強く願うのです。


「あの……お姉様……っ」


 そしてクラスメイトを見舞うため保健室に向かう途中に、私は下級生から声をかけられました。

 まだ強く幼さの残る少女は、両手を握りしめながら、震える声で言います。


「呪いの、ことで……私、怖くって……お友達に、相談したら……お姉様が、払ってくださると、噂が……っ」


 ええ、すごく怖かったのですね。きっと怯えていたのですね。


 あなたの神では不安? 皆の主は頼りにならない?

 そうでしょう、そうでしょう、分かりますよ。


「ふふっ……では消灯時間後、白樺寮にいらしてくださいね?」


 私が、皆さんに笑顔を授けて差し上げますからね。


    ◆


「樹里亜さん、薬袋の家の方って本当なの!?」


 鼻息荒いSMコンビに尋ねられたのは、ある日の昼休みのことでした。

 他の同級生たちも集まり、私を中心に輪になります。


「薬袋って、あの製薬会社の薬袋!?」

「どうして隠していらしたの?」

「我妻さんは、慎み深い方だから……!」


 湧いて出た明るい話題に、彼女たちは目を輝かせて笑います。


「だったら、病気のお薬なんかも簡単に手に入るのね」


 Mさんは何気なく言い、周囲も同調して穏やかに手を叩きます。

 彼女たちがその言葉の本当の意味に気づくのは、はたして何日後になるでしょう?

 一週間後、明後日、はたまた今日?


「……ふふっ、転入したばかりで緊張して」


 さてさて。

 私が薬袋の人間であるということは、本来知られてはいけないことです。

 お祖父様に叱られてしまうから?

 ええ、ええ、それもあります。


「つい、言うきっかけがなくなってしまったんです」


 けれど問題は、どこから漏れ出たのかということ。


 私は矢矧清澄学園に訪れてから、ひとつだけ大きな失態を犯しています。


「これまで通り仲良くしてくださいね、皆さん?」


 薬袋の人間であると自ら告げたのは、山岸姫瑠さんのみなのでした。


    ◆


 放課後、私は廊下に立っていました。

 カメラを片手に持って。


「お姉様ぁ~っ!」


 笑顔を浮かべ、振り返ります。

 山岸さんが走ってきました。


「校内散策ですの? 色調べの」

「廊下を走ってはいけませんよ。ええ、そうです」

「ご一緒! ご一緒!」

「ふふふっ、ぜひどうぞ」


 フィルムをケースに戻してから、私たちは歩き出します。

 矢矧清澄は敷地内各所に教室が置かれているため、放課後の本校舎は人がまばらにいるだけでした。大体の生徒が部活動、もしくは委員会活動中だからです。


「テニス部が重なって全然ご一緒できなくって。私、間が悪いのかしら」

「いえいえ、むしろ良いんですよ、あなたは」


 ほぇ、と山岸さん。


「そういえば最近、体調不良の方が増えているそうですわね」

「山岸さんには縁のなさそうな話ですねぇ」

「元気が取り柄ですもの! でも風邪かなと思ったらすぐに保健室ですわ! 本日も鼻水が出たので、お薬もらってきましたの!」


 鼻かんで終わりな気もしますけれど。


「お姉様も保健室あそばせ!」

「考えておきますわね」


 私たちは校舎を出て、横並びに歩きます。


「アーチ、灰色。生け垣、緑。奥から2つ目のベンチは白、4つ目だけは青。タイルは赤褐色6枚と、それを囲いこむように白。」

「すごいですわ、全部正解ですわ!」


 山岸さんは大きく拍手しました。


「お姉様、本当にすべての物の場所と色を覚えてしまいましたのね!」

「ええ、おかげで学園にも詳しくなってしまいましたねぇ」


 夕暮れの庭園は、それはそれは美しい場所だそうです。

 取り囲む花々と、白を基調にしたお茶会用のテーブルが、飴色の夕陽と空気に呑みこまれ、この世のものとは思えない幻想的な景色になるのだとか。


「あら、こんなところに新しい柵が立てられていますわ。お猫が花壇を荒らしたからかしら」


 けれど、私にはよく分からないんですよねぇ。


「お姉様、この柵は紺に近い青色ですわ! グラデーションになっていて、下にいくと黒っぽく」

「ねぇ、山岸さん」


 私は、その背中に尋ねます。

 振り返る彼女を、まるで値踏みするように。


「青色って、どんな色ですか?」


 色を情報として理解していても、それがどんなものか、私には分かりません。

 そして色の説明って、誰も出来ないんです。おかしいですね、なぜでしょう? だって見えているんでしょう?

 幼い頃、行衛にした最初の質問がこれでした。彼女は困ったように笑うだけで、結局答えてくれることはなかったのです。

 だったら、説明できないものって、果たして見えていると言えるのでしょうか?


 ねぇ、あなたには分かります?


「分かりませんわ」


 彼女は、あっけらかんとした間抜け顔で言いました。

 そして、どこからかタブレットを取り出します。


「でも分からないものは数値にしちゃえばよいと、叔母様が常々言っていましたわ! ですので、ほらっ」


 自分の顔を写して、その画面を向けてきます。


「気になる部分をタップすると、ね、右側に色の数値が表示されますのよ!」


 満面の笑みの山岸さんの隣に、数値の羅列が並びます。読み方は分かりませんが、どうやら色を細かく数値化しているようです。

 つまり、これは色を抽出するアプリです。元は写真家やイラストレーターのために作られたものだそうでした。


「……へぇ、こんなものがあるんですねぇ」


 例えば、これが動画上でも可能であれば、リアルタイムで色を把握することができます。色の表示はもっと分かりやすくしなくてはなりませんね、インターフェースも弄る必要があるでしょう。

 もっと言えば、カメラのレンズを目に埋めこんでしまえばいいのです。人工網膜などの研究成果はすでにあったはずですし。


「姫瑠の髪は茶色ですのよ。お手を拝借ですわ」


 そう言うと、首を傾げるような仕草をしながら、自分の長い髪を私の手に乗せました。


「体質もあるのですけれど、小さい頃からドライヤーのし過ぎで色が変わっちゃったんですの。昔はちょっとヘコんだのですけれど、でも今は気になりませんわ」


 私の癖毛とは違う、さらさらとした感触が伝わります。

 柔らかく、まるで羽のよう。


「どうして?」

「お姉様の髪の色と、お揃いですもの!」


 もしかしたら。

 茶色というのは、こんな感覚の色なのかもしれません。


「あ、前のお猫様ですわ!」


 ふわっと髪が舞って、指の間を通り抜けていきます。

 それを私は、目で追いました。


 いつもの場所でごろ寝している猫を捕まえて、なぜか逃して(ならなぜ捕まえたの?)思いついたように山岸さんは言います。


「お姉様、ご一緒に写真を撮りましょう!」

「なぜ?」

「私の色を覚えて頂こうかと思いまして!」

「このアプリがあれば、必要ないでしょう?」

「それは、ほら、あれですわ、思い出というか、私も欲しいと申しますか……!」


 山岸さんは鼻息を荒くしてまくし立てます。

 私は微笑みを作って、了承しました。


「あっ! ご機嫌よう! 不躾なお願いとなって恐縮ですが、こちらのシャッターを押してくださいまし!」


 基本的に人間は撮らないことにしています。だって人はすぐに色が変わって、そのくせ非常にシンプルで、とても退屈なんですもの。


 ならどうして?


 あなたの色は、たしかによく分かりませんから。


「いきますよー。はい、チーズ」


 私たちは横並びになって、校舎を背景に笑顔を浮かべます。


「いえーい!!」

「声おっき……」


 まぁカメラにフィルムは入っていなかったんですけれどね。


    ■


 矢矧清澄の門は、19時半に閉まります。

 ただ寄宿舎が敷地内にあり、消灯は22時。なので部活動がある生徒たちは、19時の点呼を逃しても、その時間までに自室に戻っていれば問題ありません。


「あら、お姉様!」


 普段は私から声をかけるようなことはありません。ですから彼女は、とても楽しげに微笑みました。


「いま部活終わり?」

「はい! 自分、いえ私、高等部でもテニスをやるつもりですの。大会が近いので、毎日熱血ですわ……!」


 ぐっと両手を握りしめるような仕草をします。

 まぁ、可愛らしいこと。


「でも少し頑張りすぎたからかしら……ちょっと、この辺りが気持ち悪くって」


 彼女は胸の辺りを抑えながら、眉根を寄せます。


「おや……でしたら私の部屋で休憩いたします?」

「えっ、いいんですの?」

「ちょっとしたお茶菓子ならありますから、調子がよくなったらお部屋に帰るというのは?」

「けれど、今からお伺いして消灯時間に間に合うかしら」


 髪を撫でつけながら、私は笑います。


「バレなければ、どうってことありませんわ」


 寄宿舎は高等部に上がると一人部屋になります。

 彼女にとっては珍しく、興味深そうに眺めていました。


「ふふっ、そんなにきょろきょろされると恥ずかしいわ。さぁ、紅茶をどうぞ」


 私はミネラルウォーターのボトルを開けて、理科実験室からくすねてきたビーカーとバーナーでお湯を沸かします。

 くすねたというのは、適切な表現ではありません。

 私がお願いをすれば、大抵の人が譲ってくれるのですから。


「お味は如何かしら」

「大変美味しゅうございますわ」


 山岸姫瑠は教育がしっかりと行き届いており、カップに口をつける姿も整っていました。


「部活動のほうはいかがですか?」


 彼女は、さぞ人に愛されているであろう笑顔で愛嬌を振りまきます。

 面白くない話も、目的があれば聞いていられるものです。


「お姉様はテニスってどうして一度に15点入るかご存知ですの? 私は分かりませんわ!」


 よくしゃべります。


「バイストン・ウェルにですわ! 海と大地の狭間ですわ!」


 本当によくしゃべること。

 けれど私にとって、退屈な人間であることには変わりません。


「だから私、その怨念だけ、を……」


 私の退屈を殺せるのは、ただ一人。

 きっと、あの娘だけ。


「おや、体調が悪化してしまいましたか?」


 スカーフを外して、目隠しのように巻き付けます。


「はぁ……っ」

「顔が真っ赤になってしますよ。少し胸のスカーフ……楽にしましょうか?」


 そして微かに汗ばむ上半身から、上着を剥ぎ取ります。

 形のよい胸が顕になり、微かに揺れました。


「ふ、ぅ……ん……っ」


 ああ、何度触ってもいいものだわ。

 まだ誰にも犯されていない、乙女の乳房は。


「大丈夫ですよ、こんな時間ですもの、誰も見ていませんわ――」


 その柔肌に、私は唇を近づけます。


「あの窓に映る、清澄の落葉樹と――」

「――私以外は、ねぇ?」


 小さなノック。


「ふふっ……こんな時間に失礼いたします」


 その姿が、月の明かりに照らされます。


「けれど前にもこんなことがありましたよね、ふふっ、だからおあいこでしょう?」


 音もなく、彼女は立っていました。


「改めて、ご機嫌よう……黒葛原侑雨李さん?」


 我妻樹里亜は、立っていました。


 小さな悲鳴が、口の中で漏れます。

 どうしてここに。


「まさか私が、なんの意味もなく、何度も校舎内を徘徊すると思います? 矢矧清澄には隠れスポットがたくさんある。それを隈なく調べ上げれば、誰にも見つからず監視できるポイントがありますものねぇ」


 樹里亜さんは当然のように、部屋の鍵を締めます。


「あなたが私にやっていたことでしょう、黒葛原さん?」


 模造刀の隣りにある、大型のフィルムカメラに視線を移しました。


「私が散歩しているのは、基本的に部活動の時間なんですよぉ」


 そう言って、矢矧清澄に出回っている隠し撮り写真をばら撒きました。


「であれば委員会に所属していながら、古いフィルムカメラを持っている人間だけ……でしょう?」


 証拠など必要ない、言い訳の利かない状況を、すでに作られていました。

 一体、いつから気づいていたの。


「ふふっ、私、とても便利な声を持っていましてぇ……質問すると、なんでも答えてくれるんです……それこそ、長い時間で培われた愛など、無惨に葬ってしまうほどに、ねぇ?」


 あいつ、と私は悪態をつく。

 あの保険医、私に夢中だったはずなのに。これだから下賎の家の者は嫌いなのよ。


「それはお互い様ではありません? だって私が薬袋の人間であると知ったのも、彼女からでしょう?」


 私は、二の句が告げませんでした。

 山岸姫瑠の紅茶に混ぜた薬の残りを舐め取って、歌うように笑います。


「ぺろ、これはプリンペラン! なーんて、味で分かるわけがないですけれどねぇ、あははっ!つまり吐き気止めですねぇ、これも出どころは養護教諭ですか?」


 最初に起こったのは、少女たちの体調不良と体重減少。

 女学園にはよくある、なんでもない些細な問題。


「けれど彼女たちには、吐きダコがなかった。その上で食欲がまったくなくなったのであれば、考えられるのは血糖値を下げるGLP-1作動薬でしょう? ダイエット薬にも使われますものねぇ」


 不穏な噂に感化された少女たちは、悪い空気にあてられて体調を崩す。


「トルリシティの副作用は悪心、吐気、下痢、腹痛など。体調不良で訪れた少女は、養護教諭を経由してこれを服用する。そして一定数は本当に調子を崩す」


 医師に相談しても、体調不良が解決しない。


「ああ主よ! 医師にも神にも解決できなかった病気を治すために、私はどうすれば?」


 そんな時、世の人々が一定数そうであるように。


「答えは……オカルトに頼る、ですねぇ?」


 私の母が、そうであったように。


「そういえば黒葛原お姉様はお武家様で、魔祓いについてご存知のはず。そして頼ってきた少女たちに、プリンペランを呑ませる。あははっ、副作用の眠気や目眩で、いたずらも出来てしまいますものねぇ?」


 吐気止めを呑ませ、まじない・・・・をおこなう。

 翌日には、体調不良が収まっている――


「けれどこの錠剤、よく知っていましたねぇ? トルリシティは皮下注射、さすがにそれは目立ってしまう。けれど数年前に内服薬が出たんです。調べたんですか? それとも……その美しいスタイルを守るために、自分で購入していたのかしら? あははっ!」


 図星を突かれて、言葉に詰まります。

 紅茶を一気に飲み干し、私の太ももを人差し指で撫でていきます。


「自身と同じように悩む少女たちの不安を取り除き、さらなる人望を集めると? 薬を使った人心掌握? 薬物による救民済世? それとも洗脳? ああ、それでは痛い! 片腹痛い!」


 まるで腹部を掻きむしるようにしてから、彼女は両手を広げました。


「私、もうそこ・・はとっくに通り過ぎたんですよぉ! 薬物を接種させるには限度がある。もっと、そう! 消耗も手間もない、日常に紛れた何か・・でなくてはならないということに!」


 我妻樹里亜に、すべてを見透かされている。


「あははっ! 残念でしたねぇ。もっと薬を蔓延させてから、最終的に私へと罪を擦り付けようとしていたのに。先生の黒魔術については、汚名を晴らすために動く探偵を作り上げるためですかぁ?」


 けれど、ひとつだけ間違っている。


「私に〝お姉様〟の地位を奪われてしまうのを恐れて、こんなことをしたのでしょうか? ふふふっ、どちらにしろお粗末な」

「違うわ」


 ようやく言葉を発して、私は遮ります。


「私はただ、あなたを真似したかった。薬も、セックスも、我妻樹里亜と同じことをしただけよ」


 声が震えながらも、言葉を継ぎます。


「私は、このすべてが思い通りになる日々が退屈で、退屈で仕方なかったの」


 黒葛原に引き取られて、私はすべてを手に入れた。権力を望めば目の前に、痩せたいと望めば薬が手に入る。これまでの極貧生活とは違って。

 それが、退屈で仕方がなかった。


「………………」


 貴女も同じ顔をしていた。


「それが、貴女にとっての暇つぶしなのでしょう」


 退屈な日々を。


「私は、貴女に似ているのよ」


 この退屈で仕方のない日々を、消してくれると思ったから。


「はぁ」


 彼女は、ため息をつきます。

 けれどそれは、旧講堂を眺めながら、恋慕を抱く乙女の悲壮ではなく。


「そうですか」


 心底興味のない人間に対する、侮蔑の吐息でした。

 彼女は、山岸姫瑠を胸に抱きかかえます。


「あなたは人々を苦しめた。少女たちを苦しめた。これは大変に許しがたい姦邪。けれど、あなたも迷える子羊。この小さな箱で生きる被害者。ですから罪はありません」


 その細腕で少女を担ぎ、歩き出します。


「故に、そのすべてを、わたくしは許しましょう」


 ドアをくぐる直前。


「――……ああ、退屈」


 彼女はまた、歌うように呟きます。


「退屈、退屈」


 そして首だけ振り返るようにして、私を見ました。


 そう、この眼。

 目の前にある、何もかもが映っていない、その瞳。


『――あなたって、本当に退屈』


 ああ……綺麗。


 心底興味のない顔こそが美しい彼女は、静かに去っていくのでした。


    ◆


 それから、一ヶ月。

 あの時を最後に、原因不明の体調不良者が現れることはありませんでした。

 いつの間にか風化していき、少女たちの噂は、あっという間に移り変わります。


「保険の先生が退職なさったって、聞きまして?」

「たしか、ご結婚なさったのでしょう?」

「まぁ、私たちったらとてもお世話になったのに、お祝いもできなくって……」


 養護教諭は、学園長からのお達しで辞職したようでした。たしかに薬さえ見つかってしまえば、出どころを洗うのは簡単でしょうしねぇ。

 その際、彼女は他の名前を一切出さなかったそうですよ。

 つまり一人で責任を負ったわけです。

 おやおや、まるで誰かを見ているようですね。


「有志でお手紙を出すべきかしら、ねぇ樹里亜さん?」


 ということは、あの時、私に真実を婉曲に伝えたのは。

 あの触れたら折れてしまいそうな少女を、なんとか止めてほしいということだったのでしょうか?


「何か理由があるのかもしれないし、そっとして差し上げるべきかもしれませんねぇ」


 ああ、行衛。

 あなたは私のために、あっさりと身を引いた。

 私も同じくらいの歳になったら、あなたの気持ちが分かるのかしら?


 黒葛原さんとは、その後一度も顔を合わせていません。もともとクラスも寄宿舎も違いますから、滅多に会うこともないんです。

 実家に調べさせたところ、彼女もいろいろ大変な立場みたいです。家長が外に作った非嫡出子だったそうでして。黒葛原の姓をもらったのも、5年ほど前のことだそうです。

 だからお武家様にもかかわらず、お尻が軽かったのでしょうか?


「皆さん、私これから用事があるんです」


 ふふっ、だから同じ家族に疎まれている存在として、シンパシーを感じていたのでしょうけれど。


「それでは失礼しますね?」


 ……私に似ている、なんて言われましてもねぇ。

 そんな人間、きっと探したところで、どこにもいるはずがないでしょう?

 もしいるのなら、ぜひ会ってみたいものですね。

 その時、私がどんな感情を抱くのか、興味がありますもの。


 なら、私が黒葛原さんから得たものはゼロだった?

 いいえ、そんなことはありません。


「ふふふふーん、ふふん……ふふふふーん、ふふん……♪」


 まずは同級生たちのネットワーク。

 私は下級生には好かれているのですけれど、同級生の友達はまだ多くありません。大企業や財閥のご令嬢の情報は、いつかきっと役に立つはずです。

 社会的信用を得たい時など、とくに。


 そして、もうひとつ。


「……いました、いましたぁ」


 私はようやく探していた後ろ姿を認めます。


 O先生でした。

 あら、本当の名前はなんだったかしら? えーっと。


思鐘おもいかね先生」


 そうそう、こんな名前でしたこんな名前でした!


「突然なのですけれど、黒葛原さんが推薦を辞退したと伺っております」


 彼女は、ぎょっとしたように身体を縮こまらせます。

 まるで何かを察したようでした。


「ねぇ、先生」


 私が、悪い噂から救って差し上げたんですよ。

 もちろん、善き行いに見返りなど必要ないのですけれど。


「その推薦、私にいただけませんかぁ?」


 お布施くらいは、頂戴してもよいでしょう?


 人妻の件で、私には長い休学期間がありました。後に補習で片付きましたが、お世辞にも生活態度がよいとは言えませんよね。

 つまり進学のためには、試験を受けなければならないのですけれど。

 私、理数科目が苦手なんですよねぇ。


「先生は、そちらの卒業生だと伺っておりますので、教授とも深い繋がりがあるのでしょう?」


 なので目的の情報工学系大学へ進むために、推薦が必要なのでした。

 それが、私が矢矧清澄学園に来た最大の理由です。


「なんのため、ですか」


 あの時、私は思いました。

 この世を、笑顔で満たそう。それがどんな方法であろうとも。笑顔があれば、幸福は必ず訪れる。それを邪魔する神様がいるのなら、殺して取り除いてしまおう。


 なら、神様を殺したらどうしよう?


「あははっ!」


 ああ、こうしよう。

 なんでこの表現を思いつかなかったのかしら!


「新しい神を、創るためです」


 皆さんのために、新しい神を創りましょう。


    ◆


 さて、これが矢矧清澄学園に転入した理由と、その顛末です。

 こうして矢矧清澄の二処女は助かり、やがて一柱の神が生まれるのでした。


「ねぇ樹里亜さん、今日はあの子が帰ってくる日でしょう!」


 皆さんにも、少しばかり笑顔が戻りました。

 一度不幸を経験するからこその尊い笑顔。ああ、私がそれを与えることができて本当によかった!


 ああ、もう少し待っていてくださいね。

 いつか本当の笑顔を、私が授けて差し上げますから。


「みんなで迎えてさしあげませんこと? 貴女がきたらきっと喜びますわ」


 SMコンビに連れられて、私は昇降口を出ます。

 ためいき橋の辺りに、人だかりができていました。


「だぁああれだ!」


 突如、視界が真っ暗になります。


「……山岸姫瑠さん、でしょう?」

「正解です! お久しぶりですわ、お姉様!」


 ブラジャーをどけて、私は笑顔を浮かべながら振り返りました。

 皆さんで私を驚かせようとしていたんでしょうか。でも私、昔からほとんど心拍数が変わらないんですよねぇ。ごめんなさいね。


「お身体の具合は?」

「万全でしてよ! 本当はとっくに元気だったのですけれど、お母様が久しぶりに帰ってきたのだからゆっくりしていけと。部活があるのに、過保護ですわ」


 その後、彼女は病院に運ばれました。摂取量を考えればまったく大したことではないのですけれど、一応念のためにということで。

 ここまで戻ってくるのに時間がかかるとは思いませんでした。


「お休み中はたくさん本を読みましたの! 角川スニーカー文庫でしてよ! 最後に主人公が死んじゃうやつとか、精神崩壊しちゃうやつとか、銃殺刑になるやつとか!」


 この様子なら、何も覚えていないようですし、やはり問題ありませんね。


「あら嫌だ、可哀想なことばかりね」

「姫瑠さんったら読書家なのね、ふふっ」


 そして。

 私の色盲は、未だに知られていません。


 彼女は、私の秘密をしゃべってはいませんでした。

 それは最初から分かっていたのですけれど。

 だって彼女は、ふたつ私の秘密を握っているんですよ。


 色盲と薬袋。

 人にしゃべって面白いのは、間違いなく前者でしょう?


「ねぇ、山岸さんが欠席している間に合唱部へ入部してしまったのよ。酷いでしょう?」


 まぁ私のプランでは、誰かしらの人身御供が必要なのでして。

 彼女が薬を呑んだと知っていて、ギリギリまで見張っていたわけなのですけれど。

 そこは処女を守って差し上げたことで、チャラにして頂きましょう。


「そしたら樹里亜さん、聖歌祭の予行練習で赤いベルと緑のベルを間違ってしまって」


 年頃の少女の『内緒』ほど、軽いものはないのですけれど。

 この子、口だけは堅いようです。


「それはしょうがないですわよ、だっておねえさ……あっ」

「……………………」


 けれど馬鹿は馬鹿みたいですね。


「え、なになに?」

「どういうことなの、山岸さん?」

「あのっ、えっと……どうしましょうお姉さ」


 さて、私の今後について。


「いだァッ!!」


 本当は適当に理由をつけて、薬袋に帰るつもりでしたが。


「ちょっと、樹里亜さん……!?」

「び、ビンタなんてそんな……っ」


 卒業までは、ここにいることにしましょう。


「姫瑠ちゃん」


 監視していないと、何を言い出すか分かりませんし。


『黙れ♡』


 この娘がいれば、退屈することだけはなさそうですしね。








    ◆◆◆


 ……とは言っても。


「本日より指導教官を務めます、我妻樹里亜と申します。チューリップ・プリズンで分からないことがあれば、なんでも質問してくだ、さ……」


「ほぇ?」

「……公務員って、刑務官のことだったんですかぁ」


 ここまで腐れ縁になってほしいとは、思ってなかったんですけれどねぇ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヘンプリ-刑務官今昔物語- Qruppo @Qruppo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る