第8話 スナック・カンカン場

 怯えた青い目をした幼児は母親のスカートに隠れながら、小さな木彫りの子グマの人形を差し出した。きっと宝物なのだろう、これで許してくれと言いたい訳だ。兵士は笑顔でそれを受け取ると、その子の額を最初に撃ち抜いた。


 異端者! 異端者! 異端者!


 叫び声と悲鳴。雪降るカチンの冷たい森で、轟く機銃の咆吼の合間に、乾いたトカレフの銃声が混じる。無数の命の火が吹き消され、血まみれの肉塊となって大地に倒れた。


 ポーランドのカトリックたちめ。正しき神を信奉しない異端者どもめ。貴様らは当然の報いを受けたのだ。誤った神など奉じる異端には死あるのみ。「それ」は鋼の強さと深淵の闇を併せ持つ暗黒の意思。


 だがあるとき、「それ」は気付いた。自分はいつからこの意思を持っていたのだろうと。遠い昔からのような気もするし、たったいま目覚めたような気もする。ただこの身は人間に非ず。人間の手にありながら人間を呪う物、人間を殺すために生まれ出でた機械。トカレフTT-33という名の黒い自動拳銃こそが、この意思のある場所なのだと「それ」は理解した。


 黒いトカレフに触れると人間は意思を飲み込まれる。己の思考が、自分の意思かトカレフの意思かを判別できなくなる。頭の中に僅かに残るのは、ただ人を撃ち殺したいという血への渇望と、真なる神への畏敬だけ。


 こうして黒いトカレフTT-33は人から人へ、戦場から戦場へ、死と硝煙を撒き散らしながら渡り続けて、海を越え空を越え、時代を超えていつしかこの戦乱のない極東の島国へとやって来た。しかしこんな辺境で、まさかあれに出会うとは。


 人間にはわからないかも知れない。だが、「それ」にはわかる。あれは闇に迷う者を誘蛾灯のように惹き付ける悪しき輝き。そして間違った神を奉じる異端者どもにとっては、世界を救う存在となるはず。ならば自らが抹殺せねばならない、真なる正しき神に代わって天誅を下さねばならない。「それ」はそう固く決意した。


 ただし人の身を持たぬ黒い拳銃には、自分が決意した理由がわからない。己を突き動かす衝動の正体を理解するには、何かが決定的に欠落していた。




 個人タクシーの朝は早い。もちろん個人タクシーなので勤務時間は自由なのだが、夜明け前に仕事を始めて昼に二時間ほど休憩、後は日没まで働くのが彼の日常であった。嫁に行った娘からも高校生の孫からも、いい加減に引退しろとうるさく言われている。けれどこの仕事は天職だ。多少体力の衰えはあるものの、まだ目は見えているし、ブレーキの反応だって悪くないはず。安全運転を心がければ、まだまだ働けると彼は思っていた。


 夜は明けたが世間が動き出すには少し早い朝、国道を流していると親子連れらしい二人が手を挙げていた。こんな時間になかなかタクシーは捕まるまい。彼は親切心もあって車を止めたのだが、少し後悔することになった。


 十二、三歳に見える赤い帽子をかぶった娘の方はともかく、坊主頭の大柄な父親の方は粗野な感じで、着ている服は穴だらけ。最近の流行りなのかも知れないが、子供のいるいい大人がみっともない。釣り竿ケースを肩にかけているところを見ると、夜釣りの帰りなのだろうか。娘を連れてやることかね、そんな文句が胸の内にふつふつと湧いてくる。もちろん客商売である、口に出したりはしないが気分は良くなかった。


 親たるもの、子供の手本となる姿勢を見せるべきだろう。自分が子供の頃、大人たちには威厳があった。それが最近の親はどうだ、どいつもこいつも子供が子供を育てているように見える。まったく嘆かわしい。古いと言われようと、おかしいものはおかしいのだ。そう他人に言えるだけのことを自分は親としてやってきた、という自負は彼の支えでもある。娘には嫌がられるのだが。


 支払いはカード払いだという。もちろんいまどきの個人タクシーでカード払いができない訳はないが、手数料を取られるので正直あまり嬉しくはなかった。しかも行き先が、家かと思ったらスナックだ。「カンカン場」、変な名前。知らない店だが、住所がわかるならナビが連れて行ってくれる。普通に走れば二十分というところ。たいした儲けにはならないな、と彼は心の中でため息をついた。


 それにしてもこんな時間に開いているスナックがあるというのは知らなかった。いや、待てよ。彼はルームミラーに目をやり、そして一人納得する。この娘、日本人にしては目鼻立ちがちょっとハッキリし過ぎている。おそらく母親は日本人じゃないぞ。スナックは母親が働いている店なんじゃないか。やれやれ、嫌な客を拾っちまった。シートカバーが汚れなきゃいいんだが。


 もう一度ミラーを見ると、すでに父親の方はグースカ眠っている。まったく、自分の子供がこんなでなくて良かった。親の顔が見たいよ。これで本当にいいのかね、いまの時代は。そんなことを思いながら、彼は車を出した。




 カンカン場は駅前商店街から少し離れた、県道沿いにある小さなスナック。営業時間は午後七時半から電車の始発まで。日本の景気が良かった頃は、飲み足りない酔客が朝まで飲み明かすための場所だったのだが、昨今ではガラの悪い連中のたまり場になっている。


 店の駐車場には、ボディに日の丸を描いた真っ黒いバンが停まっていた。昔はもっと立派な街宣車に乗っていたのだろうに、今ではただのワンボックスである。こんなところまで不景気なのだ。


 営業が終わってもう何時間か経つはずなのだが、店内には灯りがついている。白い特攻服を着た背の高い痩せっぽちの男がカウンターで酒を飲み、カーキ色の軍服のような格好をした太っちょがボックス席でウーロン茶を飲んでいた。カウンターの中ではニューハーフのママが迷惑そうな顔でグラスを磨く。


「ねえ、あんたらいい加減に帰ってくんない。アタシもう眠いんだけど」


 特攻服がグラスをカウンターに叩き付けるように、音を立てて置いた。


「遠征組から連絡がない。まだ誰も戻って来ないのはおかしいだろ」


「んなこと、アタシ知らないわよ。そんなに心配なら、警察にでも相談したら?」


 特攻服の斬りつけるような目がママをにらむが、相手はまるで怯みもしない。


「怖い顔してもダーメ。アンタなんかより小ジワの方が怖いんだから」


 そしてボックス席の軍服モドキに顔を向ける。


「ねえターさん、このお兄さん連れてってよ」


 するとターさんと呼ばれた太った男は、口にネズミのような前歯を二本見せて困ったように笑った。


「まあまあ、そない言いないな。こっちとしても、ここまで誰とも連絡つかんのは想定外なんよ。とにかくここで待ち合わせてんのやさかい、もうちょっとだけ待たせてくれへんかなあ」


「だから何で勝手にうちを待ち合わせ場所にするの。迷惑なんですけ……」


 ママが言い終わる前に、外から車のドアが閉まる音。入り口のガラスの向こうをのぞき込めば、タクシーが走り去って行くようだ。こちらに歩いてくる姿がある。三人が顔を見合わせていると、ドアベルを鳴らして扉が開き、ロサンゼルス・エンゼルスの赤いキャップをかぶった十二、三歳くらいの少女が顔をのぞかせた。


「ここか?」


 誰だコイツ、と三人が困惑していると、少女は後ろを振り返った。


「変わった秘密基地だな」


「そんなんじゃねえ。早く入れ」


 少女の小さな背中を押して店内に入ってきたのは、坊主頭に迷彩柄のシャツ、三人にも顔馴染みの地豪勇作だった。


「あら、ユウちゃんじゃない。アンタも遠征に出てたの?」


 特攻服の男は、勇作の背後に誰かいないか目をやる。


「地豪、おまえ一人なのか」


「何でやの。一人だけってどういうことよ」


 ターさんも立ち上がった。勇作は無言で店内を横切ると、一番奥のボックス席に腰を下ろし、そのまま横になる。そして深いため息をついてこう言った。


「どうもこうもない。俺以外は全員死んだ。殺された」


「ムスリムどもにか!」


 特攻服の男の顔が真っ赤になったのは、酒の酔いが回ったせいではあるまい。しかし勇作は面倒臭そうに首を振る。


「ムスリムは関係ない。いや、関係はあるか。ムスリムもかなり殺されてる」


「どういうことや。わかるように説明してくれんと」


「俺も何にもわからんのだ!」


 勇作の怒鳴り声がターさんの言葉を遮った。


「何もわからんうちに銃を持った男が突然現われて、バンバン人が撃ち殺された。他のヤツらを助けるとかそんな余裕はなかった。自分だけで逃げるのが精一杯で」


「その割に、小娘を連れて逃げる余裕があったんだな」


 特攻服が少女をにらみつける。


「ムスリムのガキか」


「ムスリムじゃねえよ。ピーナの子供だ」


 この勇作の返事に、間抜けな声を上げたのはターさん。


「ピーナぁ? 何でピーナが出て来るのん」


「そんなもん、俺が聞きてえわ」


 投げやりな勇作の返事に、ターさんの目はすうっと細くなった。


「地豪さん、あんたまさか……裏切ってませんわな」


 この言葉に激しく反応したのが、白い特攻服の男。


「おい地豪!」


 しかし殺気の籠もった怒鳴り声を受け止めたのは、赤いキャップの少女の声。


「裏切ってはおらんよ」


 半袖のパーカーにハーフパンツ姿の少女は、カウンターの小皿に乗ったつまみのナッツを一つ手に取った。


「この男に誰かが裏切れるくらいなら、こんなボロボロになってなどいない」


 ナッツを小皿に戻しながら、少女が顔をのぞき込めば、勇作はスヤスヤ寝息を立てている。


 呆気に取られる三人の大人を見回しながら少女はキャップを手に取り、指先でクルクル回しながら苦笑した。


「熟睡してるぞ。ここに戻って来られて安心したのだろうな。もしこれで裏切っていたら、物凄いクソ度胸だと思わないか」


 特攻服とターさんとママはお互いに顔を見合わせ困惑している。少女の腹がグーゥと鳴った。


「……あんた、お腹すいてんの」


 心配げなママに、少女はニッと歯を見せる。


「メロンが食べたい」


「ないわよ、んなもの!」

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