第7話 違和感

 同僚は仮眠に入った。深夜の派出所の前で静かな街を見つめていると、世界のすべてが眠りについているかのようにも思えるのだが、現実はそう甘くはない。実際、深夜に発生する事件は少なくないのだ。


 今夜は早寝シフトで午後九時から仮眠を取った、ということになっているものの、実際九時からすぐ眠りにつけるはずもない。ほとんど眠れないまま同僚と交替するしかなかった。まあ、別段それは自分だけに科せられたシフト編成ではないので、受け入れざるを得ないのだが。


 夜が明けて朝に交替が予定通り来れば、それで非番となる。ヒマを潰すのは決して好きではない。とは言え、警察がヒマなのは悪いことではないはずだ。今夜はできればヒマであってもらいたい。


 同僚は働き者で、ヒマな夜は嫌だと言う。事件があった方が気持ちに張り合いがあるらしい。いつか刑事になるのが目標だといつも話している。若いっていいな。自分などはもうずっと定年退職まで派出所勤務で構わないのだが。


 向上心がない訳でもない。だが地方都市の住人の一員として暮らす派出所の生活も悪くないと思うのだ。さすがに駐在所勤務となると、かなりの覚悟が要るかも知れないが。もっとも、独身では駐在所に回されることもないはずだ。心配するまでもないな。


 結婚か。結婚、したいなあ。でも中年の地方公務員じゃなあ、いまどき誰も相手にしてくれないだろう。老後とか心配はあるのだけれど、こればっかりは縁のものだし仕方ない。潔く諦めるか。


 しかしこれだけ毎日いろんな連中と関わり合っているというのに、何故こうも出会いがないのか不思議でたまらない。ちょっと太ってちょっとハゲてちょっとヒゲが濃いくらいなのにな。あとちょっと足が短いけど。


 はあ、いつまでもこんなことを考えていても仕方ない。いい加減に拳銃も携帯して仕事モードに入らなければ。前の道を通るのはまた長距離トラックか。抜け道になっているのは知っているけど、今夜は少し多い気がするな。お互い様だが、こんな時間にご苦労様だ。いつも我々の生活を支えてくれて感謝感謝。


 ん?


 いま何か落ちたような音がしたが。何だろう。まさか交通事故を誘発するような物じゃないだろうな。一応確認しておくか。後々面倒なことになるのはゴメンだ。報告書は対応した本人が書かなきゃいけないし、これが切っ掛けで厄介なことになって残業とか、目も当てられない。ああ、何事もありませんように。


 確かこの辺だったような気がするんだけど、懐中電灯で物を探すのってなかなか難しいんだよなあ。あれ、これかな。これは、自動拳銃に見えるんだが、ガスガンか何かか? それとも。とにかく回収して……




 県警の刑事部組織犯罪対策局薬物銃器対策課長である鮫村江州は、深夜の課長室で報告を待っていた。机の上に広げられた複数の写真と書類は今夜、いや日付的には昨夜になるが、山村の住人から通報のあったムスリムたちの死体に関するもの。朝までに捜査一課に返却しなくてはならない。


 古い家屋の中にはムスリムの男女や子供の死体が転がり、その外周にはムスリムと、あとどうやら移民排斥運動家と見られる日本人らしき連中の死体もあった模様。車の爆発で死んだ者もいるようだが、大半は銃で撃たれて死亡している。


 弾丸は七・六二ミリのトカレフ弾。ならば使用拳銃は十中八九、トカレフTT-33だろう。オリジナルなのかコピー品なのかまでは不明だが、何をいまどき、この時代にそんな骨董品を引っ張り出して来たのやら。


 アジア某国製のコピー拳銃がヤクザや半グレ集団に流れることはいまでもあるが、さすがにトカレフはもう過去の遺物だ。ちょっと頭のイカレた好事家やマニアが手に入れるならともかく、射撃性能的にも装弾数的にも現代の銃には実用性で敵わないはず。わざわざそんな物を使うメリットなどなかろう。


 なのに山奥で大量殺人に使用され、さらに深夜、ネットカフェの従業員が頭を撃ち抜かれて殺されている。ネットカフェの方はまだトカレフと決まった訳ではないにせよ、その可能性を捨てていい根拠もない。現場に急行させた部下からは防犯ビデオの映像に容疑者の姿が映っているようだとの一報があった。続報はまだない。課長の鮫村としては待つしかないのだ。捜査一課の連中と揉めてなきゃいいんだけれど、と思いながら。


 ムスリムの大量殺人は厄介なことになるかも知れない。マスコミに隠し通せる話ではないし、被害者の人数だけでも海外に速報が打たれるレベルの問題なのに、その動機に民族や宗教といったものに端を発する差別的な意図が存在し得るとなれば、我が国が国際的な非難を浴びるのは確実。もう県警にどうにかできる事態ではなくなる。つまり領分を遙かに超えてしまう。もしも犯人逮捕に失敗などすれば、県警本部長の首をどうするという次元の話では収まらないだろう。


 国家公安委員長には本部長より情報が伝わっているはず。おそらくは県警の総力を挙げて犯人を逮捕し、真相を究明せよと厳命が下るに違いない。最初は。しかしマスコミが騒げば官邸案件になるのも時間の問題、そのときには日本の警察機構全体がケツを蹴り上げられることになる。


 ただし。鮫村は深いため息をついた。ここで焦ってもし誤認逮捕などやらかしてしまったら、ケツを蹴り上げられるだけでは済むまい。万引きやコソ泥なら仮に誤認逮捕をしたとしても、広報が謝罪コメントをマスコミに流すだけで収まるが、今回はそれが絶対に許されないケースだ。捜査一課も素人ではない、その程度は理解しているはずだとは思うものの、自身が陣頭指揮を執る訳に行かない歯がゆさに鮫村は身悶える思いがした。


 本部長や捜査一課長はこう言うかも知れない。「おまえの部署がキチンと仕事をしていれば、こんな事件は起きなかった」と。その理屈に反論はできるが、反論などしている場合でもあるまい。捜査一課がミスれば、それは自分たちの上にのしかかってくる。事件解決までは支援態勢を取り続けるしかないのだ。いま課長としてなすべきは、この現実を部下に徹底して理解させること。鮫村はまた一つため息をついた。




 鉄道の線路に沿って伸びる道路を、地豪勇作は歩いていた。真正面の遠い空が明るくなってきたから、進んでいる方角はおそらく東だ。もうすぐ朝がやって来る。夜を徹して歩き続けているというのに、それを指示したマーニーは勇作の背中で寝息を立てていた。赤いロサンゼルス・エンゼルスのキャップのつばが、右肩に乗っている。いったいどこまで歩けばいいのやら。


 そもそも、何で俺が逃げなきゃならんのだ。確かにあんなことに巻き込まれた以上、こっちも警察に関わるのは遠慮したいが、このマーニーが逃げているのは警察ではないように思える。では何だ。それを問い質しても「そのうちわかる」としか言わない。いったいその「そのうち」はいつやって来るのか。胸の内で文句を垂れていた勇作の足が、ふと止まった。


 まっすぐな道の向こうから、何かがこちらにやって来る。どうやら自転車か。街灯の真下を通過したとき見えた姿は、制服の警察官だ。マズい。


 勇作の左肩には釣り竿ケース、その中には猟銃がある。職務質問でもされたら洒落にならんぞ。だがそこまで考えて、勇作の胸には違和感が引っかかった。自身の経験と照らし合わせても納得が行かない。


 どういうことだ。派出所勤務の警察官が、こんな夜明け前の早朝に自転車でパトロールなどするはずがない。近所で何か事件でも起きたのか。いや、だったら一人で移動するだろうか。


 警察官がみんな真面目で律儀な堅物なら苦労はない。実際には決まりごとを守らないヤツだっている。夜明け前に一人で自転車に乗る警官だっているかも知れない。可能性はゼロではない。勇作は一所懸命、目の前の状況に説明をつけようとするのだが、どうにも違和感が拭い去れなかった。


 とは言え、ここで背を向けて逃げたりすれば不審者以外の何者でもない。とにかくいまは、何とかやり過ごすしかないのだ。腹をくくった勇作の足は再び動き出す。と、その背中から声が聞こえる。


「勇作、鉄砲を撃て」


「あぁ?」


 思わず振り返った勇作の視界の中で、じっと前を見つめるマーニーの静かな声。


「可哀想だが、あのおまわりさんはもう助かるまい」


「な、何言ってんだよ、おまえ」


「見ろ、相手はもう構えている」


 勇作が再び警官に目をやれば、腰を浮かせ自転車を加速させながら、右手の銃口をこちらに向けていた。街灯の下を通る一瞬で勇作は見極める。ランヤードは繋がっていないし、リボルバーでもない。黒い自動拳銃だ。


 乾いた銃声。その直後、目の前で火花が散った。マーニーは勇作の頭を挟むように、背後から両手を前に伸ばして叫ぶ。


「早くしろ! そう何発も防げんぞ!」


 言葉の意味は理解していない。だがいま取るべき行動は理解している。マーニーの言葉が終わらないうちに、勇作は走った。銃を構える警官に向けて右手で釣り竿ケースを振りかざすと、全力で疾走する。


「あ、馬鹿こら!」


 これにはマーニーも驚いた。いやマーニーだけではない、警官も表情こそ変わらないが、一瞬動揺した様子を見せる。その隙に距離を詰めた勇作は、釣り竿ケースを相手の頭目掛けて振り下ろす、と見せかけて、右手の拳銃に叩き付けた。ケースの中身は猟銃、すなわち鉄の棒である。勇作の腕力で思い切り殴られれば、骨くらい折れても不思議はない。片手で持った拳銃など吹っ飛ぶはずだ、その確信を込めた一撃だった。


 だが、飛ばない。


 手応えはあった。なのに警官の右手は黒い自動拳銃を握ったままだ。銃口が明後日の方向を向いているところを見ると、手首の骨は折れているはずなのだが、銃を放そうとはしない。


 その銃口が誰もいない方向へ二度火を噴いた。何だコイツ、そんな思いが勇作の脳裏をよぎる間もなく、頭上で二つ火花が散る。同時に左脚に走る熱と痛み。


 何が起こったのかはわからない。しかしそれで勇作の腹は決まった。両目に獰猛な炎が揺れる。釣り竿ケースが足下から斜め上に走り、警官の顔面をかち上げた。頭蓋骨が砕けるかも知れないとの考えが脳裏をよぎったが、知ったことか。そして振り上げた釣り竿ケースを今度は警官の首筋へと打ち下ろす。これで自転車と共に倒れた警官の右手を、勇作は思い切り蹴り飛ばした。さすがに硬い音を響かせながら、黒い拳銃はアスファルトの地面を滑って行く。


 警官はもうピクリとも動く様子はないが、何であれとにかく拳銃は取り上げておかなければ。勇作が転がるトカレフに近付こうとしたとき、背中からマーニーの鋭い声が飛んだ。


「それに触るな!」


 勇作が思わず立ち止まった瞬間、闇の中で何か小さい物が動いたかと思うと、トカレフのトリガーガードを口に咥える。薄明かりの中立ち上がったそれは、アライグマだ。こんな住宅街にもいるのか、勇作が呑気なことを考えている間にアライグマはトカレフを咥えたまま闇の中に走り去ってしまった。


「危ないところだったな」


 マーニーは勇作の背中で赤いキャップをかぶり直す。


「もう少しであのお巡りさんと同じになるところだったぞ」


「どういう意味だ」


 倒れて動かない――救急車は呼ぶだけ無駄だろうか――警官を見下ろしながら、勇作は釣り竿ケースを左肩にかける。マーニーはどう説明したものかといった風に、小さなため息をついた。


「あの鉄砲は、触れた人間を乗っ取るのだ」


「……乗っ取る?」


「そう、あれを手にした人間は意識を乗っ取られ、人を殺したくて仕方ない殺人鬼になってしまうらしい」


 勇作は唖然と呆れ返った。いかに学のない自分でも、そんな突拍子もないオカルト話をハイそうですかと受け入れられるはずがない。


「おまえ本気でそんなこと言ってんのか」


「おまえ言うな。私だって別にアレに話を聞いた訳ではない。だが行動を見る限り、そうとしか思えないということだ。あの鉄砲は意思を持ち、人を操る」


「いや、いやいや。何で拳銃に意思があるんだよ。物だぞ」


「そんなことは知らん。ただアレはどうにも私が気に食わないらしくてな。だから殺そうと追いかけてくる。ここしばらく逃げ回り続けたのだが」


 マーニーが嘘を言ったり、からかったりしていないことは、何となく勇作にもわかる。だが現実にそんな話が有り得るのか。とてもじゃないが信じられない。


「信じられないか」


 またマーニーは勇作の心を読んだかのようにつぶやいた。


「だったら私を置いて一人で逃げるといい。責めはしない」


「うるせえ」


 勇作はマーニーをおぶったまま、また歩き始めた。こんなピーナの子供なんぞどうとでもなれ、そう思う気持ちもあったものの、どうしてもあの女の最期と自分の母親の姿が重なって仕方ないのだ。


 そう言えばさっき左脚に痛みが走ったはずだが、ジーンズが破れているだけで傷はなかった。もしかしてまたマーニーが治したのか。まあいい、とにかくここから離れよう。何にせよ警官をぶちのめしたのだ、追っ手がかかる可能性が高い。


 空はもう半分くらいが白くなっている。この朝は何かの始まりになるのだろうか。悪夢の終わりなら有り難いのだが、そう上手くは行かないのだろう。勇作はぼんやりそんなことを思っていた。




 電柱に取り付けられた街灯の蛍光灯が、球切れを起こし点滅している。その電柱の向こう側に立つ全身黒づくめの少女。黒薔薇で囲まれた黒いドレスハットのつば越しに、歩き去って行く勇作とマーニーを、黒い大きな瞳で見つめていた。


「“りこりん”、大発見」


 その手には黒く漆塗りされた鞘の、短い刀。


「蝶断丸、ユーシー?」


 刀が返事をする訳ではない。だが少女は満足げにうなずくと、爪先の丸い黒のロングブーツで一歩踏み出した。勇作たちの後を追うのだろう。足下にはマルチーズのボタンが寄り添う。


「ああん、どっかでシャワー浴びられないかなあ」


 そんなことをつぶやきながら。

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