中島千尋(2)

 あまりにも似ていた。頭の片隅では、「こいつはゲーム内キャラだ、あいつとは別人だ」と呟いているが、真ん中では大音量で「殺せ、殺せ、殺せ」と鳴り響いている。


『あの……大丈夫ですか?』


 無反応な千尋を不審に思い、男が心配そうに訊ねる。千尋は我に返り、慌てて言葉を入力した。


『すみません。慣れていないもので……』

『そうなんですか。私もそうです。これ広場のイベントなんですよね?』


 男は初心者なのか、自信なさそうに話す。


『あの……そこのレストランの御食事券を貰ったんで、よろしければご一緒にいかがですか?』


 千尋はめまいがした。


「拓海ぃぃぃ……お前は……よくもまあぬけぬけと私に対してそんな言葉を……」


 千尋は無意識に壁を殴ってしまい、ゴンと大きな音が鳴った。


 だがどうする?


 千尋は怒りでパニクっている頭で考えた。


 このままこの男の前で冷静でいられる自信はない。断って別れてしまうか? でも本当にそれでいいのか? 今まで自分がしてきたのはなんなのか? 復讐だ! ならこいつにしなくて誰にするんだ!


 千尋の中で一つの決断がまとまった。


「やってやる! やってやる! やってやるぅ」


『どうやら迷惑みたいですね。大人しく引き下がります』


 無反応な千尋に脈なしと感じたのか、男は立ち去ろうとした。


『待って! ごめんなさい、初めてで戸惑ってしまって、でも行きます』


 千尋はもう迷わなかった。


『大丈夫ですか? 無理していませんか?』

『大丈夫です』

『それは良かった。紹介遅れました、私は吉井貴史です。よろしく』


 男は名前を名乗り、手を差し出してきた。


『私は大田優です。よろしくお願いします』


 握手をしてレストランに向かう頃には、千尋の顔には薄ら笑いが浮かんでいた。



『このレストランはイベントでしか入店出来ないんですね。まあ、入店したからと言って本当に食事が出来る訳じゃないですが』


 お洒落な雰囲気のレストランに入り席に着くと、貴史が浮かれ声でそう言った。

本当に良く似ている。


 千尋はこの顔がショックで歪むのを想像するだけで、歓喜がこみ上げ身震いする。


「絶対に地獄を見せてやる。その顔で私の前に現れた事を後悔するがいい」


『雰囲気のいいレストランですね。ありがとうございます。貴史さんのお陰でここに来られてラッキーです』

『いえいえ、こちらこそ。なかなかイベントの競争率が高かったので、優さんと出会えて嬉しいです』

『本当に縁を感じますよね。運命なんでしょうか』


 その後、二人は他愛のない話をした。ここの住人は皆何らかの傷を持っている。初対面の人間にはどうしても手探りの話しか出来ないのだ。


『またお誘いしても良いですか?』


 別れ際に貴史が優に聞く。


「もちろん、これだけで逃がしはしないよ」


『もちろんです! 喜んでお受けします』


 千尋は本心とは違う意味で貴史の申し出を受けた。その日、二人は友達登録して別れた。


 少しして貴史から優宛にメールが届いた。優さんのような素敵な方と出会えて幸運だとか、とても第一印象が良かっただとか、歯の浮くような台詞が並んでいる。


 千尋の心の中で、ギリッと軋む音が聞こえた。心に充満している、苦しい思い出が湧き出てくる。


 手の内に入れるまでは相手を持ち上げ気分よくさせる。純粋(バカ)な自分はそんな言葉に舞い上がって……そして、堕ちてしまった……。



 千尋は自由になりたかった。


 地方の名家に生まれ、大学までエスカレーター式の私立女子中学に入学。門限も午後六時と厳しく躾られた。もちろん異性との交際など許されるはずもなく、自由な生活に憧れをつのらせるだけの中高生活を送る。


 そんな千尋が生涯初めて親に対して自分の意思を通したのが大学受験だった。親元から離れたいと言う本音を隠し、より高いレベルの勉強をしたいと、首都圏の国公立大学を受験する事を訴えた。反対していた両親も、千尋が真剣に勉強する姿を見てしぶしぶ了解した。


 自由になりたい強い思いを原動力とし、千尋は難関国立大に合格した。初めての一人暮らしは見る物全てが希望に満ち溢れていた。甘い言葉で勧誘され、浮かれ気分のままイベント系のインターカレッジサークルに入会する。その新入生歓迎コンパで千尋は人生を狂わす運命の出会いをすることになった。


 コンパなど初めてで、お酒など一滴も飲んだことのない千尋は未成年と言うのもあり、ウーロン茶で乾杯していた。だが時間が進むにつれ、酔った先輩男性から無理にビールを勧められた。男性と話すら殆どした事のない千尋にとって、酔って絡んでくる先輩は恐怖でしかない。何も言えず小さく固まる千尋。近くに居た同学年の女子も自分に向かって来るのが嫌で助けてくれなかった。怯える千尋に苛立ち、先輩はますます強引になってくる。


 浮かれてコンパなんかに参加した事を後悔し始めた頃、「無理に飲ませるのはやめろよ」と先輩を止める声がした。声の主は千尋と先輩の間に入ってガードしてくれて「ごめんね。こいつ良い奴なんだけど、酔うと人が変わっちゃって……ここは楽しいサークルだからこれからも参加してね」と優しい笑顔で語り掛けてくれた。千尋は初めて男性に優しく守られ、自分が大切に扱われたように感じた。


 それが千尋の運命を変える、拓海との出会いだった。


  有名私大三回生の拓海は、千尋の憧れを体現した男だった。遊び上手でお洒落な服装、交友関係も広く、自由を謳歌している。サークルの女子にも人気が高い。そんな拓海がコンパ以来自分を気に掛けてくれて、何かと声を掛け遊びに連れて行ってくれる。千尋は優越感すら感じていた。


 拓海と知り合った事により、千尋の大学生活は夢のような日々となる。一月後には当たり前のように処女を捧げていた。


 だが夢のような楽しい日々は長くは続かない。拓海の態度が少しずつ変化してきたのだ。いつも一緒にいたいと言い、千尋の部屋に転がり込んできた。当初こそ家事を手伝う素振りを見せ、幸せな同棲生活に思えた。だがそれも続かず、何の手伝いもせず我が物顔で振る舞い、お金を入れるどころか逆に小遣い銭まで要求する事もあった。


 さらに拓海は、少しでも気に入らない事があると暴言を吐き暴力を振るう。そして、そんな夜に限って千尋を優しく抱き「ごめんな、お前の為に仕方なく暴力を振るうんだよ。お前に将来の妻として相応しくなって欲しくて……」とDVを正当化し洗脳する。


 元々男尊女卑の意識が強い田舎の家に育った千尋は、精神を縛り上げられるようにコントロールされ、アルバイトを増やし拓海に尽くし続けていった。


 半年経ったある日。拓海は泣いて千尋にお願いをしてきた。「ヤバイ所から借金して命が危ない。俺の名前ではこれ以上借りられる所はない。お前の名前で借金してくれないか」と。もうその頃には、千尋自身が拓海に尽くし続ける事に依存していた。当然NOと言える訳はなく、千尋は高金利の街金から借金を背負わされ、返済の為風俗に身を堕とした。始めはキャバクラ、次はデリヘル、最後はソープと借金の額が増えるにつれ、ハードな風俗に変わっていく。


 その頃には当然大学にも行かず、そのまま中退。それが両親にもばれ、元々厳格な家柄だった実家からは絶縁されてしまった。


 人間として、女として道を踏み外し堕ちてしまった千尋だが、本人は幸せだった。拓海さえ傍にいてくれれば、いつかは借金を返し二人で幸せに暮らしていける……そう信じていたからだ。だが、そんな甘い夢は当然叶うはずはない。自分の大切な女性なら風俗に堕とすはずもなく、千尋は拓海にとって、ただの金蔓なのは明らかだった。


 千尋名義の借金が増え続け、風俗の稼ぎが支払いで消えるようになると、拓海は外泊する事が多くなった。千尋は浮気を疑い、顔を見れば喧嘩になり暴力を振るわれる。拓海の気を引こうと、千尋は自殺未遂を繰り返し、心身ともに衰弱して、風俗の仕事もまともに出来ない状態になった。そうなると拓海は姿を消し、千尋のもとには毎日のように借金取りが家に押し掛けた。このままではどこかに身売りさせられそうだった。


 拓海とは連絡が取れない、実家は頼れない、借金取りは毎日押し掛ける。もう千尋の逃げ道は「最低生活保障施設」しか残されていなかった。


 施設に入所するバスの中。千尋は左手のリストカットの傷跡を眺めていた。

どうしてこんな事になったのだろうか……。


 私は自由が欲しかっただけなのに……。


 憎い……女に生まれたばかりに狙われ貶められた……憎い……。


 逆に女である事を利用してやる。女を使って男を破滅させてやる。


 千尋は左手首の傷に誓った。

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