スモール・エスケープ

ソンナノ宇宙

第1話

 触発されたのは、関野吉晴さんの『グレート・ジャーニー』。

 まず、それから順を追って……。


『グレート・ジャーニー』とは、アフリカで誕生した人類の祖先が、数万年? の時間をかけて、地球を覆うように拡散していった行程。旅行じゃなく、移住です。

 ただ、それを誰かが「ジャーニー」と表現したので、じゃあ、そのコースを旅してみようじゃないか! という発想が生まれたのかも知れません。

 関野吉晴さんは、単独で『グレート・ジャーニー』を辿り直された探検家。



 関野さんのやり方は、可能な限り、文明の力に頼らずにやり遂げるということ。徒歩や自転車、カヌー、ソリ(トナカイ、犬)でアフリカを目指して足かけ十年で達成されました。ただ、コースは日本からアフリカを目指す逆コース。

 もしかしたら、逆行されたことも一つの幸運だったかもしれません。といのも、連想は身近なところから拡大していく方がスムーズに働きますから。


 関野さんのお話は興味深い点が山ほどあるのですが、なぜ、いちいち考えさせられるかというと、文字で得た情報を頭で考えたものじゃないからです。個人的な経験談というのでもない。

 土地をめぐり、現地の人と過ごすことで、情報以上のものをダウンロードされてこられたのだと思います。記憶って、場所にも保存されてるし、過去の人々の思いはアンテナになる人に降りてきますから。だからこそ関野さんの言葉には、預言のような深みと広がりがあるのだと思います。


 そんな関野さんのお話の中で、とりわけ印象に残ったのは、弱い者が移動したのではないか、というつぶやきでした。

 故郷を捨てて飛び出していく理由は、そこにいられなくなったからです。誰がいられなくなったか? 弱者や少数派、あるいは、競争が性に合わない者たちですね。環境の変化や人口の増大で生存競争が激化すると、強い者が弱い者を圧迫する。多数派が少数派を追い詰めますから。

 世界の果てまで移住するような人たちは、いわば最弱の人たちと云えるかも知れません。日本列島は極東、世界の最果ての一つです。


 ただ、今の日本人がその最弱な人たちの末裔かというと、たぶん違います。縄文人の後には弥生人が大挙してやってきていますし、白村江の戦いの前後にも相当数の人たちがやってきてます。日本国の成立はその壬申の乱の後ですから。

 弥生人からして敗戦国の避難者だそうですが、白村江の戦いの前後は明らかにそうですね。半島の百済人です。弱者が渡ってきたのではなく、敗れた強者が来ている。国史ではその辺り、穏便に吸収したかのように書かれていますが、どうなんでしょう。動植物の場合ですと、たいていは外来種の方が強いんですけどね……。


 生半可な歴史の話はそのくらいにして、

 地理的な逃げ場を失った近代以降の弱者はどうなったのでしょう?


 フリーターやって安アパートに潜んでいるんでしょうか?

 特別の能力もないのに、争いたくない縛られたくないということを優先させれば、そうなっていても全然おかしくないですよね。

 若いうちに目覚めれば、地方で隙間を見つける余地がありそうですが、サラリーマン家庭に生まれ学校教育とマスコミ情報にどっぷり使っていれば、隙間を探して逃げることを考えるどころか、メインコースから外れると生きていけないという恐怖を感じて社会に出て行くことになる。その呪縛を断ち切るのは容易ではありません。弱者のくせに外に出るのが恐くなったりして……。


 と、希望がないような話をしてしまいましたが、幸か不幸か、世界のほうが変わりはじめました。「眠れる弱者、少数派」も、否応なく目を覚まさせられるかもしれません。

「グレートリセット」……ご存知の方がどれだけおられるのかわかりませんが、強者の代表的な組織による、世界規模の大改革がスタートしたそうです。

 これまでのやり方だと資源、環境がもたないので、やり方を根本的に変えよう、というのが建前のようですが、「人口削減だけやって、逆に今のシステムの延命を図るのではないか」と、そう警戒する向きもある(「陰謀論」ですよ!)くらいの、荒波……。


 そう考えると、「グレート・ジャーニー」と「グレート・リセット」、単に字面が似ているだけでなく、セットのように思えてきました。まるで、前編と後編みたいな。

 前編は進出拡大。後編は折り返し。

 もし、その見方が当たっていれば、人類はこれから地理的には撤退に向かうかもしれません。人間が立ち入らない場所を拡大する可能性もあると思います。自然保護の名目で。環境保護のために、一般人は町を出られなくなるかも……。


 こう云っても、地球環境を心配される方などは、それのどこが悪いのか? と思われるかも知れませんが、広い庭のある屋敷での自宅待機と、安アパートの自宅待機とはかなり違います。狭い部屋から出られないとなると拷問のようなものです。


 何やら臭ってきましたね。先ほどは前編と後編のような関係だと云いましたが、「グレート・ジャーニー」と「グレート・リセット」では、主体者が違うんです。

「グレート・ジャーニー」は、争いを避けた弱者、少数派によって行われましたが、「グレート・リセット」のほうは、強者中の強者たちによるトップダウンの大改革。


 変人の妄想と思われるかも知れませんが、論客の中にも、その気配を察知している人はすでにおられて、たとえば、「大いなる物語に注意せよ」と発言されています。

「大いなる物語」を語るのはつねに強者であり多数派だそうです。


 思えば、「グレート・ジャーニー」というネーミング自体が怪しかった。どうやらイメージ操作をやったようですね。弱者が逃げることで世界が開拓されたのに、あたかも雄々しい勇者たちが進撃していったようなイメージにスリ変えた。強者がやったことは、先住民、つまり最初に開拓した者たちを征服する戦争だったのに。


 そういえば、以前読んだ中南米の革命のルポでも、たくましい男たちは浜辺でよろしくやっていたと書かれていました。革命に参加している者たちは貧弱な身体の貧しい者たちばかりだったそうです。「グレート・ジャーニー」の実態も、たぶんそれに近いものだったと思われます。


 長くなってしまいました。

 最後は、希望のもてる話で終わりたいと思います。


 この世界のはじまりが、弱者が逃げ出すことからはじまったのだとすれば、未来の鍵を握るのは、やはり弱者なのかもしれません。

 強者からすれば、「弱者の役目は終わった。お前たちは、もう用済みなんだ」ということかもしれませんが、強者が大好きな「持続的発展」を、人口削減とハイテクだけで実現出来るのでしょうか? 既得権益者に、新たなフロンティアの開拓が出来るのでしょうか?


 人類繁栄の必須条件は、もちろん強者と弱者の共存だと思います、しかしその共存には悲しい宿命があり、時期が来れば、弱者は出て行かねばならない。歴史はその繰り返しだったのかもしれない。

 逆に言えば、弱者が逃げることをやめた時に、人類は危機を迎えるかも知れません……。


「はあ、何云ってるの? 宇宙にでも出て行くつもり? 海の中や地底にでも移住するつもり? そんなのムリじゃん。特に、貧乏人には!」


 ということなんですけどね。仰るとおり、常識で考えれば、今の世界、どこにも逃げ場所は見当たりません。

 でも、弱者の大祖先が森を出た時にも、周囲の草原は猛獣が占拠していたわけです。そういう絶望的な壁を大祖先は乗り越えてきた。


 思えば、「グレート・ジャーニー」の再現に挑まれた探検家も英雄タイプじゃないんです。生まれは平民。立派な体格でもなく、カリスマでもなく、若くもなかった(出発時、四十歳!)。しかも、それ以上に注目すべきは動機です。征服じゃなかったんです。現代社会、現代文明への疑問に対する答えを求めてのフィールドワークだったんです。

 天が呼んだのは、そんな関野さんでした。ナントカ卿というような貴族や野心家ではなかったんです。


 ちなみに、関野さんのその後のことにふれると、関野さんは今も非文明の社会や人々の、小さなエピソードを紹介する活動をされています。

 しかし、関野さんが、わたしのような底辺の弱者と同じかというと、それは違うんですね。関野さんは探検を成功させたことで、組織に属したり、給与をもらわずに生きていけるようになった。つまり、「グレート・ジャーニー」にトライして、「スモール・エスケープ」に成功された。そこも重要だと思います。

 そもそも、存在したのは、「グレート・ジャーニー」ではなく「スモール・エスケープ」だったのですから。「スモール・エスケープ」とは、自分が生きていける居場所を見つけることです。旅は目的ではなく手段に過ぎません。関野さんの旅が本物だというのは、関野さんが自分の居場所を作ることに成功したからだと思います。

繰り返しますが、「スモール・エスケープ」のスタートは逃げ出すことですが、ゴールは、自分の居場所を作ることです。


 興奮して、ついいろいろ喋ってしまいましたが、結論としては、弱者にとって大事なのは「スモール・エスケープ」だということ。

 太古の昔、生まれ育った森にいることがリスクになったように、この社会に留まることの方がリスキーになるかも知れません。その覚悟はしておいたほうが良さそうです。特に、弱者、少数派は。


 どこへ行くつもり? どうやって食べていくの?


 その問に対する返事は、


 このままで、やっていけると思ってるの? ならいればいいよ。

 わたしはそうは思えないの。それだけ……




追記


 かつての言語では、行為者を明確にする習慣がなかったそうです。今の言語では、誰が何をしたか。誰が何をされたか。それが普通ですが、そのような云い方をするようになったのは、比較的新しいのだとか。

 では、それ以前は、どうだったか?

 出来事が語られることが中心だったそうです。「祭りが行われた」というような感じでしょうか。「戦争があった」、「疫病が猛威を振るった」、「平和で豊かな社会が営まれていた」等々。

 何が云いたいか?

「弱者が逃げ出した」というのは、その意味では、間違った表現でした。正しくは、「生存競争の厳しくなった森を出て行く者が現れた」。自分が、じゃなく、そういう人もいた、という感じでしょうか。


 そういう人…… なんだかいいと思いませんか?

 あの人、今頃、どこでどうしているんだろう、みたいな~


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