第24話


 麻紀は以前から、自分が精神疾患を持っているだろうと考えていた。

 特に就職してからというもの、耐えられないことが多かった。


 今は便利な時代で、少し検索すればおおよその診断は自分で行える。

 それでもちゃんと専門科を受診しなければ本当のことは判らない。

 そう考えて、自分の勘違いだ、思い違いだとみて見ぬふりをしてきた。


 確かにとうの昔に、麻紀は限界を迎えていたのだ。

 毎日吐き気がすることのどこが勘違いだろうか。

 休日に吐き気がしたことなんてなかった。

 これのどこが思い違いなのだろうか。

 うまく眠れないのは、もういつからかすら忘れてしまった。


 バラエティ番組を聞き流しながら床に寝そべり、笑い声が響く中で泣くことのどこが正常なのだろうか。

 麻紀は我慢強いのではない。

 わからないふりがうまいだけだった。

 自分に嘘を吐くのがうまいだけだった。


 診察券を返してもらう際、ミニ個人カルテなる冊子を渡された。

 そこにはしっかりと心療内科の予約がされていた。

 また火曜日に来てください、と看護師さんに念を押され、麻紀は困ったように笑いながら頷いた。


 次の日、麻紀は出勤した。

 園田に病院には行ったのかと聞かれて病名を答えた。


 大丈夫かと聞く園田に薬があるから、と答えていつものように店内にモップを掛ける。

 次に社長が出勤してきて園田と同じことを聞くので、同じように返した。

 そして次に珍しく店長が出勤してきた。

 皆一様に同じことを聞くので、同じように返すと店長はさっそく茶化した。

 元気づけているつもりのようだ。


 麻紀はコーヒーの用意をしに休憩室に入った。

 用意をしている最中にやはり吐き気を催して口を押える。


 ちょうどその時、社長夫人が出勤してきた。

 なんとか持ち直して挨拶をすると、無視だった。


 よくあることだ。

 社長夫人はまともに挨拶をしない。


 開口一番に説教が始まるか、無視かのどちらかである。

 二週間に一度、低く不機嫌な小さな声で挨拶が返ってくることがあるが、これはいいこと、ではない。

 むしろその逆で、機嫌が悪い合図である。

 もとい、機嫌が良かったことなどないのだが。


 その日は一日、出社していられた。

 社長夫人は始めこそ腫れ物に触るように接していたが、朝の段階でこいつは今日は帰らないと踏んだのか、いつもとは少し遅れて説教が始まった。


 客も来ない昼下がり、園田が昼休憩で休憩室に行っている間に、社長夫人が話しかけてきた。




「今日はいいの」



「はぁ、今日は最後まで居たいですね」



「忙しくないから五時くらいに帰ってもいいよ」



「じゃあ、そうさせてもらいます」




 気を使っているつもりなのだろうが、麻紀は終業時間まで店に居たことがない。

 入社してから今年の年始まで、研修期間だった麻紀は五時になると帰らされていた。


 そして半ば麻紀が駄々をこねるような形で、正社員のような契約みたいなものが社長によって承諾されてから少しの間は、六時まで居たことがある。


 そもそも麻紀は、社長から採用の電話がかかってきた際、試用期間は三ヶ月で、そこからすぐに社員にすると言われていた。

 しかし今年の春からは何かしらの実権を握ったらしい社長夫人が、麻紀の勤務時間を決めており、あんたは使えない、もう邪魔だと五時になると帰らせていた。例え仕事が山積みだったとしても。


 社長夫人は嫌がらせのつもりだったのかもしれないが、麻紀に言わせれば接客が嫌いで、人付き合いが嫌いで、顔を合わせたくない、居たくもない所から早く帰れるのであれば、何でもよかった。

 残った山積みの仕事は社長夫人と園田がやるので、何か事が起きても麻紀の知ったことではない。


 その日は本当に何もなく、女性社員は五時で帰ることになった。

 麻紀がかばん一つ持つだけの帰り支度を済ませると、タイムカードを切って社長夫人に挨拶をする。

 それが気に入らなかったのか、社長夫人はロッカーを勢いよく閉めてタイムカードを切り、麻紀を押し退けて店を出てしまった。


 やれやれと肩を竦めて帰ろうとした麻紀は、ふと社長が休憩室に顔を覗かせたことに驚いて肩を震わせた。

 滅多に休憩室に入って来ない人物の登場に、麻紀は思わず二度見してしまった。




「ゆっくり休めよ」




 それだけ言うとすぐに顔を引っ込めて店に戻る社長を、麻紀は慌てて呼び止めた。

 火曜日にもう一度、病院へ行かなければならないため欠勤する旨を伝えると、社長は少し考えて快く承諾して店を出て行った。

 その考えるそぶりにいぶかし気に眉をひそめた麻紀は、警戒しながらもフロアに出て残されている園田に挨拶をすると店を出た。


 それからは薬のおかげか早退、欠勤することはなくなった麻紀だが、あいかわらず毎朝の吐き気は欠かすことがなかった。

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